奪われたスプーンと、甘い支配
足を床につける自由を奪われ、文字通り「閣下の腕の中」が私の定位置になってから二日。
私の人生に、新たな試練が訪れた。
それは、公爵邸の華やかなダイニングルームでのこと。
いつものようにお姫様抱っこで席まで運ばれた私は、せめて食事くらいは自力で済ませようと、目の前の銀のスプーンに手を伸ばした。
けれど、その手が触れるより先に。
横から伸びてきた大きな手が、音もなくスプーンを奪い去った。
「……? 閣下、それは私の……」
「座っていろ。……お前はまだ、指先に力を入れるべきではない」
アルフレッド閣下は、私の隣に椅子を隙間なく並べて座ると、まるで戦場の地図でも見るような真剣な眼差しでスープを掬い上げた。
そして、あろうことか、自分の唇で丁寧に熱を逃がすようにフーフーと息を吹きかけ……それを私の口元に差し出したのだ。
「……あーん、しろ」
「………………はい?」
私は、自分の耳を疑った。
今、この、帝国の死神と恐れられる男の口から、「あーん」という、幼児に言い聞かせるような言葉が漏れ出たのだろうか。
「閣下、正気ですか!? 私は病人ではありませんし、手も動きます! 自分で食べられます!」
「……昨夜、お前は寝ている間に、わずかに指先を震わせていただろう。……まだ全快ではない証拠だ。……さあ、早くしろ。俺の忍耐を試すな」
閣下の青い瞳が、すうっと細められる。
(……怖い。……あ、そうか。わかったわ。こうやって私の口に入るものを完全にコントロールすることで、『私が与えるもの以外は口にするな』と無言で圧力をかけているんだわ! 毒殺……ではなく、私を餌付けして、彼なしでは生きていけない体に作り変えようとしているのね……!)
「……う、うう。……あ、あーん……」
私は屈辱と恐怖に震えながら、小さな口を開けた。
差し出されたスープは、完璧な温度で、驚くほど美味しい。けれど、目の前で私の咀嚼をじっと、瞬きもせずに見つめている閣下の視線が重すぎて、味が全くしない。
「……美味しいか」
「は、はい……。とても……」
「そうか。……次はこれだ。肉は小さく切っておいた。……さあ」
次から次へと、運ばれてくる高級食材。
閣下は、まるで小鳥に餌をやるような手つきで、でもその瞳には獲物を逃さない猟師のような光を宿して、私の口に食べ物を運び続ける。
「あ、あの……閣下。もう、お腹がいっぱいです……」
「あと三口だ。……お前は細すぎる。もっと俺の色に染まらなければ、番として認めん」
(……俺の色に染まる!? つまり、体型まで彼の好みに改造するつもりなの!? 逃げられないように太らせて、外に出られないようにする気だわ……!)
私は必死で、残りの三口を飲み込んだ。
すると閣下は、満足げに私の唇の端についたソースを、自分の指先でそっと拭った。
そして、その指を——。
(……ひっ!! 何、今の仕草……! まるで私のすべてを味わい尽くすような……!)
私は顔を真っ赤にして(恐怖で!)俯いた。
閣下はそのまま、私の腰を引き寄せ、耳元で熱い吐息を漏らしながら囁いた。
「……いい子だ。お前が俺の与えるものだけを食べて、俺の腕の中だけで生きていく……。それが、番のあるべき姿だ」
(……番のあるべき姿じゃなくて、それは『家畜』の姿です、閣下……!)
私は心の中でそう叫んだけれど、目の前の男の圧倒的な支配力に抗う術はなかった。
食事を終えた私は、また当然のように抱き上げられ、彼の部屋へと「移送」される。
(自由がない。歩行権もない。食事の選択権もない。……私はもう、この人の手のひらの上から、一歩も出られないんだわ……)
絶望に沈む私の背中で、閣下が私の髪を、まるで宝物に触れるように何度も、何度も指で梳いているのを、私はただ震えながら耐えるしかなかった。
食事、歩行、そしてついに——私の「睡眠の自由」までもが、公爵閣下の手に落ちる時が来た。
その夜、自分の部屋で震えていた私の元に、閣下が枕を……ではなく、圧倒的な威圧感を伴って現れた。
「……リリア。今日から、寝所は俺と共にする」
「へ……? な、なぜ、そのようなことに……!?」
私はベッドの上で跳ね起きた。
閣下は平然とした顔で、けれどその瞳には抗うことを許さない絶対的な「命令」を宿して、私のベッドの縁に腰を下ろした。
「番としての共鳴が強まっている。お前は魔力が不安定だ。……俺の側でその身を浸さなければ、またあの時のように熱を出し、命を落とすことになる。……俺を、再びあの絶望に落とすつもりか?」
(……絶望? ……ああ、そうか。わかったわ。私が死んでしまったら、閣下の『番としての名声』に傷がつくものね。だから、自分の魔力で私を縛り付け、二十四時間体制で監視して、何が何でも生かしておこうというんだわ!)
「で、ですが! 同じベッドだなんて、不潔……ではなく、不敬です! 閣下のお体が汚れてしまいます!」
「構わん。……俺が許可した。来い」
閣下は大きな腕を広げ、私をシーツごと「捕獲」した。
そのまま、彼は慣れた手つきで私を自分の懐へと引き込み、背後から覆いかぶさるようにして抱きしめたのだ。
(ひっ……! ち、近すぎる……! 心臓の音が、背中から直接響いてくる……!)
閣下の体は、驚くほど熱い。
大きな手が私の腰をがっしりとホールドし、彼の顎が私の頭の上に乗せられる。
逃げ場はない。文字通り、指一本動かせない完璧な「封印」だ。
「……動くな。魔力を循環させている。……大人しくしていろ」
(魔力を循環……? うそよ。これ、蛇が獲物を絞め殺す時の動きだわ! 私のわずかな自由を、この熱と重圧でじわじわと奪い取って、精神から屈服させようとしているんだわ……!)
私は恐怖で全身を固くした。
閣下の吐息が耳元にかかるたび、私の肌には鳥肌が立つ。けれど、番の絆のせいで、私の体は勝手に彼の方へ擦り寄ろうとしてしまう。
(ダメよ、リリア! 抗わなきゃ。ここで絆に流されたら、本当にこの人の『魂の奴隷』になっちゃう……!)
私は必死に、目をギュッと閉じて「死んだふり」をすることにした。
息を潜め、石のように動かず、ただ時間が過ぎるのを待つ。
けれど、静寂の中で。
閣下が私の髪にそっと触れ、首筋の紋章をなぞる指先が、わずかに……本当にわずかに、震えているのがわかった。
(……え? なぜ、閣下が震えているの? ……そうか、わかったわ! 憎らしい番を抱かなきゃいけないという嫌悪感に、必死で耐えているんだわ。……こんなに近くにいるのに、心がこれっぽっちも通い合わないなんて、なんて悲しい呪いなの……)
私は、恐怖の向こう側にある「諦め」を感じながら、彼の腕の中で震えていた。
「……リリア。……お前は、俺から逃げられない」
暗闇の中で囁かれた、呪文のような言葉。
それは、私を一生この腕の中に閉じ込めるという、死神の誓いにしか聞こえなかった。
私はその夜、一睡もできないまま、閣下の心臓の音を子守唄(鎮魂歌)にして、朝を迎えることになるのだった。




