第55話
「それで、どこまで進んでんだ?」
気が進まないまま、進はとりあえず紀美に尋ねる。また、まうみの気が散り始めたようで、彼女に見えるよう、指でテーブルを叩く。
聞きたくないだけでなく、紀美も言いたくないらしい。口をすぼめて躊躇いの様子を見せながら、
「……言わなきゃだめ?」
「言わないで助言できると思ってんのか?」
「……むぅ。その、えっちしたけど恋人未満、みたいな?」
紀美の告白に、進は「うわ……」と、難色を示す。
言えと言ったがなにもそこまで赤裸々に話せとは言っていない。小さな子供がいる前で、教育に悪いことを話すなんて、想像しにくいことだった。
案の定、思春期真っ只中の女の子たちは、ペンを握る指を緩めていた。
「お前さぁ、状況見て話せよ」
「言えって言ったのはあんたでしょ!」
「だからって考えを放棄していいわけじゃ――」
言い終える前に進は口を閉じる。
腕を掴まれていた。隣に座る翼が見上げており、
「そんなことで話を途切れさせんな」
男らしい台詞に進の胸がときめく。いや、そんなことを考えている場合ではないのだが。
こほん、と気を取り直して、
「――で、だ。どうしたいんだ?」
「この空気でよく続けられるわね」
「うるせぇ。さっさと吐け」
茶々を入れるも、そもそも相談したいと言ったのは紀美である。話の脱線は彼女も望むところではなかったため、
「――どうしたらいいと思う?」
「質問に質問で返すな」
「だってー」
「だってもなにもない。恋人になる、付き合いたいんだろ。それでいいじゃねえか」
投げやりな態度で進は突き放すように言う。いやむしろ彼なりではあるが、真摯に考えたうえでの答えである。
そもそも脈なしなら質問すらしないのだから当然で、どこかに踏ん切りがつかないから背中を押して欲しいだけなのだ。その程度のことなら同性の真喜子にでも相談すればいいのに、と進はため息をついていた。
対する紀美も唇を噛み締めて、
「もうちょっとさぁ、具体的に……あるじゃん?」
「具体的にって言われても、相手がどんな人間で今まで何してきたかも知らないのに無責任なこと言えるかよ」
拙速は巧遅に勝ると言うが、策がなければ戦に勝つことは出来ない。準備で八割決まるのは恋愛も同じ、考え無しにお茶を濁すような真似を進は嫌っていた。
問題は、その気持ちが毛の細さ程も紀美に伝わっていないことだろう。
ポロポロと、雫が紀美の膝の上に落ちる。目尻に大粒の涙を湛える彼女を見て、進は驚きを隠せずにいた。
「えっ――」
「なんで、なんでなのよ……。どうして私の話を聞いてくれないの……」
「いや、聞いてる……よ?」
「なんで私だけ助けてくれないの……皆には優しくして……そんなに嫌いだったの?」
支離滅裂である。少なくとも進にそんな意図はなく、むしろ多大に協力するくらいには気を許している。言葉尻が強くなってしまうのは昔から変わらないことで、関係が風化していないことも示していた。
そう言えれば良かったのだが、女の涙に滅法弱い進である、焦りすぎて頭の中は真っ白になり、右往左往と首を振り続けるしか出来ずにいた。結局なんとかする術を思いつかぬまま、急に立ち上がり逃げるように飛び出す紀美の背中へ、届かず揺れる手だけが無力さを示していた。
「唐澤さん!」
「は、はい」
「追って」
まうみが激を飛ばし、進も反射的に立ち上がろうとする。しかしその太ももは漬物石のように重い翼の手によって止められていた。
「行かなくていい。行っても何話せばいいかわかってないんだから」
理解度の高い翼の言う通り、未だ状況についていけていない進の脳内はぶちまけた牛乳よりも白で埋め尽くされていた。追いかけたとしても恐らく適当な謝罪で自分の立場を悪くするだけだ、と予想がついて、椅子に深く腰掛け呼吸を整える。
その間、翼はつまらなそうにテーブルに肘をついてまうみへ視線を向ける。
「まうみ、適当なこと言わない」
「ごめん」
「ドラマか漫画の見すぎ、こっちの問題なんだから口出しすんな」
さりげなく自分を関係者にした翼はゆっくりとそっぽ向きながら小さく呟く。
「……嫌いだわ、ああいうの」
「ご、ごめん」
「おっさんじゃなくて。泣けば皆が優しくすると思ってる態度のこと」
硬いトゲの鎧を纏う翼の手を、テーブルの下で進は握る。痛いくらいに冷えた指が解けるように暖かくなると「言いすぎた」と、翼は少しだけ頭を下げていた。
「でも……紀美ちゃん先生大丈夫かな……」
まうみの問いにしばらく静寂が訪れる。最後に見た様子はこの世の終わりのような顔をしていたから、心配になるのも仕方ないことだった。
「……大人になるとな、好きだけで恋愛が出来なくなるもんだ」
しみじみと進が呟く。子供にはまだ早い話だったようで、苦悩の顔が並んでいた。
「――で、それ誰の受け売り?」
「……なんの本だったっけなぁ」
翼に核心を突かれ、明後日の方向を見る。難しいことを言う大人の威厳は、もうそこにはなかった。
身を切るような冷ややかな視線が降り注ぐ。だって仕方ないじゃないか、
「おっさん、初恋だし。好きだけでうちの父親に挨拶しに来たくらいだから」
「好きだけって。感謝とか色々――」
「好きなんでしょ?」
翼の被せるような言葉に、空いた口が塞がらない。この先何があっても頭が上がらないんだろうな、と確信しながら進はゆっくり頷いていた。




