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第7話

 翌週。

 約束通りの土曜日、まだ空が宵闇の色からそう明るくならない頃、進は車に乗り込んでいた。

 順当にいけば早朝、世間では朝食の時間に地元へ着くだろう、それはあまりにも早すぎる到着なのだがこれより遅くなると質の悪い渋滞につかまり到着時間が読めなくなるため致し方ない。

 中古で買ったおんぼろ車はガソリン満タン、キーをひねればエンジンがうなりをあげて震えだす。買ったときに比べて劣化が見られるようになってもまだまだ現役で走る、日本車は本当に長く乗れるのだ。ある日突然うんともすんとも言わなくなることもあるが。

 眠気を払いながら車は道を駆ける。流れる景色に車の姿は少なく、進の読み通り快適なドライブを享受していた。このまま温泉地にでも向かえば立派な小旅行となるのだが、残念ながら目的地は廃校秒読みの母校、何が悲しくて女子中学生の輪に混じり演奏なんてしなければならないのかと嘆いてみせても、今更何も始まらない。期限が近づくにつれ進の怠惰な心が虫のようにどこからともなく這い出てきていたが、その誘惑に従ったが最後、待ち構えているのは鬼人のそれである。齢三十五にもなって親が怖いのかと笑うなかれ、弱みのすべてを握られているならば歯向かう気も失せるのが道理である。

 あと数時間もすれば人の気配が湯水のごとくあふれ出て活気づくことだろう。その前の眠った街の雰囲気は進にとって居心地の良い特別なものだった。

 赤信号に気付いて車が止まる。まだ目的地まで時間があるため音楽でもかけようと慣れた手つきで車載のオーディオの再生ボタンを押していた。

 流れる曲は一時有名になった、言い換えればその曲以外売れた曲というものを聞かないいわゆる一発屋の曲だった。好きなアーティストの好きな曲だけ詰め合わせたお手製の楽曲集はジャンルや年代もバラバラ、悪食であるがゆえにいつでも新鮮みにあふれていた。

 気分が良くなれば鼻歌もこぼれる、それは次第に大きくなり車の中が観客のいない単独ライブ場になるまでさほど時間はかからなかった。




 午前七時。一時間強のドライブを終え、進はいささか枯れた声を気にしながら実家の駐車スペースに車を停めていた。女一人では庭先まで手が回らないのだろう、冬の間に貯えた栄養で雑草がのびのびと背をのばしている。当然、暇を見つけて草むしりをしようなどという殊勝な心がけを進は持ち合わせていなかった。

「ただいま」

 車を降りて着替えのバッグを片手に進は実家の戸を開く。泊まる予定はないが前回のように突発的なイベントでもあれば話が別、備えて損はないという考えからだった。

 日が照る屋外とは違い、家の中はまだ冷え切っていた。玄関にバッグを置いて踏み出す度にきしりと音を立てる床を進む。目をつぶったままでも位置がわかるドアノブを開くと先週も見た光景が広がっていた。

「あ、おかえり。ご飯食べる?」

「おう」

 リビングに併設されたキッチンから夏希の声がする。鼻腔をくすぐるのは甘い匂い、砂糖を焦がしたカラメルの香りは起きてから何も口にしていない進の腹へ手痛い打撃を与えていた。

 あふれ出る唾液が欲求へ抗えないことを示している。進が「食べる」と返事すると、「じゃあ皿出しな」と命令がくだる。

 働かざる者食うべからず、進は気の抜けた返事をしてキッチンへと向かっていた。

 幼少期から変わらずある食器棚は、相応に年季(ねんき)がはいっていてもガラス窓に曇ひとつない。なぜか他はずぼらなのにそこだけは異常に清潔を保つ夏希によるもので、指紋などつけようものなら烈火(れっか)のごとく叱られる、そんな数多くの経験から進は爪先だけてガラス戸を開いていく。

 使い古した大皿、昔はぴんと立った炊き立ての白米にいくつかの和惣菜が乗っていたが今では砂糖をまぶした焼きバナナとパンケーキ、小さなサラダを添えてと、どこの国のものかと疑問を持つほど様変わりしていた。

