第5話
ぐだぐだで始まった宴会は、一応の体裁を整えることには成功していた。勝手気ままに飲み始めた進を羨んだ、または哀れに思った紀美も買ったビールをあけていた。つまみはコンビニの乾き物、流石にそれだけでは可哀想だと、夏希は本来進が食べるはずだった夕飯の残りを温め直して提供、両者にとって久々の家庭料理は感嘆するに値していた。
特に美味い美味いと欠食児童のように箸を進めていたのは紀美である。一人暮らしではなかなか作ることが面倒くさい揚げ物や時間のかかる煮物など、今ではスーパーで簡単に手に入るとはいえ手料理となるとそれだけで付加価値がつく。昨年も食べていた進が落ち着いて舌鼓を打っているのをいいことに大皿を平らげる姿は大食いのフードファイターかくや。卑しく見える姿も作り手としては誉のようで、調子をよくした夏希はキッチンに入り追加のおかずを用意していた。
「よく食うな」
「先生って体力勝負なの。食い溜めしておかないときついんだから」
煮込んだ手羽の骨を咥えながら紀美が言う。人間には備わっていない器官なはずなのに彼女の言うことは真実であるようによく食べる。女性としてどうなのだろうという疑問も湧いて出てくるようだが、あまりに美味しそうに食べる姿はむしろ気持ちがいい。
「あら、紀美ちゃんって先生やってるの?」
さらに追加、チヂミだろうか、大皿に山盛りの薄い生地を持ってきた夏希が言う。そんなに誰が食べるんだよという量だが、紀美は笑顔で受け取っていた。
「そうなんですよ。もう毎日大変で」
「好きでやってんだろ、何言ってんだ」
「そういう言い方よくないから。あんただって今の仕事のことなんにも知らない人から口出されたら嫌でしょ?」
缶ビール片手に野次を飛ばす進は、横から夏希に諌められて面白くないと顔が物語る。しかし当の本人、紀美は言われ慣れているのかたいして気にした様子もなく、親子のやり取りを頬を緩ませて見ていた。
もう調理に満足したのか夏希は元いた席に座り、どこから用意したのか自身の晩酌セットをテーブルに広げていた。旧友を温めるのに席をはずすような気をつかう気はないらしい。
「結婚……はしてないかな。お付き合いしている人はいるの?」
急に何を言いだすのか、夏希が話の主導権を握らんとすることに進は吹き出しそうになるのを抑えてにらみつける。ここまでデリケートな話題を避けてきたというのに、これでは台無しじゃないか、なおどちらかといえば自分のことを話したくないがための保身が原因であった。
「あのさぁ……そういうこと聞くのやめろって。親戚のおじさんみたいだぞ」
「おじさんとはなにさ。あんたがいつまでたっても先に進まない話しかしないから聞いてあげてるんじゃない」
「物事には順序ってもんがあるんだよ。そもそもお呼びじゃねえんだからどっか行っててくれよ」
もはや喧嘩腰、酔いが回り始めたこともあって進の口調は鋭く、喉を震わせていた。
聞きたくないというのが進の本音だった。久しぶりにあった、それも異性の人生がどんなものだったか、変な地雷を踏みぬいたときどういう反応をすればいいのか。端的にいえば面倒なのだ、どうせまた十数年会うこともないだろう相手の、深いところなど共有したくもない。内向的、精神的出不精という言葉が似あう男だった。
一触即発、つかみ合いも秒読みかと思われた。それを制したのは当然、紀美しかいなかった。
「別に気にしないけど。進は昔からそういうところあるのも知ってるし」
流石多感な時期の三年間を共に過ごしただけあるとでもいえばいいのだろうか、理解が深いのかはたまた二十年が経っても変わらない進が幼稚ということか。これを機に体よく夏希を追い出したかった進にとっては向かい風となったことだけは間違いない。
そんな小心者の気持ちなど考慮されるはずもなく、紀美は視線を夏希に向けていた。
「教師ってモテないんですよー。拘束時間は長いし出会いはないし、たまに見つけても中学生も大人も男って変わらないなぁって思うと萎えるっていうか」
「あーわかるわ。男ってそういう所あるもんね」
紀美の話に夏希も賛同する。これはまずい流れになってきたという予感に進は震えていた。
