第9話
「一人いない?」
それからさらに一週間、律儀に訪れていた進の耳に紀美から報告が届いていた。
翼という生徒が部活動に来ない、それだけでなくここ一週間学校にも来ていないとのことだ。
「そうなの。担任が親御さんに電話したんだけど父子家庭で忙しいみたいだから日中のこととなると監視が届かないのよね」
「……そうか」
「どうにかしないとなんだけど……いいアイデアない?」
音楽室の前で話をしていると紀美が上目遣いで進の顔を覗いていた。これには進も困り顔、平々凡々なサラリーマンに取り扱い注意な女子中学生への対処マニュアルは社内研修では履修しない項目だった。専門家が素人に聞くんじゃねえと目で訴える。
かといってこのままでいいわけがないとも考えていた。何もせず部活動が空中分解してしまったとき、実家の主である夏希が納得するか否か。どうしようもない理由が高い壁として立ち塞がっていたのだと弁明しても彼女は進を認めないだろう。横から口を出すだけの人とはすなわち無敵だった。
だから、答えは一つ。
「……当たって砕けろってことだろうなぁ」
「……そうだよね」
進と紀美は諦観の境地に至っていた。
「……冷静になって考えてみると、だ」
進はそんな前置きから始めていた。
現在昼前の十一時、五月もそろそろ終わる頃、毎年のように夏を先取りした暑さといわれるなかで今日は比較的過ごしやすい陽気だった。
まだ乾いた風を浴びながら地獄の門のようにそびえる扉の前でため息をつく。ごく一般的な玄関だが、気落ちした進の目には触れることも躊躇う禁忌の門に映っていた。
「俺まで付き合う必要なかったんじゃないか?」
「適材適所なの。部活をサボる人の気持ちに寄り添えるのがあんたしかいないんだからしょうがないでしょ」
「サボってねぇし……く、唇に口内炎が出来てたんだよ」
苦し紛れの言い訳に冷たい視線が飛ぶ。紀美の言う通り、進はたびたび部活動を休むことがあった。それもゲームの発売日だとか深夜のテレビを見て寝過ごしたとかどうしようもない理由で。
そのたびに嘘を用意しなければならないのだが当然すぐにばれる。始めの頃は烈火のごとく怒っていた部員も回数を重ねるごとにまたかと呆れるようになっていた。
ただ同じサボりとはいえ進と翼では状況が違う。翼からすれば一緒にしてほしくないというだろう。進もそれがわかっているからこそ、場違いだと考えていた。
「心細いならそう言えよな。素直じゃないんだから」
「失敗したらあんたのせいにできるから呼んでんの。勘違いすんな」
「やる気出ねぇ……」
紀美らしい台詞に進の気持ちは後退気味である。
四人しかいない部活動はさらに一人減り、スーパーの値引きシールの割合のように削減されては満足に練習も出来ない。そのため三人には自主練と止めおいて、二人は翼の家の前まで来たのだった。
学校からほど近い、比較的町と呼べる個人商店の並んだ一つにそこはある。真新しさの残る一軒家、木造二階建てを見てそれなりに値が張るだろうと考えてしまうのは進が歳を重ねた結果だからだった。
と、人の家の玄関先で騒いでいれば言わずもがな、家の中まで聞こえたのだろう。
「……うっさいんだけど。何しに来たの?」
「新名さん、ちょっと話が――」
「ないから。帰って」
二階から顔を出した翼の態度は冷たい。ではお言葉に甘えてという訳にはいかないのが辛いところ。
物理的に距離がある以上、このままでは埒が明かないのは明白で、翼が外に出るか進達が中に入るしかまともに話はできない。なので一石を投じるために進がとった行動は、外聞を気にさせることだった。
「おーい、このままだと近所に変な噂たつぞ」
「じゃあ警察呼ぶわ」
即断である。現代っ子は強かであった。
しかし進は諦めない。
「甘いな、田舎は教師と政治家とやたら事情通なおばちゃんの意見が通るんだよ」
「じゃあおっさんは捕まるじゃん」
「……せやな!」
自分の理屈で墓穴を掘った進が頷く。いいように言い負かされている姿はなんとも情けない。
それでもどうにか会話になっていると、無いに等しい成果で紀美に視線を向ければ眉間に皺を寄せた顔で返される。期待以下の働きだとでも言いたそうな顔に、進のほうこそ不満を露わにする。
「なんだよ、文句あんのか?」
「文句言う体力もないわ」
「運動不足だな。だから太るんだよ」
蹴られた。一言余計なので無論である。
眼下でいちゃつき始めれば楽しくないのが聴衆だ、降り注ぐ視線は冷めきっていて、しかし当の本人達は自分たちの、犬の吠え合いのような口喧嘩に夢中だった。
「あのさぁ……ほんといい加減にしてよ。とりあえず鍵開けてあげるけど、次くだらない言い争いしたら追い出すからね」
