第8話
紀美の尽力によって校舎へ入れるようになった進は、もう二度と来ることはないと思っていた音楽室へと足を踏み入れていた。視線の高さからか、在学中よりも狭く見えるその部屋は細部まであの日のままで変化のなさに驚きを隠せずにいた。
実際には少し変わっているのだがそこまで記憶力がよくない進に気付けというのは酷というもの。なんにせよ勝手知ったる部分があるのは、むしろ安心出来る要素だった。
進は持ち場であるドラムの元へと向かう。途中金管の準備をしている女学生に目礼しながらその脇をすり抜けて。
隊列の最後方、埃よけの、それすら埃臭い布を剥いで近くの椅子に丸めて置く。先日も見たドラムセットはところどころ塗装がはげ、特にドラムヘッドは擦り切れてメーカーの印字も見えなくなっていた。
座り、牛乳パックで作ったスティック立てから先が折れていないものを四本掴む。握り心地を確かめてそこから二本選んだ進はウォーミングアップがてらがむしゃらに打ち鳴らす。スネア、タムタム、バスドラム、最後にハイハットを勢いよく叩くと一汗かいたような爽快感が身を包む。なお直後突然の騒音に目を丸くした生徒から非難する視線で見られるまでがセットである。
しばらくして紀美が音楽室兼部室に入ってくる。今日練習予定の楽譜の束を抱え、扇に広がった生徒の要、そしてその後ろから眺める進の正面に立つ。
「おはよう。さぁ、今日も練習始めましょ」
で、あれである。大人気なくキレ散らかしていた進も、時間が経つにつれ見えてきたものがあった。
まずは個人の力量の差である。音の美醜は言わずもがな、周りとの音量の合わせ方、縦の揃え方、スタッカートマルカート、トリルにアクセントなど。楽譜通り演奏するというだけでも一苦労なのだ。一人ならまだ手を抜いても迷惑がかかる心配はないが、重奏においては致命的、連帯責任で悪く見られるのだから最低限の技量は持ち合わせていることがマナーだった。
だからホルンの子だけどうしても耳に残る。下手ではないが上手とも言えない、どっちつかずなのは本人の性格からか。
進の持論として、我が強い奴ほどよく伸びる、という考えがあった。言い換えれば貪欲、どんな手を使ってでも上手くなろうという人間ほど上達していくというのは当然のことだった。
その点、翼ははっきりと物事を口にし、時間の無駄を嫌っている様子が実力に直結していた。練習の質と量、両方を兼ね備えているからこそ、頭一つ浮いているのだった。
他の子がだめという訳ではない、翼が優れているだけ。といっても大きく劣っているのではなく翼が伸び悩めばすぐに並んでしまう程度なのだが。しかしそのわずかな、頭一つ抜きんでていることが自信になっていることもまた事実だった。
部活の役割としてならそれでよかった、翼がひっぱり、具体的な方向性はほかの生徒が決める、しかし今は進がいる。バラバラな方向を向いた演奏ほど聞くに堪えないものはないのだ。
いままで通りにいかなくなったことへ翼はどうするか、抱えた苛立ちは別のところでの発散を求めていた。空気が悪くなると気の弱いものから当てられていき、普段しないようなミスを重ねていくこととなる。その標的になってしまったのが、可哀想なことにホルンの子だった。
「……さくら、何度も言ってるよね」
「ご、ごめん……」
「ごめんじゃなくてさぁ……あんただけ遅れてるから皆迷惑してんの、分かってる!?」
「ごめん……」
とうとう始まってしまった個人攻撃、さくらと呼ばれた子は肩身狭そうに俯いている。本人もわかっているのだが一朝一夕で解決できる問題ではなく、また失敗しないようにと過度な緊張は唇を硬くさせ、普段しないようなミスを誘発させていた。真剣だからこそ周りもフォローしにくく、演奏を続けること五分、ついに肝心なところでさくらはつまづいてしまった。
中音域のソロパート、伴奏のトロンボーンと息を合わせなければならない場面で盛大に音を外してしまったのだ。
演奏が止まる。後ろから見ていた進もあーあ、と他人事のような目で動向を見守っていた。
「――帰る」
「翼!」
「練習になんない。自主練しといて」
怒鳴り散らすかと思われたが理性的、むしろ最善手だった。
他の子の静止を振り切って翼は本当に帰ってしまう。残されたのは半べそをかくさくらと右往左往する二人の女子、それと同じく戸惑いを隠せていない紀美だった。
