第39話
「お前さぁ……」
後日、土曜日のことだった。
廃校間近の中学校、その空き教室に呼び出された進は目の前の椅子に座る紀美を、机を挟んで見つめていた。
ところどころニスの剥げた椅子に座り、足を組み直して眉間に指をあてる。しばらく紀美の言いたいように話を聞いていた彼は、艱難辛苦に顔を歪ませ、視線を床に落としていた。
話がある、と今朝一番に連れ込まれた時点で進に覚悟は出来ていたのだが、それにしても方法が杜撰というか、プライドがないのかと疑う程であった。将を射んと欲すれば先ず馬を射よという考えは合っているが、実践した紀美へ、今後の付き合い方を考え直したくなる。
「教え子に迷惑かけて、教師としての矜持ってもんはないのかよ」
「ない。そんなもん犬にでも食わしとけ」
はっきりと言い切りやがるから、進は考えることをやめていた。
醜く浅ましい、これが今の女性の姿だと仮定したならば婚活市場は正しく地獄である。肉食を超えた、言うなれば雑食悪食の類に頭を悩ませるくらいなら、無視するほうが得策だった。消極的な行動を諫めるようになった今でもことこれに関しては例外なのだ。
「それで、協力しろってか?」
「うん、お願い」
「嫌だね。それに結婚するだけならマッチングアプリを使うか結婚相談所でも行けばいい話だろ」
「えー……なんか怖いじゃん」
紀美は目をそらして指の指紋を合わせていた。三十すぎて生娘のような反応に進も思わず眉を顰める。いや、考えてみれば三十過ぎて生娘なのだ、間違いではない。
田舎特有の考え方なのか、街で行われている事柄に対して、どこか一定の不信感が存在していた。都会は怖いところという風潮が根付いているせいで、またメディアでも一部を大げさに取り上げられ、さも一般化しているように報道されるせいで、新しいものを忌避するのだ。年齢を重ねれば重ねるほどに顕著で、権威ある先生の言葉よりも隣のおばちゃんを信じたりもする。今の紀美はそれに近かった。
それはまた進にも当てはまる。都会暮らしが長いからと言って生まれも育ちも田舎である、培われた価値観は簡単に消えるものではなく、「まぁわかるけど」と前置きして、
「なりふり構っている時間がないなら一考の余地はあると思うけどな」
「わかってるわよ……でもそれは最後の手段というか、他に手を尽くしてからでもよくない?」
「まぁ……いいかどうかを決めるのは俺じゃないし、みきすけがそれでいいなら」
「む。どうしてあんたはそういつもいつも他人事なのよ。ちょっとは親身になったらどうなの?」
流石の進もその言葉には唖然としていた。そもそもここまで素直に話を聞いている時点で恐ろしく譲歩した結果なのだ、翼が受け入れた手前彼女の顔を潰さないようにしているだけであって紀美にとやかく言われる筋合いはないはずである。
以前と比べだいぶおかしくなった彼女にこれ以上付き合いきれないと進は首を振る。そして、
「とにかく、合コンしたいわけだろ?」
「違う、結婚したいの」
「……結婚するための相手探しをするために合コンしたいんだよな……よし、他を当たれ」
「なんでそうなるのよ!?」
なんでもかんでも、進は口をへの字に曲げる。机を叩き大口を開けて抗議する紀美の目はしっかりと見開いていて、ハンマーで叩いても意志は折れ曲がりそうにない。
厄介、というより面倒くさい。それにそもそも頼む相手を間違えてるんだよなと、進は考える。
「合コンするにしてもメンバー集める伝手がないぞ」
「……会社の人とかは?」
「うーん……比較的平均年齢高いし、結構結婚してるからなぁ。そもそも誰が独身で今フリーなのかもわかんねえし」
「把握してないの?」
「興味無いし」
進は真顔で答える。会社の同僚ではあるもののプライベートまで付き合いがある訳ではないのだ、逆に聞かれて困る話題をわざわざ振るような真似をするはずもなく、せいぜい仕事の愚痴くらいしか社内で話すこともない。一歩踏み込んだとしてもどこに住んでいるかくらいなもので、それも公共交通機関の遅延による遅刻を把握するためである。
……なんか、あれだな。
羅列してみると人嫌いのそれである。以前の職場のトラウマがあったとはいえ、進の顔には流石に物を知らなすぎると反省の色が浮かぶ。人付き合いを円滑に回すためには相手の好き嫌いくらいは知っておくべきで、今のままでは駄目だろうという気配が背中を刺していた。
となると、今回の合コンはある意味いい機会なのではと考えさせられる。
「……わかった。声かけてみるがあんまり期待するなよ」
予防線を張る癖はまだ抜けず、しかし紀美の表情は打って変わって花が咲く。こうも単純だとやりやすいなと思いながら、進は今後のことへ算盤を弾き始めていた。
息が漏れる。
唇を震わせているはずなのに一瞬音が出たかと思えばスカッと吐息だけが管を通り、再度同じことを繰り返しても改善は見られない。
躍起になっても、そんなことでどうにかなるなら長い練習は必要ないわけで、なにより先に進の顔はみるみる赤みを帯びて、たまらずマウスピースから口を離し呼吸を整えざるを得なかった。
「このレベルか……」
横で見ていた翼が呟く。落胆ではなく再認識、短くないブランクの影響をしみじみと感じているようだった。
今朝方色々と紀美の相談に乗っていたが、本題はこちら。十月に控える定期演奏会へ向けて、少しでも恥ずかしくない演奏をすることが求められていた。
しばらくしてようやく息も落ち着いた進の表情は暗い。いくらブランクがあるとはいえ基礎中の基礎、音を出す段階から躓くとは思ってもみなかったのだ、特に情けない姿を愛する人に見られているということがたまらなく恥ずかしいと赤面していた。
が、その翼は大して気にした様子もなく、
「ユーフォでこれじゃ金管は難しいかもね」
トランペットやホルンに比べ、ユーフォニウムはマウスピースが大きく比較的音は出しやすい。さらに大きいチューバもあるが、こちらになると肺活量がネックになるためお互いのいいとこ取りをした選択だったのが、それでも十全とはいかなかった。