捨て台詞のように言い放った後、家屋の中から階段を駆け下りる音がリズムよく近付いていた。
図らずも事が上手く運んでいることに、進は安堵よりも疑問が勝る。
「……なんとかなるもんなんだな」
「口は悪いけど根はいい子だからね」
心中を吐露した言葉に紀美が返す。なら尚のこと自分はいらなかったのではと思わずにはいられなかった。
「――で、なんの用?」
「部活動に来て欲しいんだけど」
部屋着姿の翼が麦茶の入ったコップを三つテーブルに並べて着座すると、生き急ぐように問う。紀美が答えると、睨みつけるような目つきの悪さがいっそう強くなっていた。
「まともに合奏できるようになったん?」
「それは……」
紀美が口ごもる。一週間程度でどうにかなるならとっくにどうにかしているわけで、まだ翼が納得するレベルまで到達していない実情が見えていた。
だから翼がため息を漏らすのも当たり前のことだった。
「私に構うより先にやることがあるでしょ。顧問が何してんのよ」
「あなたが心配だから」
「心配しろなんて言ってないし」
翼は頑として言い分を曲げようとしない。そして言い分も無茶を言っているわけではないのだ、傍から見て劣勢なのは紀美だった。
そんななか進は何をしていたかといえば、どうにかこの口撃の撃ち合いの被害者にならないよう、存在感を消すことだけに集中していた。流石は反抗期に夏希から殴る蹴るの躾で育っただけあり気の強い女の前では何も言えなくなっていた。
が、その目論見がいつまでも成功するはずもなく、紀美が言い負かされて黙ると同時に、翼の目線が進の脳天を貫いていた。
「で、おっさんは? なんの権利があって着いてきたの?」
「権利、かぁ……」
そんな強い言葉を言われてしまえば進は何も言えなかった。むしろただ紀美に頼まれて練習に参加しているだけの三十代男性に言える言葉があるなら教えて欲しいくらいだと。
進にとって最悪だったのが横から期待を込めた目で見つめられていることだろう。だらしない顧問のせいで貧乏くじを引かされていることに呆れつつ、別の観点から攻めるしか余儀なくされていた。
「まぁあれだ。部活は置いといて――」「置いとくな」「――置いといちゃだめらしいけど、勉強くらいはしとけよ。先達からはそれくらいしか言えん」
「勉強なら家でも出来るし」
「すげえな」
進が感嘆の意をこめて感想を述べる。それが癪に触ったようで、翼はきつく睨みつけていた。
馬鹿にされていると感じたとしても仕方がない、今日日、自宅学習など小学生でもしていることで誇ることは何一つない。それが普通、常識、当然だった。
しかし事情を知る紀美はやらかしたというように目頭を押さえて言う。
「こいつ、学校の宿題なんて一度もやってきたことないから」
「……一回も? 夏休みも?」
「おう。作文とか絵画とか、めんどくさくねぇかあれ」
「そのせいで私たちが説得するよう言われてたんだけど!」
紀美の言葉には積年の恨みがこもっていた。そういえばやたらと宿題について話題が出ていた時期があったなと進は思い出していた。
通常であればそんな舐めた態度を取り続けていいわけがない。それでも三年間貫き通せたのにはわけがあった。
「じゃあ馬鹿なの?」
「それがね、これでも学年トップ層を維持し続けてたの、しかも全教科。真面目に宿題やってもこれに勝てないのに意味あるのかって話になるじゃない?」
被害者ぶって語る紀美に翼は嫌味な奴と同意する。進としては宿題せずに点数が取れるならそれでいいだろうくらいにしか考えていなかったので、責められる言われすらないと感じていた。
それに宿題はやらなくても勉強をしていなかった訳ではないのだ。教師が教科書通りに話を進めている中、一人ずっと先まで読み込んでまた最初から読み込んで……。一年で数十回と繰り返していれば嫌でも覚える、ただそれだけの事。勉強が好きだとかそういう事はなく暇だから教科書を読むくらいしかやることがなくて、それが好成績の要因になっているなど本人すら預かり知らぬところだった。
そんな彼にも一度だけ真剣に勉強へ打ち込んだ時期があった。高校受験でも大学受験でもなく――。
「とにかく勉強する習慣は免許の学科の時に絶対役立つから。悲惨だぞ、学科落ちると」
「あんたねぇ……」
「教科書くらいの厚さを二十日で全部覚えるんだぞ? それに比べたら中学の勉強なんて楽勝に決まってるだろ」
「言いたいことはわかるけど、教師として認めるわけにはいかない私の気持ちを察しろ」
真に迫った物言いに紀美は苦渋を舐めた表情で返す。経験者ならだいたい同じ反応を返すことだろう。
公表されている合格率は低くないとはいえ、受験に金と時間がかかる。特に進が免許を取るための金は自分でバイトをして貯めた金であるから一回のミスも許せなかったのだ。