もはや思い出話に花を咲かせるどころの騒ぎではない。間違いなくウザ絡みされることが目に見えていて、並の男ならねずみの如く逃げ出すだろう。並以下である進なら言わずもがな、しかし悲しき事に両脇を女性で挟まれる形の現状ではしっぽを巻いて逃げ出すことなど出来るはずもなく、ただただ見つからないように隠れて相槌を打つしか――「進は彼女とかいるの?」――うーん、このやろう。
「居ないわよ。父親に似て顔だけは悪くないのに、なんでだろうね」
なんでだろうじゃねえよ、と進は口を尖らせる。親元を離れて十年以上が経過しているのだ、浮いた話の一つや二つ隠し持っているかもしれないというのに、夏希は決めつけたように言う。悲しいのはそれがてんで的外れというわけではないということだ。
「……彼女の一つも作らないで悪かったな」
「ほんとよ。はぁ、孫の顔を見るのはいつになることやら。まぁ無理して結婚されても相手に迷惑だから、私みたいに」
私みたいに、という言葉には重い意味合いが込められていた。理解している進はつまらない話だと完全に無視して乾き物に手を伸ばしていたが、紀美は別、ためらいがちに唇を嚙んでみせた後、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「離婚……されたんですか?」
「そうだよ。つっても俺が中学三年のときだったから……あれ、言ってなかったっけ?」
「言ってない。ちょっとどうしてそんな大事なこと黙ってたのよ」
「大事って。大変だったのは親だけで、俺がなんかしたわけでもないし……どうでもよくないか?」
無頓着、時間が経っていることもあってか、進は毛の先ほども気にしていないと言う。当事者でありながら傍観者のような態度なのは本心をそのまま表面に出しているからで、そんなことより次のつまみのほうが大事と心から考えていた。
それにはしっかりとした理由があるのだ。中学入学の頃から父親は別居していて、名目としては単身赴任となっていたが夫婦仲がうまくいっていないことというのは子供ながらにうすうすと感じるものである。中学三年の夏休み前にカミングアウトされたときには事情を飲み込むのに十分すぎるほどの時間が経っていたこともあり、とうとうその時が来たんだなくらいにしか反応できなかったのだ。
家庭崩壊の危機、親としては子に相談しにくかったということも影響の一つ、自分たちで答えを出して子供に変えようのない結果だけを伝え他に何を望むのか、勝手にしてくれというのが当時の進の心情であったとしても責めるところなどない。
結果として、親といえどもういい大人、二人が考えて出した結論に口を挟まず、今まで通りの生活ができればなんなりと従いますという人間が出来上がっていた。
「そういう子なのよ」
「言っとくけど何にも感じなかったわけじゃないからな。もっとうまくやれよとは思ってたし、ここで駄々こねて変わるくらいなら離婚なんてしねえだろうなって思ったから口を挟まなかっただけ。俺のせいにすんじゃねえよ」
進が悪態をつく。今まで言えなかった鬱憤を吐き出していささか気持ちよくなった彼は新しい缶に手を伸ばしていた。
ぶっきらぼうながら感謝もあったのだ。片親になったとはいえ母方の実家が近いこともあり大きく不自由した事などない。むしろ親の監視が緩くならざるを得なかったおかげで離婚前より自由が増えていた。
良くも悪くも思春期というのは保護者の存在を疎ましく思うもの、寂しい恥ずかしいと感じるより制限がなくなったことへのメリットに目がいってしまったのだ。だから大きな問題にしていない、する必要もなかった。
ここまでは進の内情の話、傍から見れば離婚した子供は可哀想と映ることが普通だ。だからだろう、紀美は瞳をうっすらと滲ませて、
「うぅ……あんたもあんたで苦労してたのね」
いわゆる泣き上戸、離婚なんて今どきたいして珍しいことでもないのに目を赤く染めて涙が零れ落ちるのを我慢するなんて感受性が豊かな証拠だった。
そこで引かずに慰めでもしたら女性からの評価も少しは変わるというもの、しかし進はにじり寄る紀美の顔面に手を当てそれ以上進ませることを拒んでいた。
「だーめんどくさい。みんな大なり小なり苦労してんだよ、いちいち泣くな」
「だって……」
「だっても待ってもない」
うざったらしく絡んでこようとする紀美を投げ捨てるように突き放し、進は距離をとる。これほど嬉しくないボディタッチもないだろう、押し問答している間に色々と触ってしまったが今は呼吸を整えることに専念していた。