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エピローグ 君のいない世界で、僕は最初のページをめくる

あの地獄の公演から、三年が経った。

僕は、大学を卒業し、プロの脚本家・小説家として活動している。ペンネームは、あの時と同じ "Kairos" を使っている。僕の書いたドラマは幸いにも評価され、次回作のオファーもいくつか舞い込んでいた。


机の上に置かれた、真新しい文庫本。それは、僕のデビュー作『虚飾のガランドウ』だった。

あの復讐劇の元になった脚本を、小説として全面的に改稿したものだ。もちろん、橘玲司や月島詩織の個人的な情報を特定できるような記述は全て排除し、あくまでフィクションとして完成させた。

「人間の虚栄心と破滅を描いた傑作」と評されたその本はベストセラーとなり、僕の名を世に知らしめるきっかけとなった。皮肉なことに、僕のキャリアは、あの二人への復讐心から生まれた物語によって築かれたのだ。


時折、あの日のことを思い出す。

全てを失い、楽屋で泣き崩れていた詩織の姿。

罵声を浴び、逃げるように去っていった玲司の背中。

僕の心に、後悔はない。彼らが僕にした仕打ちを考えれば、当然の報いだった。だが、胸の奥に勝利の昂揚感が残っているかと言われれば、それもまた違った。

復讐を終えた時、僕の心に残ったのは、熱狂ではなく、むしろ空虚さに近い静けさだった。まるで、長年かけて書き上げた大長編の最後の句点を打ち終えた時のような、不思議な達成感と寂寥感。

彼らは、僕の物語の登場人物だった。そして、物語が終われば、登場人物は舞台から姿を消す。それだけのことだ。


「先生、お時間です」


アシスタントの声に、僕は思考の海から引き戻される。今日は、新作ドラマの打ち合わせが入っていた。


「ああ、ごめん。すぐ行く」


僕は立ち上がり、窓の外に広がる東京の街並みを見下ろした。

無数の人々が行き交う、巨大な舞台。この街のどこかで、彼らもまた、それぞれの人生という物語を生きているのだろう。

玲司は、実家から勘当され、日雇いの仕事を転々としていると風の噂で聞いた。かつてのカリスマ性は見る影もなく、日々の生活に追われるだけの男に成り果てたらしい。

詩織は、大学を中退した後、地元の田舎に帰ったと聞いた。あの事件は学生演劇界隈で瞬く間に広まり、彼女が女優として再起することは不可能になった。彼女が夢見たスポットライトは、彼女の罪を白日の下に晒すためだけの、残酷な照明となってしまった。


それでいい、と僕は思う。

彼らには、彼らの人生ものがたりがある。僕が干渉する必要も、関心を持つ必要もない。

僕には、僕がこれから描くべき、新しい物語があるのだから。


僕は書斎を出て、打ち合わせ場所へと向かう。

めくるめく日々の中で、詩織の顔を思い出す時間は、日に日に短くなっていった。彼女の甘い声も、太陽のような笑顔も、僕の記憶の中で少しずつ色褪せていく。

彼女はもう、僕の物語のヒロインではない。

ただの、過去の一ページにすぎなかった。


---


打ち合わせを終え、喫茶店で一人、コーヒーを飲んでいた時のことだった。

店の入り口のドアが開き、一人の女性が入ってきた。僕は、読んでいた資料からふと顔を上げる。

その瞬間、時が止まった。


月島詩織だった。


三年前より、少し痩せただろうか。華やかだった化粧は見る影もなく、地味なスーツに身を包み、疲れた顔で俯きがちに歩いている。かつて彼女から放たれていた、人を惹きつける光は完全に消え失せていた。

彼女は僕の存在に気づかず、カウンター席の端に座る。おそらく、営業か何かの仕事の途中なのだろう。手元の資料に目を落とす横顔は、僕の知らない大人の女性の顔をしていた。


声をかけるべきか、迷った。

いや、かける言葉など、何一つ思いつかなかった。

謝罪も、同情も、憐憫も、今の僕にはない。


不意に、彼女が顔を上げた。そして、僕の視線に気づいた。

彼女の目が、見開かれる。その瞳に映ったのは、驚き、恐怖、そして、どうしようもないほどの後悔の色だった。

彼女は何かを言おうとして、唇をわずかに震わせた。だが、結局、声にはならなかった。ただ、その場に凍りついたように、僕をじっと見つめている。


僕は、どうしただろうか。

昔のように、優しく微笑みかけただろうか。

それとも、あの日のように、冷たい目で見下しただろうか。


どちらも違った。


僕はただ、静かに会釈をした。

それは、かつての恋人に対するものでも、復讐の対象に対するものでもない。

街で偶然再会した、ただの知り合いに対するような、ごく自然で、何の感情も含まない会釈だった。


その瞬間、詩織の目から、一筋の涙がこぼれ落ちるのが見えた。

彼女は、慌ててそれを拭うと、深く、深く頭を下げた。まるで、僕という存在そのものに許しを乞うかのように。

そして、彼女は一度もこちらを見ることなく、逃げるように店を出て行った。


ドアが閉まり、カラン、と乾いたベルの音が響く。

僕は、彼女が座っていた席に視線をやった後、もう一度、手元のコーヒーに目を戻した。


あの会釈と、彼女の涙。

それが、僕たちが共有した物語の、本当の最終ページだったのかもしれない。

彼女はようやく、過去の罪と向き合い、自分の足で新しい物語を歩き始めたのだろう。

そして僕もまた、過去という名の呪縛から、完全に解き放たれたのだ。


僕は飲み干したコーヒーカップを置き、店を出た。

空は、どこまでも青く澄み渡っていた。

僕の頭の中には、新しい物語のヒロインが、生き生きと動き始めている。それは、過去に囚われることなく、自分の力で未来を切り拓いていく、強い女性の物語だ。


さあ、家に帰って、最初のページをめくろう。

僕だけの、新しい物語を始めるために。

君のいないこの世界で、僕はこれからも、物語を紡いでいく。

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