 その皿を進は持ち上げ、また慎重に戸を閉める。向かう先は焼き加減を注意深く見守る夏希の横、シンクの空きスペースにゆっくりと、だ。彼女の肩越しに覗き見ればフライパンの中で生地が表面にふつふつと泡を吐いて、おおよそ素人にはわからないタイミングを見計らって夏希は大きくフライパンを揺すると、生地は大きな楕円を描いて綺麗にひっくり返っていた。

「おー、流石」

「でしょ? 十回に九回は成功するようになったんだから」

 自信満々、胸を張って答えるわりに成功率は高いと言えない。それを職にしているわけではないのだから問題ないのだけれど。

 それから数分、そろそろ腹の虫がおさまりつかなくなった頃、夏希はフライパンを持ち上げて皿に中身を流すように滑らせる。軽く湯気立ち上る魅惑の黄と茶のコントラストに進の喉がごくりと鳴っていた。

「ほら、持ってって」

 手際よく彩りを追加した夏希が事前に用意していたもう一つの皿とともに進へ押し付ける。その際、少しだけ見た目が綺麗なほうを指さして「こっちが私のね」とがめつく指示することを忘れていなかった。

 進がテーブルにつくと、まだキッチンにいる夏希から「牛乳にする? オレンジジュースもあるわよ」と声が飛んでくる。あー、と悩んだ末、進は牛乳でと答えていた。

 透明なグラスになみなみと注がれた白い液体を両手に持ち夏希もテーブルに着く。いただきますと手を合わせた後二人は黙々と食事に時間を費やしていた。

 それが唐澤家の朝の風景だった。




「今日仕事?」

 朝食を終えひと段落した進が問いかける。洗い物も終わり時間までゆったりと過ごす、言い換えれば暇だった。

 近くの大型複合施設に勤める夏希は土日でも仕事の時がある。出勤時間も早番遅番とあるため、都度聞く必要があった。不在なら不在で鍵が必要となるからである。

「今日は休み。でも出掛けるから鍵もっていきな」

「はいよ」

 このやり取りも慣れたもの、十数年不在にしていても過去の習慣とはなかなか抜けないものだった。





「おっさん、走るな」

「お前らが遅いんだよ。つうかみきすけ、お前の指揮まで遅くなってどうすんだよ」

「みきすけ言うな! ……遅れてたらごめん」

 吹奏楽部の練習が始まって一時間、そこは怒号飛び交う喧嘩場となっていた。

 きっかけは新名(しんみょう) 翼という少女だった。トロンボーンを巧みに操る彼女は初日から進のことをおっさん呼びするほどに年上を敬う気持ちがない。それ自体は進も特に気にしていなかったが、少し手元が狂うだけでいちいち演奏を止め文句を垂れ流す彼女にフラストレーションを溜めていた。耳ざといのだろう、それ自体は大事なことなのだが一方的に標的とされては面白くない。

 いつもの彼女たちの練習なら良かったのだろう、部活動の主体は先生ではなく学生であるから積極的に意見を交わすことは推奨されている。三年間もその態度で部活動を続けていれば喧嘩することもなく受け入れられるだろう。

 しかし今日は異物が混じっているのだ、進とてお客様気分でいるわけではない、やるからにはそれなりに真剣さを見せることが大人として当然だと感じて今日という日に挑んでいるわけで、空き時間に菜箸と本をドラムに見立てて拙い練習も行っていた。そもそもの技量不足とブランクが長いことから足を引っ張ることがなかば確定しているとはいえ、理不尽なまでの口撃へついには反論するようになっていた。翼の言い分が全くまっとうであったなら粛々と受け入れたであろうが、全体に関わることにまで進のせいにされていることも拍車がかかる原因の一つでもあった。

「音! バスドラ弱い!」

「これ以上強く叩いたらホルンが自分の音見失うだろ、全体見ろ!」

「あんたら……いい加減にしなさいよ……」

 何度目かの醜い言い争いに指揮者である紀美も限界を感じていた。白い指揮棒(タクト)が怒りに震えているのがその証拠だった。

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