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第一話 プロローグ:優しい嘘と甘い裏切り

「もしもし、陽彩? 今、大丈夫?」


スマホから聞こえる甘やかな声に、僕、蒼井陽彩あおいひいろは無意識に頬を緩ませた。手元にあるのは、スーパーの値引きシールが二重に貼られたカツ丼。本来なら昨日のうちに僕の胃袋に収まっているはずだったものだ。


「うん、大丈夫だよ。どうしたの、詩織」


「あのね、ありがとう! さっき確認した! いつもごめんね、本当に助かる」


電話の向こうで、心底嬉しそうに弾む声。幼馴染で、恋人でもある月島詩織つきしましおりだ。

僕はカツ丼の蓋を開ける手を止め、彼女の声に集中する。


「ううん、気にしないで。レッスン代、足りたならよかった」


「足りたどころか、お釣りで新しいコスメも買えちゃった! 今度、陽彩に見せてあげるね。可愛くして、デートしよ?」


「……うん、楽しみにしてる」


「陽彩のおかげで、私、夢に近づけてるよ。本当に、世界で一番の彼氏だよ!」


その言葉が、僕にとっては何よりの報酬だった。

僕の生活費を切り詰めて捻出した五万円。それが詩織の夢、女優になるという目標のための糧になるのなら、僕の食事なんて一日一食、期限切れの弁当で十分だった。彼女の笑顔を守れるなら、僕はなんだってできる。そう、本気で信じていた。


「じゃあ、また連絡するね! これからサークルの自主練だから!」


「うん、頑張って」


通話が切れる。部屋に訪れた静寂が、さっきまでの華やかな声を現実から引き剥がしていく。

僕はもう一度、冷え切ったカツ丼に視線を落とした。卵は固まり、衣はべちゃりと重くなっている。それでも、詩織の「ありがとう」を反芻すれば、不思議と美味しく感じられた。


僕と詩織は、物心ついた頃からの幼馴染だ。

いつも輪の中心で太陽のように笑う詩織と、その隣で本を読んでいるのが好きだった僕。正反対の二人だったけれど、なぜか僕たちはいつも一緒にいた。

高校二年生の冬、彼女のほうから告白してくれて、僕たちは恋人になった。大学も同じところを選び、彼女は昔からの夢だった女優を目指して演劇サークルに入った。

僕は、そんな彼女を支えることが自分の使命だと信じて疑わなかった。


彼女の才能は本物だ。舞台に立てば、誰もが彼女に目を奪われる。だから、僕が彼女の足枷になってはいけない。そう思って、僕は自分のことは全て後回しにしてきた。

自分の趣味である小説執筆も、彼女には「ただの暇つぶし」だと伝えてある。本当は、大手出版社が主催する新人賞で大賞を受賞し、プロの脚本家・小説家としての道が約束されているなんて、口が裂けても言えなかった。

僕が先に成功してしまったら、彼女がプレッシャーを感じてしまうかもしれない。僕の成功が、彼女の夢の邪魔になることだけは避けたかった。だからこれは、僕が彼女のためにつく、優しい嘘なのだと自分に言い聞かせていた。


しかし、その完璧に見えた僕たちの世界に、少しずつ亀裂が入り始めていることには、薄々気づいていた。


最初は、些細なことだった。

二人でいる時、詩織がスマホを伏せて置くようになった。LINEの通知が来ても、僕の前では決して開こうとしない。


「サークルのグループLINE、今すごいことになっててさ。集中できないから、あとで見るの」


彼女はそう言って、悪戯っぽく笑う。僕は「そっか」と頷くしかなかった。


次に、会えない日が増えた。

「公演が近いから、稽古が長引いてて」

「明日は朝から晩まで打ち合わせなの」

女優を目指す彼女だ。忙しいのは当たり前だと頭では理解していても、週末の約束をドタキャンされる回数が増えるたびに、胸の奥が小さく軋んだ。


そして、決定打になったのは、僕からのプレゼントだった。

去年の記念日に、アルバイト代を三ヶ月分貯めて贈った、小さな月のモチーフのネックレス。彼女は「一生大切にするね」と泣いて喜んでくれたはずなのに、いつからか彼女の胸元で輝くことはなくなった。


