第41話
「はぁ……」
何度目かもわからないため息をつく。心地よいとは程遠い疲労感はあるが、確かに感じるのは充足感である。今は恥を上塗りしているだけでも、ブランクを埋めるべくみっともなくあがいた結果、欠けていたピースが次々とはまるように技術が元に戻っていた。
老化が進んだ身体では身体能力で全盛期に敵うはずがない。しかし一度身に着いた知識と腕前は忘れ去られることなくそこにあった。
……なんとかなるか?
このまま成長曲線が鈍化しなければという皮算用に、進は一時の安らぎを得る。皆に後れを取っているならば個人練習をして、という方法もあるがそれではどうしても気が緩む。実践に身を置いてこその反骨心がやる気につながることを理解していた。
並みのことをしていては追いつけない。あえて激流に飛び込む覚悟は確実に身を助けていた。
それでも恥ずかしいことは恥ずかしい。なにせ同じブランクがあるはずの紀美や真喜子ですら現役中学生に劣らぬ演奏を披露しているのだ。なんだ結局皆それなりに未練があった、自分と違ってこつこつと腕を錆びさせないでいたことに、不平が生じるのも致し方ない。
「おつかれ」
不意に声を掛けられ進が目を向ける。その先にいたのは翼であり、彼女も頬に疲労の痕を残していた。
「いやぁ、きっつい」
「そう? よかったよ。それにかっこよかった」
真正面から褒められ喜悦と羞恥で内心をかき混ぜられる。卑怯だろ、と惚気る顔はだらしなく垂れ下がり、自覚しているからこそ見られないように顔を背けていた。
顔を見ずともわかる、そんな子供っぽい姿を見せる進を見て翼はくすっと笑みを浮かべていた。惚れた弱みとでも言うのだろうか、上下関係ははっきりと浮かび上がっていた。
はい、と手渡されたペットボトルを受け取り、進は雑念ごと飲み干す。一応練習は終わりの時間である、管楽器の中に多量の唾が溜まることは避けられず、それもだらだらと垂らしていたわけでもないのにどこから出てきたのかと不思議に思うのが奏者の常であり、潔癖症からすれば地獄のような光景だが、そのままにしておけば錆の原因になる。演奏時に着いた指紋も拭き取らねばならぬなど、アフターケアにもそれなりに時間がかかるのだ。慣れた手つきで片づけ始める生徒に倣って、進も楽器に手をかける。
今日だけでも管楽器で四種類、打楽器も含めればさらに三種類増える。改めて考えても頭おかしいなと考えながら黙々と処理を進めていた。
その時のことだ。
「真喜子」
「……」
だいの大人がふたり、音楽室の入り口付近で物怪しげな雰囲気を醸し出していた。
それほど広くないのだから当然視界に入り、それどころか耳をそばだてなくとも会話が聞こえてしまう。緊迫した雰囲気を察してか、皆の手が止まり、その動向へ注視せざるを得なかった。
何も言わず帰ろうとした真喜子、その腕は克樹によって引き留められていた。
「なんで――」
「……誘われたから」
「にしたって一言相談くらいあってもいいだろ」
「なんで? もう他人でしょ」
おおう、と聞いていただけの進ですらその言葉の辛辣さに思わずのけぞっていた。間近で浴びせられた克樹ならなおのこと、捕らえていたはずの指からは力が失せ、残り香を置いて真喜子は消えていた。
静寂。
誰もが動けず、気の利いた言葉もかけられない。下には下がいるとはよく言ったものだが、あそこまで完膚なきまでに振られてしまえば茶化すほうにも勇気がいる。子供がどうにかするには重すぎる話であるが故、進は助けを求めてもうひとりの大人へと目を向けるしかできずにいた。
紀美である。彼女もまた片づけの最中で、視線に気付いたのち、
「進、どうにかしなさい」
相当な無茶ぶりに進は震えるしかなかった。
「俺なん!?」
「そりゃあんたが真貴を巻き込んだんだから……あ、これ洒落じゃないから」
「くだらないこと言ってんじゃねえよ」
「とにかく、責任を果たしなさい」
紀美は大仰に言う。これではまるで飼い犬のようであり、進もたまらず反論する。
「お前はどうすんだよ」
「そこにもうひとり重症患者がいるでしょ。こういう時同性だと役に立たないのよ、わかった?」
なんらエビデンスのない論調である。しかし進に克樹へかける言葉がないこともまた事実であり、言われるがまま後を追うことしか残されていなかった。
「真喜!」
駐車場に止めてある軽自動車のエンジン音が鳴り響く。進は今にも発進しようとする車の前に立ち、馬のいななきのように震えるボンネットに手をつける。
音楽室で逡巡していた時間など一分にも満たないというのに行動が早い。威嚇するがごとくアクセルを踏み込まれようとも進は怯まず、ギアがパーキングからアクセルに変えられても動じることはなかった。
「……なに?」
エンジンが切られてウィンドウが下がる。顔を覗かせた真喜子の表情は白粉を塗ったように白い。
「えーっと、話があるんだけど……」
「だからなに?」
問われ、戸惑い、沈黙する。
言われるがまま衝動に任せて行動したツケが回ってきていた。明確な答えを用意していなかったから、素直に白状する他、道はなかった。
「ごめん、話はないんだ。ただ話を聞ければって」
「話すことなんてないし」
「そんな意固地になるなよ。別になんだっていいんだ、今日の練習がどうだったかとか、そんな世間話から始めようぜ」
取っ掛りを求めて進が提案する。「暇じゃないんだけど……」と、軽い毒を吐きながら真喜子は深くシートに持たれていた。
「……下手くそ」
「悪かったな」
「いくらなんでもあれはなくない? さんざん足引っ張って、今まで何してたのよ」
何をしていたと問われれば答えることなどできない。何もしていなかったし、何もする必要がなかったのだから。
今日二十年ぶりに楽器を吹きましたと言い訳も出来た。それがどこまでも格好悪くみえて、進は項垂れる。
「人の事はいいじゃん。自分のこと話せよー」
「……」
答えはない。
果たしてどんな顔をしているのか、興味本位で顔を上げた進の目には、慌ててそっぽ向く女性の姿があった。なんだなんだ、なんだってんだと注視してみれば、今度は手を振って邪険に扱われていた。




