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第6話

 宴もたけなわ、どうにか落ち着きを取り戻してきた紀美と他愛のない話を始めて三時間が経過していた。その間風呂の準備といって離席していた夏希がリビングへと戻っていた。

「お風呂空いたわよ」

 湯上りの濡れた髪にタオルを巻いた姿はまだ妙齢の女性に見える。うっすらと立ち上る湯気に淡く染めた頬が絵にも描けない妖艶さを作っていた。

 とはいえ実母、生まれてから見続けた母の姿に進が欲情するはずもなく、湯上りの気だるげな表情をする夏希にため息を漏らしていた。

「なげえなとは思ってたけど先に入ってたのかよ。こういう時は客が先じゃないんか?」

「ならお風呂の準備くらい自分でしなさい」

 進の小言に構わずぴしゃりと言う。親が何でもやってくれる子供ではないのだから当然といえば当然だった。

 夏希はそのままスマホ片手に髪を乾かし始める。最低限乾けばいいだけの雑なドライヤーの当て方のせいで肩まで伸びた髪は宙を舞い、茶色く染めた白髪が光を反射して煌めいていた。

 雑音に等しいドライヤーの騒音のせいで会話にならない。進はもやっとした感情を抱えながらビールを一口、炭酸で広がる苦味を舌の上で転がしながら、酩酊状態、先ほどからろれつが回らず視線の先も危うい紀美へと目を向けていた。

「風呂、はいるか?」

「……えっち」

「あほなこと言ってると沈むぞ」

 今時中学生でも言わなそうな妄想をのたまう彼女を進は本気で心配していた。このままでは湯船に浸かったまま寝かねない、水死体の処理などしたくもないし、面倒事になるのも勘弁だ。

 なら方法は一つしかない。

「掛布団持ってくる」

 当たり前だが一緒に入浴するはずがない。紀美が入らずに寝るというならその意思を尊重するだけだった。

「進……」

「なんだよ」

「演奏……下手だったね」

「……」

 自覚していることでも改めて人に言われると苛立つものである。進も例外ではなかったが所詮酔っぱらいのたわごと、無視して立ち上がった時だった。

「楽器、どうして止めちゃったの?」

 何気ない一言に進は行き場のない感情を押し殺して座りなおす。顔も合わせず、横並びになって浅くため息を漏らしていた。

 それは話の中で出たひと言、高校進学以降部活に入っていたのかという質問に何も、と進が答えたからだった。

 進は今日改めて実感していた、センスがないということに。センスといってもうまく演奏するという技術的な話ではない、もっと大事な、続けるために楽しむというセンスだ。

 まったく楽しくないというほど腐ってなどいない。音楽から切り離された生活をしているわけじゃない、どこにいても手軽に音を楽しめる時代なのだ、歌も下手なりによく歌う。それでもみんなと一緒になって演奏となると同じ熱量でいられない、進にとってそれが負い目となっていた。

「時間もないし近所迷惑になるしな。休日は何もする気が起きないほど疲れてるし、機会がないんだよ」

 嘘というほどのものではないが、本心は霧隠れしたまま。今更そんなことを言っても仕方ないと、進は考えていた。

 紀美の様子はといえば同じく虚空(こくう)を見つめたまま瞳は揺れ動いていた。何を考えているのだろうと進が横目で見ていると、

「今日、楽しかった。昔みたいで、皆もいきいきしてた」

「人の話聞けよ」

 脈絡のない話だ。そもそも進の声が届いているかすら怪しい。

 紅の差した頬は限界を示している、これ以上たわごとを口にする前に寝かせてあげるのが情けだろうと進が目を離したときだった。

「私は……進に好きでいてほしい。だから手伝ってよ……」

 愛の告白のようで、その実まったく違う何かである。おそらくこれを録画しておいたら明日になってもだえ苦しむ紀美の姿が見えることだろう。

 だから進も取り合わないことを決めていた。ただこの場にはもう一人いることを忘れていた。

「なら手伝ってあげなさいよ」

「は? なんで?」

 夏希である。彼女はいつのまにかドライヤーを置き、肩ひじついて二人の会話を聞いていた。その目はおもちゃを見つけた子供のように輝いており、進の背筋に冷たいものを走らせる。

「友達が苦労してるんでしょ? それに後輩も。いいじゃない、どうせ暇してるんだから」

「いや――」

「面倒くさいって言ったらこの家相続させないわよ」

「脅しの仕方がめんどくせえよ」

 片田舎の土地など貰っても二束三文、税金だけがかかるお荷物であり、近くの中学が廃校になる程度には過疎化も進んでいる土地を欲しがるものなどいないが、ここでそんなことを言えば夏希はブチ切れて本当に家から追い出すことだろう。話の本質はそこではないのだから。