「あのネックレス、どうしたの?」


ある日のデートで、僕は思い切って尋ねてみた。詩織は一瞬だけ目を泳がせ、すぐに完璧な笑顔を取り繕った。


「あー、あれね! 今日の服には、ちょっと合わないかなって思って。ちゃんと、大事にしまってあるよ?」


嘘だ、と直感した。

去年の彼女なら、どんな服にだって「陽彩からのプレゼントだから」と嬉しそうにつけてくれたはずだ。

疑念が、黒い染みのように心に広がっていく。

でも、僕はそれを問い詰めることができなかった。信じたい気持ちが、不安を無理やり押さえつけていた。僕たちの関係を壊すのが、怖かった。


運命の日。それは、じっとりと肌に纏わりつくような、梅雨の日の午後だった。

大学の講義を終え、アパートへの道を歩いていると、スマホが鳴った。大学の事務室からだった。


「もしもし、蒼井さんのお電話でよろしいでしょうか? 月島詩織さんが学生証を落とされたようで、緊急連絡先であるこちらにご連絡いたしました」


「え? あ、はい。わかりました。僕、届けに行きます」


詩織は今、サークル棟にいるはずだ。電話をかけても、彼女は出なかった。稽古に集中しているのだろう。僕は少しでも早く届けようと、雨で濡れるのも構わずに走り出した。


サークル棟の廊下は、薄暗く、ひんやりとした空気が漂っていた。演劇サークルの部室は一番奥にある。近づくにつれて、中から男女の話し声が微かに聞こえてきた。詩織の声だ。よかった、ちゃんとここにいた。

僕は安堵の息をつき、ドアをノックしようと手を伸ばす。


その瞬間、聞き間違いであってほしい言葉が、僕の耳を貫いた。


「――だから、陽彩には悪いけど、やっぱり玲司さんみたいな人とじゃないと、私、輝けないんだよね」


詩織の、蕩けるように甘い声。

僕に向けられるものとは違う、媚びるような色を帯びた声色だった。

玲司さん、というのは、詩織が所属する演劇サークルの代表、橘玲司たちばなれいじのことだ。法学部の三年で、裕福な家の息子だと聞いている。


「分かってるだろ? 詩織。お前をこのサークルの、いや、学生演劇界のトップに押し上げてやれるのは、あの地味な凡人じゃなくて、この俺だけだって」


傲慢さに満ちた、低い男の声。

心臓が、氷水に浸されたように冷たくなっていく。僕はノックしようと上げた手のまま、硬直していた。

震える指で、そっとドアの隙間に目をやる。


そこには、信じがたい光景が広がっていた。

机に腰掛けた橘玲司の体に、詩織が正面からしなだれかかるように抱きついている。玲司の手は、慣れた仕草で詩織の腰を抱き、髪を撫でていた。僕が一度も見たことのない、恍惚とした表情を浮かべる詩織。


