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第4話

 残務整理を終えた紀美の車に乗り近くのスーパーへと向かう。そこで今晩の買い物を済ませた二人は進の実家へと向かっていた。

 道中は他愛のない会話が花を咲かせる。だいたいが仕事の話、それも主に紀美が話し、進はそれに相槌を打つだけだ。仕方がない、共通の話題として今わかっていることは吹奏楽のことしかないのだから。

 悪く言えば当たり障りのないことばかり、お互いどこかで距離を取り合いながら、探り続けること一時間。近くの駐車場に車を停めて二人は進の家に辿り着く。

 変わらないものなどないと言うように、築三十年を超える家屋は色褪せて見える。まだまだ現役とはいえ昔に比べ世の中も便利になっているのだ、最新の設備と比べるまでもない。

 こじんまりとした庭を通り過ぎて進はドアを開く。昔と違ってしっかりと施錠されたドアは昨今の治安の悪さを物語っていた。

「ただいまぁ」

「……お邪魔します」

 間延びした声に続いて覇気のない声が響く。誰からの返事もないまま、進は子供のように雑に靴を脱ぐと、スリッパも履かずに近くの扉を開いていた。

「ん、遅かったじゃない。ご飯どうする?」

 十二畳のリビングにいたのは進の母、夏希である。ところどころニスの剥げたテーブルに座り、テレビを見ながら目だけを横に流していた。

 現在午後六時を少し過ぎた辺り、夕飯時である。連絡もなくぶらぶらとうろつき回っていたとしたら確かに遅い時間だった。

「買ってきたからいいよ。ちょっと人呼んでるけど大丈夫?」

「うん……は?」

 買ってきたものが入った、丸々太ったビニール袋を戦利品の如く見せつけるようにテーブルに置きながら進が告げる。その言葉の意味を咀嚼する前に進の後ろから現れた紀美の姿に、夏希の目が釘付けとなった。

「……お、お邪魔します……」

「……」

 紀美の再三の挨拶にも答えず、夏希は沈黙を保っていた。だが無反応という訳ではなく、自分の息子と突然の珍客の顔を交互に見比べては百面相(ひゃくめんそう)、ころころと表情を変えた後、

「ちょい」

 短い台詞とともに我が子を手招きする。

 別にお小遣いを渡すわけもなし、そんな歳ではないのだから当然だが、のこのことやってきた進の、その無防備なあほ面に手刀が突き刺さる。

「いっ――!?」

「色々言いたいけどまずムカついたから殴るわ」

「理不尽だろ!」

 訳が分からないまま痛みを伝える額を押さえながら進はまず苦情を入れる。くっきりと赤く(あと)が残っている様子を見るに相当な痛みであることは推測され、うっすらと目尻に浮かんだ雫がその事実を物語っているのだが、下手人である夏希は天罰とでも言うように気にした様子がない。

 それどころか息子の存在などないように紀美に目を向けると、

「いらっしゃい。汚いところでごめんなさいね」

「あ、いえ……失礼します」

 よく言えば気安いやり取りを見ていた紀美は頬を引き攣らせながら進の横に並ぶ。

 異質である。空気が、牽制に牽制を重ね踏み込めず、誰かがアクセルを踏み出すことを待つばかり。決して居心地の良い空間とは言えず、その原因は誰にあるのか。少なくとも夏希だけは(なぎ)のように穏やかであった。

 そして、

「……座らないの?」

「いや、座るけどもさ」

 夏希の声に、進は不満を顔に貼り付けながら答える。わけも分からず暴力を振るわれたとなればたとえ肉親といえど怒るに値するが、客人の手前乱闘騒ぎをする訳にはいかないと納得させるしかなかった。

 座り、紀美にも同じく座るように(うなが)す。進以上に警戒していた彼女も、そのパンツスーツに皺をつけながらゆっくりと畳の上に正座をしていた。

 しばらくの無言、テレビの音だけが響く姿がむしろ寒々しい。いたたまれない空気の中思うのは、こんなはずではなかったということだろう。本来ならば今頃他愛のない話をしながら酒を飲み、今日まで何があったのかをやや誇張し、時折昔話に花を咲かせていたのに。何もかも夏希のせいだと考えるのも仕方がないことだった。