……幸先不安だな。
原因の一端が自分にあるにも関わらず、進は気楽そうな顔してそんなことを考えていた。
「とりあえず自主練するしかないだろ」
「いや……でも……」
「……あ、ホルンの子、借りていくわ」
「わ、私ですか?」
いたたまれない空気が短編小説を書き上げるまで続きそうな予感を受け、進はスネアドラムだけを持って音楽室を出る。その後ろから恐る恐る、正解を探して戸惑いながらもさくらが着いてきていた。
扉を開け、その先にある多目的教室へ入る。休日、他に活動している文化部もないのだから当然のごとく無人で、窓際で適当に積まれている椅子を二つ並べて進は座る。
「座りな」
「あ、はい……」
楽器と譜面台を持ったさくらが促されるまま席に着く。
その様子を見ながら一定のリズムでドラムを叩いていた進は、黄金色に輝くホルンを見つめていた。
しばらく考え事で無言になり、さくらが不安に顔をひきつらせる頃だった。
「ドレミファソラシド頂戴」
「えっ、あ、はい」
急な要求に、かといって無茶ではないため、さくらはマウスピースに唇を当て息を吹き込む。
ボー、という長音の後、進のリズムに合わせて音階を上っていく。三年目ともなれば早歩き程度のペースならつまづくことなく滑らかに流すことが可能だった。
「もう一回」
「は、はい!」
つまらないだけの練習をもう一度、しかし今度は少しだけペースが上がっていた。
その後ももう一回、もう一回と加速していく。さすがに何度も繰り返しをしていれば進が都度声をかける必要もなく、自主的に息を吹き込むようになっていた。
おおよそ一般的な楽曲で使われるBPMの上限まで加速してもホルンの音色にひずみはない。進はそのことに数回頷いた後、
「次、ドレドミ」
急に速度を遅くしながら指示する。それに対してさくらは軽くうなずいて指運を変える。
ドからレ、またドに戻り次はミ。徐々に広くなっていく音の差は一オクターブ、つまり高いドまで反復横跳びすることとなるのだ。
「次はhiCから下がって」
高いドまで吹ききって終わりとはいかず進は次の指示を出す。ドシドラ……と逆に下がるように吹け、と。
進の中学時代には一般的な練習方法だった。その経験は当然紀美も持ち合わせているため、同じ練習をさせていると踏んでのこと。案の定省略した説明であってもさくらはとまどうことなく吹き続けていた。
うーん……。
こちらでも徐々に速度を上げながら進は心の中でうなっていた。
嫌いなのだ、この練習が。
なぜなら苦い記憶が呼び起こされるから。
一年の秋、木管楽器から転向して三日目、まだ音の出し方やピストンの押し方もあやふやな状態でこの練習をさせられていた。それも二時間、その日の部活動が終わるまで延々とだ。メトロノームがカチカチと無情に時を刻む中、教本片手に一人空き教室で吹き続ける。まるで囚人のようであり、最後に顧問のチェックがあるためサボることも許されず、思うように上達しない自分へむかついていた。
特に金管楽器は唇の形で音程を操作するため素早い音の変化に向いていない。木管楽器なら簡単にできていたことが急にできなくなったのだからやきもきするのも納得だった。
その点、さくらは十分よくやっている、と進は評価していた。少なくとも――当然経験の差があるとはいえ――学生時代の進よりは十分上手い。
ただそんな彼女でもペースが速くなるにつれミスが目立つようになっていた。一度遅れると挽回は難しい、手を抜くしかないのだから。
「……ごめんなさい」
どうしようもなくなったさくらがマウスピースから口を離し、膝の上にホルンを置いていた。怒られる前の子供のような、悲痛に表情をゆがめていた。
真面目だな、というのが進の感想だった。スティックを手放した進の手がさくらの顎に伸びる。
指が触れた。
ふっくらと桃色に照る唇へと。
「えっ――」
「うーん……」
傍から見れば変態のそれである。愛撫するように撫でまわし、つつき、感触を確かめる、再三言おう、変態のそれである。
ひとしきり堪能した後、進は唾液のついた指を自分の唇に当てる。先ほどと同じように撫で、つまんで、
「マウスピースが合ってないかもな。楽器屋いくか……どうした?」
進の眼には熟れたトマトのように顔を赤くしたさくらの顔が見えていた。思春期の子供の前ではいささか刺激の強い行動だったようだ。