「もう、玲司さんってば、意地悪。でも、そういう強引なところ、好き」


「陽彩とかいう奴との関係は、どうするんだ? いつまでも金蔓として生かしておくわけにもいかねえだろ」


金蔓。その単語が、リボルバーの撃鉄が起こされる音のように、僕の頭の中で響いた。


「うーん……。でも、まだお金は必要だし……。あいつ、私がお願いすれば何でもしてくれるから。もうちょっとだけ、うまく利用させてもらおうかなって。可哀想だけど」


「はっ、お前も大概、悪女だな。まあいい。せいぜい上手くやれよ。次の公演、主役はお前にやる。その代わり、わかるよな?」


「……うん」


玲司の顔が下ろされ、詩織の顔を覆い隠す。二人の唇が重なるのが、シルエットではっきりとわかった。

水音にも似た不快な音が、僕の鼓膜を蹂躙する。


世界から、音が消えた。

色彩が、抜け落ちた。


僕が捧げてきたものは、何だったのだろう。

僕が信じてきた時間は、何だったのだろう。

彼女の夢を応援する、世界で一番の彼氏? 違う。ただの都合のいいATM。思考能力のない、哀れな金蔓。

「可哀想だけど」――その言葉が、僕の心を粉々に砕いた。


怒り。悲しみ。絶望。

ぐちゃぐちゃになった感情の奔流が、僕を飲み込もうとする。

今すぐこのドアを蹴破って、二人を罵り、殴りつけてやろうか。

だが、僕の足は鉛のように重く、動かなかった。代わりに、頭の奥深く、心の最も冷たい場所で、何かが静かに産声を上げた。


そうだ。ここで騒ぎ立てるのは、凡人のやることだ。

彼らが僕を「凡人」と見下すのなら、凡人には到底思いつきもしないやり方で、彼らを地獄に突き落としてやればいい。


僕はゆっくりと、音を立てないように後ずさった。握りしめた学生証が、プラスチックの悲鳴を上げる。

ドアノブに触れることなく、僕はその場を離れた。背後で続く嬌声を聞かないように、ただひたすら、冷たい廊下を歩いた。

降りしきる雨の中を、傘もささずにアパートへ帰る。全身がずぶ濡れになり、体温が奪われていく。だが、不思議と寒さは感じなかった。僕の内側で、激情とは違う、もっと冷たくて硬質な炎が燃え始めたからだ。


自室に戻り、濡れた服を脱ぎ捨てる。シャワーも浴びず、僕はまっすぐパソコンデスクに向かった。

電源を入れると、モニターの光が僕の無表情な顔を青白く照らし出す。

デスクトップに置かれた、一つのフォルダ。

『未発表作品』

その中には、僕が誰にも見せることなく書き溜めてきた、いくつもの物語が眠っている。

僕が詩織に隠してきた、僕だけの聖域。僕だけの武器。


そうだ、復讐しよう。

僕が持っている、たった一つの、そして最高の才能で。

僕がこれから書く「物語」で、あの二人を破滅させてやる。

橘玲司の傲慢なプライドをへし折り、月島詩織が手に入れようとしている栄光を、絶望の泥に塗り替える。

二人を主役にした、最高の復讐劇シナリオを、僕自身が創り上げてやる。


指が、猛烈な速度でキーボードを叩き始めた。

カタカタカタ、と無機質なタイプ音だけが部屋に響く。それはまるで、断頭台へと続くカウントダウンのようだった。


数日が過ぎた。

僕は大学にも行かず、食事も最低限で、ただひたすらパソコンに向かい続けた。

そして、一本の脚本を完成させた。


タイトルは、『虚飾のガランドウ』。


自己愛の強い傲慢な男と、彼に媚びへつらうことでスターダムにのし上がろうとする、中身が空っぽ(ガランドウ)なヒロインの物語。

橘玲司が好みそうな、派手でドラマチックな展開。

月島詩織が演じたいと渇望するであろう、悲劇的で美しいヒロイン像。

二人の欲望と虚栄心を完璧に計算して作り上げた、甘美な毒薬。


僕は新しく作ったフリーメールのアドレスから、演劇サークルの公式メールアドレス宛に、その脚本データを送った。


<件名:新作脚本のご提案>

<本文:貴サークルのご活躍、かねてより拝見しております。大変僭越ながら、次期公演の脚本コンペに、ぜひこちらの作品をご一考いただければ幸いです。才能ある皆様が演じられる日を、心より楽しみにしております。 Kairos>


"Kairos"(カイロス)。ギリシャ神話における、好機を司る神の名だ。

僕にとっての復讐の好機。そして、彼らにとっての破滅の好機。


送信ボタンをクリックした直後、僕のスマホが震えた。詩織からのLINEだった。


『ごめん、陽彩。今日もサークルが長引いちゃって、会えそうにないや(>_<) 埋め合わせは絶対するから!』


僕はそのメッセージを冷たく一瞥し、感情の宿らない指先でトーク履歴ごと削除した。

もう、彼女の言葉が僕の心を揺らすことはない。


――さあ、舞台の幕は上がった。

スポットライトが当たる場所で、君たちが主役の、地獄巡りを始めようか。

僕が書いた脚本シナリオの上で、せいぜい無様に踊り狂うといい。

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