第40話
「金管だめなら木管? ティンパニーもあるよ」と、まうみが軽快に言う。
「フルートは駄目なんだっけ? オーボエかサックスなら、音域どこがいい?」と雪緒が続け、「クラリネットはどうかな。高音の三重奏、資料室にあった気がする」と、さくらが提案した。
それぞれが思い思いにアイデアを出し、進を追い詰めていた。
……遊ばれてんなぁ。
下手に色々な楽器の演奏経験があることが災いし、逆に選択肢が多く要望が尽きない。このままでは音楽室の中にある楽器を総ざらいさせられる未来が見えて、進は逃げ道を求めて視線を彷徨わせていた。
そこへ助け舟を出したのが克樹だった。
「ちょっと待ちな」
「克樹……」
「お前、ファゴットもいけるよな」
「克樹!?」
女子中学生に囲まれる進の外から飛んできた声に、怒る気力も失せる。これ以上候補を増やしたところで習熟させる時間がないことはわかっているはずなのに。
愉快犯じみた行動の裏で、一人輪へ入らずにいる人物がいた。
紀美である。
彼女は指揮者として、ではなく演者としての自主練を行っていた。腕にホルンを抱え、チューニングを済ませた後は適当な楽曲で指を慣らしている。その腕前は進と比べることすらおこがましい。
「みきすけ、お前卑怯だろ」
「え、何が?」
「こっそり練習しておいて、何が? じゃねえよ」
「こっそりって。指導するのに吹いてみせるくらい当たり前にするでしょ。何言ってんの?」
……。
道理は通っている。少し考えてみれば当たり前のことだった。勝手に自分と同条件だとゾンビのように仲間を集めていたつもりになっていたことが恥ずかしい。
言い負かされた鬱憤を吐き出すように楽器へ口をつけるが、そこからは掠れた音が飛び出すだけだった。
「――えー、協議の結果、曲に応じて楽器を変えるということに決まりました」
昼過ぎ、昼食後いきなりのことである。
指揮台に立つ紀美の言葉に一部から歓声が沸く。その様子を一人冷めた目で見つめていたのが進だった。
昼前に決まったことを再通知されたからではない、残り少ない時間で複数の楽器を吹き切る、最低限聞き苦しくないレベルまで引き上げることの厳しさに涙をこらえていたのだ。
愕然としたのが、楽譜が読めなくなっていたことだ。いや、音符休符、反復記号やスラーと基本的な音楽記号なら分かる、しかし演奏に合わせて音を追う目も指もまるで反応が悪い。
それがあまりに年寄り臭く、老化を実感させるに足るものだったから、テンションが低空飛行を続けている。その彼の後ろには弁慶よろしくいくつもの楽器が並んでいた。
「おっさん」
「んー、どした?」
「期待してるから」
翼の残酷なエールに怒るかと思いきや、進は「おう」と笑みを浮かべていた。内心にわだかまりが残ることもなく、たった一言で不安を消し去ったあたり、違う意味で重症だ。
それでも気持ちひとつで技術が上がるはずもなく、期待を裏切らないよう練習に励むと進が意気込んだ時だった。
「……」
「どしたの、おっさん」
進の視線が捉えたのは人影だった。音楽室の入口、その扉に開いたガラス窓から見た事のある顔が覗いていた。
休日の学校なのだ、そうそう人の姿はなく、以前に比べ吹奏楽部しか活動していないのだから尚のこと。もしや幽霊なんて妄想も、こう明るい時間では雰囲気が出ない。
その人影は朧気になることもなくはっきりと存在していて、時折隠れるように姿を消してはまた現れる、挙動不審を絵に書いたような行動を取っていた。進が気付くということは他にも気付かれるということで、徐々に集まる視線を何とかやり過ごそうと消えるものの、何故かまた様子を見に顔を出すのだ。
「……克樹」
「俺!? だよなぁ……」
進が呼んだのはかつての親友であり、この状況において責任を果たすべき人物だった。元とはいえ身内だった女性を捨ておく真似はさせられない。
愛用のトロンボーンを床に置き、克樹が立ち上がる。つかつかと脇目も振らず一直線に向かい、ドアを開けばそこに真喜子の姿があった。
「なにしてんの?」
「あ……えっと……」
「真喜? 今日来るなら連絡してよー」
一触即発の雰囲気になるかと思いきや、対峙した二人の間を割くように紀美が出しゃばる。いやこの状況では良い判断だ、少なくともいつかのような痴話喧嘩を子供の前で見せずに済むのだから。
「紀美……」
「楽器は持ってきたのね。じゃあ練習始めるから一番左に座って」
有無を言わさず紀美が指図する。神経質にタクトを振る様子を見て、真喜子は克樹を一瞥し、眼の光だけを残して移動していた。
その間何も言えずにいた元旦那の煤けた背中がやけに小さい。
「克樹も。戻れ」
「はい……」
哀れ、その一言である。
針のむしろというものが本当にあるのだとしたらこういう状況なのだろう、と進は感じていた。
演者七人による合奏は、まだ廃校の影のない頃の活気を匂わせるほどに盛大で、表現の豊かさに溢れていた。四方八方から音が洪水のように押し寄せて、波に乗れれば他の娯楽と比べても遜色ない高揚感を得られること間違いない。一度味をしめてしまえば恋焦がれる乙女のように目を離せなくなる、演奏とは聴者よりも演者の心を深く掴む魔力があった。
しかしそれもある水準までの技量があればこそ、自分に疑いを持てば躓き、転び、焦りが生まれる。紐で繋がれたマラソンの如く、連帯責任で共倒れしないように必死で食らいつくこと一時間、嫌な汗が背中に大きな粒を作る頃には心身ともに疲れ、粘つく口内は水を欲していた。
襟首から沸き立つ熱気が息苦しく、進はようやく一息つくことに成功していた。酷い演奏だ、とてもじゃないが人に聞かせるレベルじゃない。
バリトンサックスの奥深い音色は黒いキャンバスによく似ている。ソプラノ、アルト音域のカラフルな色彩が描く世界にテナー音域が陰影をつける。その支えが歪んでいればどうしても悪目立ちしてしまう、責任は重い。
それでも、嫌になって逃げ出したくなるような事はなかった。これが練習だからというのもあるが、欠点を欠点として受け入れ、少しの恥なら飲み込んで投げ出さない程度には大人になれたからだ。