 その彼女はと言えば。

「……で、何か言うことないの?」

 明らかに怒った口調が進を突き刺す。地獄の門の前で閻魔様の沙汰(さた)を待つ様子であるが肝心の進には身に覚えがない。その分たちが悪いとも言う。

「……なんでしょう?」

 また手刀。すんでで捕まえる。

 人は年々短気になるのだろうか、老害に一歩ずつ近づいている夏希は異様に手が早い。などとくだらないことを考えていた進の目には夏希の、呆れてどうしようもないという顔が映っていた。

 ため息、それもふたつ。

「あのさぁ、誰か呼ぶなら先に連絡しなさいよ。それに誰なの? 彼女? それとも商売女?」

 古臭い言い方をする夏希は進を睨んでいた。まるで刑事のようにどこまでも見通す瞳が怖い。それよりも母親の口からそんな言葉が飛び出たことが進にとってたまらなく恥ずかしいことだった。未だ清い体である、その手の話が苦手なのだ、得意な奴がいるかは知らないが。

 来客があるにも関わらず息子に恥をかかせようとする愚行に、たまらず文句を言う、しかしそれは不発に終わっていた。後ろから引っ張られ、言葉に詰まっていたからだ。いや言葉につまるというのも正しくない、襟首を思いっきり後ろに引かれ物理的に喉が締まっていた。

「……進、あんた連絡してなかったの?」

 今度は進の横から問い詰める声が鳴る。両手に花ならばどれだけ幸せだったことか、実際は鬼と呼ぶにも優しすぎる、進には断頭台に首を固定された幻想が見えていた。

 なぜだ、謎すぎる。こと、この状況に至ってもこの男は自分の仕出かしたことには無頓着(むとんちゃく)で、怒られている理由にも皆目見当もつかないという表情を浮かべていた。だからこそ、次に出る言葉は逆ギレじみたものになるのだ。

「けほっ……連絡……はしてなかったけど家に帰るだけでいちいちそんなことするか? 自分の家だぞ?」

「あんたの家じゃないわ。私の家でしょ」

 家主に言われてしまえば進もそれ以上は口を開けなかった。まさか肉親からそんな暴言を吐かれると思っていなかった彼の顔たるや、不満だけではなく裏切られたことへの失望が滲み出る。しかし民主的判断、多数決の法則からいえば悪は進である。認められるかと意気込み、徹底抗戦の構えはあれど存外心臓の小さい男、影で文句を言うならいざ知れず、面と向かって歯向かうことは難しい。結果として恨みがましい目線を向けるに留まっていた。

 ただ、それすらも気に食わない者がいた。

「……黙ってても分からないんだけど?」

 あぁ恐ろしい、女の情念とはこうも心底を凍えさせるものなのか。優位に立っているとわかればその口撃は歯止めを知らず、人の尊厳など簡単に打ち砕いてしまう。

 一応進の名誉の為に言うならばただ黙っていた訳ではない。いまだぐいぐいと引っ張られるせいで、リードをつけられた犬のようにおとなしくしているほかないのだ。それがなければ吟遊詩人よろしく雄弁になれるかと問われれば閉口せざるを得ないのだが。

 ただ事実として答えあぐねていることは変えようがないので、

「社会人なんだから報連相は当然でしょ。それに親しき仲にも礼儀あり、ってね。いつまでも学生気分でいるんじゃないわよ」

 なぜだろう、心が痛む。休みの日だというのに進の目頭には熱いものが(たぎ)り、顔は赤く――いやそれは本格的に首が締まっているからで――ともかく紀美の言葉で心身ともに折れそうだった。

 流石に苦しさが勝り始めて進は後ろから伸びる腕を軽く叩く。それだけでようやく緩まった首元は新鮮な、少しだけ重い空気を存分に取り込んで生を実感させる。こうなればやけもやけだ、進は不貞腐れながら、

「あーわかった、わかったって。連絡しなかったことも説明しなかったことも全部すみませんでした。こいつは中学の時、同じ部活の紀美でたまたま学校であったから飲もうって誘ったんだよ。これでいいだろ!?」

 まぁなんとも格好悪い。鬱憤を晴らすように買ってきたものの中から缶ビールを取り出し一足先に飲み始めるところなどその最たるもの。大口開けて喉に流し込むとこれみよがしに息を吐いてみせる。冷ややかな目線もなんのその、それくらい吹っ切なければやってられない状況だった。

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