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第46話

 翌土曜日、進が管楽器を演奏し始めて三回目となる日だった。

 昔取った杵柄ではないが、人は慣れる生き物だということを実感させるようで、一度覚えたことは記憶よりも身体に染み付いており、学生時代に指摘されたところが嫌なほど記憶にこびりついて、数度のミスで改善できるまでになっていた。それでも学生時代に出来なかった技法はそのままであるあたり、成長しているとは言えないのだが。

 それも楽器が良かっただけである。動きの少ないバリトン音域の楽器を扱っているからこそ、なんとかくらいついていけているだけで、もしメロディーラインを追うことになっていれば今より状況は悪化していたっことだろう。音符通りの音を拾っているだけであり、強弱やアクセントまでは気に掛ける余裕はまだまだといったところ。

 それでも素人に毛が生えた程度の水準までには至った。耳障りな雑音から和音にまでなると楽団の一員という気持ちになれる。本来ならば演奏が楽しくなる頃なのだが、進はひとまず安心という安堵の気持ちのほうが強く出ていた。

 何しろ定期演奏会まで練習があと一度しかないのだ。運動部と違い、本番でいつも以上のパフォーマンスができることなどありえないため、自分の定めた今日の目標まで到達しなければ居残りも覚悟していた。

「ふぅ……」

 緊張感と疲労を吐き出して、進は楽器を置く。午後の小休止の時間である、何事も根を詰めれば上手くいくなんてことはなく、昔とは違い適度な休憩が心身をリフレッシュさせ、より効率的な練習になることがわかっていた。

 さて……。

 いい加減向き合う時間だ、と進は考えていた。




 見たくもないものを蓋することは簡単だった。

 視界に入れないように、気取られないように、お互いの存在を希薄にする。ただそれだけで良かった。

 それも終わらせなければならない、と進が立ち上がる。いや、遅すぎたのだが。

 今、定期演奏会を控えてなお、部活の雰囲気はかつてないほど悪化していた。最悪と言っていい。

 原因はいくつかある。そう、ひとつではないのだ。同時多発した問題はどれも筆舌しがたく、とても真面目に相対することを忌避させられる。

「克樹」

「なんだ?」

「個人的に練習付き合ってよ。あと、今晩もうちに来る?」

 聞こえる声に進はやる気のギアがひとつ落ちる音を聞いていた。

 先週から克樹と真喜子は、まだぎこちないながらもよりを戻し始めていた。それはとても素晴らしいことで歓迎されらるべきことなのだが、ひとり、どうしても受け入れられない子がいた。

 雪緒である。

 というか、真喜子はその彼女に見せつけるよう、わざと聞こえる声量で話しているようだった。

 子供相手に何をしているのやらと思っても、進に非難する資格などなかった。翼のこともあるが、なんにせよ雪緒と真喜子どちらを応援するかと言えば迷うことなく真喜子である。それ自体は問題なく、ただどうにか隙をついて克樹に接触しようとするふたりは集中しているとは言い難い。

 どうにかしようと意気込んでみるものの、解決の糸口は今のところ用意されていなかった。何とかせねばと気持ちだけが焦る状況が芳しくないと、一旦棚上げし、次の問題に目を向ける。

 そこでは異なことが起きていた。まうみとさくら、人畜無害なふたりであるが、こちらも問題あり。

「さくら、さくら」

「もう勘弁してよぉ」

 何があったかと言えば単純で、さくらと年上男子との交際がバレたと言うだけである。元々人の恋バナに興味津々なまうみだから、発覚して以来さくらが質問攻めにあっているという、小さな問題だった。

 その疲労が練習にまで響くほどなのだからやりすぎである。加減しろと注意すれば今度はまうみの集中がなくなってしまう、悲しくなるほどくだらない両天秤だった。

 そして、最も重症なのが、

「――っ!?」

 指揮台の手前に置かれた譜面台を見つめていた紀美の肩が跳ねていた。何をしているのかと言えば演者に見えないことをいいことに、楽譜とともにスマホを立てかけ、隠れてやり取りをしているのだ。

 当然だが、バレている。いやむしろバレないはずがなかった。休憩中いつまでも指揮台に立っている指揮者がいる訳もなく、こそこそと隠れて操作している仕草は現代人にとって馴染み深く、だらしなく緩んだ顔で上の空、時折蛙のように跳ねるものだから挙動不審を絵に書いたよう。

 本来注意する立場の人間がそんな態度では雰囲気が緩んでも仕方がないというもの、それでも演奏技術は進が遠く及ばないのだから理不尽でもあり、でしゃばることが出来ない理由でもあった。

 しかし、我慢の限界である。

「お前ら! なんだその下手くそな演奏はっ!」

 叫ぶ。しかしこれは進の口から出たものではない。

 音楽室にいた皆が一斉に目を向ける。十六の瞳の先には、初老を軽く過ぎた老人の姿があった。

 老いてなお精悍な顔つきは、肉体にも現れていてアスリートを彷彿させる。その姿を見てあるものはあっ、と声を上げ、またあるものはげっ、と身を引いていた。

「誰? この爺さん」

 進の隣にいた翼が聞く。進にも検討はついていた、ただ口にするのも恐ろしく、しかし彼の性格を考えると言わないでおく方が恐ろしくもあった。

 観念して、

「……志賀先生、俺らが学生の時の顧問だよ」

 つまりは、部外者であった。

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