 いつになっても親は強いと相場が決まっているもので、断れば実害をもって襲いかかってくる。幼少期から叩き込まれた印象は払拭するにはなかなかの労力が必要で、しかも強行したところで享受(きょうじゅ)出来るメリットもない。進に残された道ははいはいと嫌々ながら従うポーズを見せることしかなかった。

「わかったって。でも週一土日のどっちだけな」

「ケチくさいわねぇ」

「過労死させる気かよ……」

 平日に残業はあれど、休日出勤は基本ない。あるとしても特別なイベントに駆り出される程度。一般的に広まっているブラック企業なる概念に進の会社が当てはまらないことは彼の精神上優位に働いていた。その分給与もたかが知れているが。

 それでも実家まで片道一時間と少し。爆音で音楽を垂れ流し音漏れを気にせず歌いながらの道中とはいえそれなりの時間がかかる。途中有名な渋滞ポイントにしっかり捕まってしまえば苛立ちのゲージも上限振り切れる。それを毎週往復となれば疲労も溜まるというものだ。

「えへへ、ありがとう!」

「寄るな、抱きつくな、ついでのように涎を拭くな!」

 酔っ払いとはいついかなる時も厄介だ。ものを壊したり人目をはばからず大声を上げたり脈絡もなく急に泣き出したり。その中でも距離感を保てなくなることがことさらに面倒くさい。感情の乱高下が激しいだけでも気が滅入るというのに、紀美は目尻をとろんと垂れ下げ進の腕を抱えるように抱きついていた。

 普段ならば役得、いや据え膳とまで捉えて進はその先を妄想したことだろう。果ては妄想でとどまらず、危機管理が出来ていない本人が悪いと開き直って一晩の過ちを犯すことだろう。この歳まで使うことなく知識だけを溜め込んだ浅ましい本性が牙を剥く。しかし今は母親、夏希の監視下であるから、不埒な行いなどできる訳もなく冷静な知性が待ったをかける。汗ばんだ頭皮の臭いの中に混じる甘い香りにも進は動じることがなかった。

「ったく。一人入ったところでなんにも変わらないってのに……」

 演者が四人から五人になった、しかし進に楽器は吹けない。年齢とともに衰えた肺活量では一曲演奏し終わるまでに息が上がることだろう。いい歳をしたおじさんが若い女子生徒のなかでゼェゼェと息を切らしている光景など見たくはないし見せたくもない。

 だから断るという選択はもうできない。言ったが最後、紀美に抱えられている腕は捻りあげられ子供が人形で遊ぶように取れてしまうだろう。もしくは裏切られたとわんわん泣き叫ぶか。その時夏希がどうするかを考えるだけで進の肝は冷凍庫の中身よりも冷たくなる。

 しかし逆に考えれば進である必要もないのだ。もっと演奏が上手でやる気もあり、面倒見が良くて事情も汲んでくれる、そんな夢のような人がいれば……。

 いるわけない、と普通ならなるだろう。あまりに都合がよすぎる、完璧な人がいるはずはない。しかし進の頭には一人、いや二人程候補がいた。

「かっちゃん――克樹と真貴子には声掛けたのか? どうせならあの二人も巻き込んでやろうぜ」

 進は名案だと言うように声を弾ませて言う。

 克樹は中学時代の同級生であり、かつてのブラバン部部長であった。人望、実力的に問題なく、困っている人がいるなら自分の苦労も苦と思わず助けるような人間だった。なにか問題が起きたなら誰もがまず克樹に相談する、それが当たり前になっていた。

 一人例外を上げるとするならば進だろう。彼は克樹に相談をしたことは一度もなかった。なぜなら相談する必要がなかったから。相談するほど悩むだけの知能がなかったともいえるが。だいたいなんとかなると考えだいたいなんとかなってきた。そういう男なのだ。

 進の言葉を聞いて紀美は同意するかと思いきや、急に落ち込んだような、顔に影を落としていた。あれだけ暑苦しくひっついていた腕も離し座りなおすと、膝を抱えて黙り込む。

 テーブルの上には飲みかけの缶が汗をかいている。表面の水滴が合わさり、流れ落ちてまた一つ水たまりを大きくするまで待ってからようやく、

「……かっちゃんとまきはもう楽器やらないよ」

「は? なんでだよ」

「なんでも!」

 紀美は怒鳴り、ふてくされて膝に顔をうずめていた。その豹変ぶりにさしもの夏希ですら目を丸くしていた。

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