表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

君が誰かと幸せになるより、私と不幸でいて欲しかった

作者: 煉瓦

教室の片隅で鉛筆を落とすと、いつも誰かが笑った。小さな音が波紋になって広がるたび、私は自分が薄くなるのを感じた。名前を呼ばれることは少なく、教科書に書かれた文字がいつの間にか私の目より先に読まれていく。風景の端に追いやられる生活が、いつしか当たり前になっていた。


悠真が初めて私に触れたのは、体育の帰り道だった。薄暗い階段で二人、荷物を抱えて歩いていると、後ろから声がかかった。言葉は刃のように軽く、複数の影が私の周りを取り囲んだ。靴音が近づき、胸の奥が凍る。誰も助けてくれないと思っていた瞬間、背後から悠真が間に入った。


「やめろよ」その声は思っていたよりも小さく、でも確かに私を守る音だった。影はすぐに散り、私はただ息をついた。誰かが自分のために身体を張ってくれた経験が、こんなにも近いものだとは知らなかった。


それからしばらく、私は居場所を得たような気がした。悠真は特別なことは何もしていなかった。小さく会釈をするだけ、廊下ですれ違えば少しだけ視線を向けるだけ。それで十分だった。教室の空気は劇的には変わらなかったが、私の世界の輪郭は少しはっきりした。誰かの側にいることで、自分が存在していることを思い出せる──そんな儚い確信。


いじめは消えた。噂が弱まり、からかいの目が遠のくと、クラスはいつもの色に戻った。安心できるはずの変化なのに、私の胸は収縮した。悠真は以前よりも笑うことが多くなり、部活の連絡や友達といる時間が増えた。彼の輪郭が私の方へと薄れていくように見えた。


「戻ってしまう」のだと、私は初めて怖くなった。救われた──と思った時間は、彼にとっては通過点でしかないらしい。誰かの生活に入れるのは、彼にとってちょっとした親切だっただけかもしれない。だが私には、彼の親切が私の全てだった。


夜、布団の中でその思いは毒に変わった。私に向けられた視線が薄くなるほど、世界の輪郭が崩れる。誰かと幸せになるより、私と不幸でいてほしかった。たとえそれが歪んでいても、私の不幸を彼と共有する方が、彼がいなくなるよりはずっとましだ。そう考えると、眠れない夜が容易くやってきた。


最初は小さなことだった。授業の後にわざと忘れ物をして、彼に助けてもらう。彼は面倒くさそうにして、でも来てくれる。私はその面倒くささを宝物のように扱った。だがそれだけでは足りなかった。普段通りの「助け合い」では、彼は戻らない。彼は正常に生活していく。だから私は、正常を壊すことを選んだ。


ある日、廊下で彼の肩に寄りかかりながら、私はつぶやいた。「ねえ、最近、また変わったよね?」彼は一瞬戸惑い、笑ってごまかした。だがそのときの彼の目の動揺が、私を燃やした。彼を動かす摩擦を私は作りたかった。二人で摩擦を受けるなら、熱が生まれる。熱があれば私は消えない。


私は計画などとは思っていなかった。むしろ本能だった。彼が私から遠ざかるのを止めたくて、私は自分を引き下げ、彼を引き戻した。放課後の自習室で、わざと彼のノートを散らかし、「手伝って」と頼む。昼休みに彼の足元を蹴って転んだふりをし、「こいつ、見てたんだよ」と嘘をつく。小さな演技を重ねるうちに、私たちの間に奇妙な同盟が育っていった。


クラスメイトが再び奇異な目で私を見るようになった。昔と違うのは、以前は私だけが標的だったが、今は二人が寄り添う奇妙な存在になったことだ。噂は「仲がいい」だの「変な関係だ」だのと回った。悠真は最初戸惑っていたが、次第にそれを受け入れるようになっていった。彼の戸惑いは、私の喜びの証であり、私にとっては優しさの延長だった。


共依存という言葉は知らなかった。ただ、私は彼の視線を引き止めるために、あらゆる手段を正当化していた。彼が誰かと笑うことに耐えられなくなったとき、私はその笑いを奪おうとした。私の策略は陰湿だという自覚が芽生える前に、もう彼はそれを受け入れていた。二人でいるときだけ、私たちは世界に対して違う空気を纏えた。


だが寄せ集めた破片で作った絆は脆い。教室の端で私たちが肩を寄せ合っていると、誰かが距離を取る。誘いの声が消え、席のまわりの空気が冷たくなる。平穏という名の保護膜が剥がれる音を、私は聞いた。私はまだ彼を手放したくない。だからもっと強く求め、もっと深く傷を共有することを望んだ。


「一緒にいよう。誰かと幸せになるくらいなら、二人で不幸になった方がマシだ」──それは私の本心の叫びだった。彼は最初黙っていた。目の中に迷いが浮かび、やがて小さな諦めのような笑みが戻る。「分かった」と彼は言った。分かったという言葉は、協定のように強く私を縛った。


私たちはお互いに傷をつけ合うくらいなら、傷を共有しようとした。放課後に帰るふりをして人目につかない場所で長く居続ける。提出物を一緒に忘れ、授業中に注意される。誰かが近づくと私たちは視線を合わせて微笑む。外側から見れば、ただの不良二人組かもしれない。だが私にはそれが確かな証明のように思えた。彼が私と同じ位置にいることで、私の存在は確かにそこで燃えているのだ。


それでも、夜になると不安は戻ってくる。彼の笑い声が、私たちだけのものではないことを思い出す。外の世界は常に私たちを取り戻そうと手を伸ばしてくる。私はそれを阻みたくて、もっと密に絡みついた。二人の世界を狭くして、誰も入り込めないようにしたかった。


結末は静かだ。大きなドラマもなく、誰かが私たちを突き放すわけでもない。ただ日々が減速していき、私たちの周囲の色が落ちていく。教室の蛍光灯が白く光るたびに、私は彼の肩を確かめる。彼もまた私の手の生温さを頼りにしている。幸福を奪われるよりも、見捨てられるよりも、私はこの共依存の温度を選んだ。


最後に、私は小声で呟く。彼の耳元ではない、ただ自分の胸の中に向けて。

「君が誰かと幸せになるより、私と不幸でいて欲しかった」


彼は答えない。答えなくてもいい。それが私たちの契約の全部で、破る日が来るまでは互いにその言葉だけを支えにしていくのだろう。世界が私たちをどう呼んでも、私たちはお互いの影の中に居場所を見つけたのだから。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