第62話
だから、気が緩んでしまったがゆえに生まれた隙はある意味致命的だった。
「うん、ちゃんと笑えたわね」
紀美に言われ、久しぶりに自然な笑みが生まれたことへ驚く。石膏を塗ったようだと親から揶揄される仏頂面でもこんな小さなことで笑えるのだと、雪緒はおかしくなって腹を抱えていた。
「で、何言われてそんなことになったの?」
「いや、たいしたことじゃないんです。先生の恋路がうまくいかない理由をわからなかったり、大人っぽくみえ……たり……」
徐々に勢いがなくなり、言葉を失ったのは変わりゆく紀美の顔を見たからである。
そこには微笑みがあった。変わらない微笑みが。
いや、変わらなすぎた。時が止まったように硬直してピクリとも動かない。まるで出来の悪い石像だ、暖かみを失った顔からは凍てつく吐息が漏れ出していた。
……やっばぁ。
翼とさくらの導き出した答えをまだ伝えていなかった事を思い出して、雪緒は肝の底を冷やす。さりとて言ってしまったことは覆らず、覚悟を決めるしかなかった。
「ねぇ……誰がどうなるって?」
「あ、えっと……その……」
たじろぎ、呂律が回らない。先程までとは立場が逆転していた。
ここまで来たならもう何を言っても変わらない、雪緒が白状するまで長い時間を要さなかった。
「あー、なるほどねー」
神妙な面持ちで聞き終えた紀美の第一声は、案外落ち着いたものだった。
足を組み直し、微かに笑みが浮かんでいる。少なくとも雪緒に八つ当たりする様子はなく、ほっと一息つく。
冷静になれば頭も働く、子供とはいえ翼とさくらの予想は的外れではないだろう、ならばなぜ冷静でいられるのかと、雪緒の頭の中には疑問が浮かんでいた。
その答えは本人から語られる。
「前提を知らなきゃそう言うわよね」
「前提?」
意味深なことを言う、少なくとも勝算はあるようだ。
雪緒が首を傾げると、紀美はスマホを操作して画面を掲げていた。そこにはあの日見た男性の姿があり、その格好だけが違っていた。
……ん?
違和感で済むならどれだけ良かったか、受け入れ難い現実が目の前にあると無意識的に目をそらすようで、雪緒は何度も瞬きをしながら情報を咀嚼していた。
なぜなら、提示されたのはただの写真ではなく、雑誌の表紙だったからだ。
「……先生」
「ん?」
「ひとついいですか? そういうことは先に言いなさいよ!」
感情のまま、雪緒が怒鳴ったには明確な理由があった。
中村 怜改め、れいれい。近頃若い女性の間で密かに人気のファッションモデルだった。
メディアへの露出はないものの、童顔低身長と、他のモデルにはない路線で地位を確立していたニューカマー。動画配信サイトでは登録者数十万超えと、次来るモデルとして注目を集めていた。
雪緒がパッと思いつかなかったのは、まうみからの又聞きだったからである。さくらも同様で、何となく見覚えがあっただけ記憶力がいいとも言えた。
モデルをしているだけあって、容姿端麗である。思わぬところで紀美が面食いだったとわかったのは置いておくとして、
「……止めときましょ、本当に」
「過去いち気持ち込めて言うじゃない」
当然である。若い身空でこれから飛翔するかの瀬戸際なのだ、現役大学生が三十路を超えたおばさんと結婚、あまつさえ一児の父など、ただの醜聞にしかならなかった。
善意なのだ、誰にとっても不幸にしかならないのなら、雪緒は心を鬼にしてでも止めなければと使命に心を燃やしていた。決してモデルと付き合えることへ嫉妬した訳ではない。ないったらないのだ。
「縁切りましょう、週刊誌にすっぱ抜かれたら再就職も危ういですよ?」
「うぐ……そうだけども」
「悪いことは言いませんから――」
賢明な判断を促していた雪緒の声が止まる。突然鳴動したスマホの着信によって遮られたからである。
最近話題の男性アイドルグループの曲が流れるのを止めて、片手で雪緒に謝りながら通話する。相手の声を聞いて浮かんだ向日葵のような満面の笑みは、すぐに厳冬の寒さに打ち震え始めていた。
何かあったらしい、それも良くないことが。
そんなことを察しながら二言三言、通話を切った紀美の顔は一分もしない時間でずいぶん老けてしまっていた。
聞くか、聞かまいか。悩む雪緒を無視して紀美が口を開く。
「――撮られてた」
「はい?」
「ホテルに入るとこ、撮られてた。今ネットニュースになってて事務所が事情を聞きたいって私にも……」
噂をすれば何とやら。そのくせ状況は紀美を味方してはいなかった。
事務所と言うからには本気が伺える。炎上して表舞台から去ることを余儀なくされた人など数多いる、既にふたりの問題ではなくなった以上、雪緒にできることはなかった。
「慰謝料いくらだろ……」
「怖いこと言わないでよ!」
脅したつもりはなく、それくらいの心構えは必要だと思っての言葉だったが、紀美には深く突き刺さったようだ。
縋るような目をされても、雪緒は首を横に振る。ただの中学生、子供に出来ることなど旅立つ彼女を見守ることだけだった。




