第34話
大人一人が足を畳んで入る湯船は、少女二人では相応に狭く、向き合い足を重ねるしか肩までつかる方法がなかった。
溢れるお湯の音が引いて、まじまじとお互いの顔を眺める。
「……翼ちゃん、最近よく笑うようになったよね」
「仏頂面よりいいからね」
そういうことをいいたいんじゃないんだけど、とさくらは唇を尖らせる。昔はなんにでも噛みつくか無関心で切り捨てる子だった、それが今では……噛みつき癖は治っていないが興味がなくとも話を聞く姿勢は保つようになっていた。
原因はひとつしかない。
「……いいなぁ」
「あげないから」
「そういうことじゃないもん」
馬鹿な妄言だと、さくらは首を振る。
横恋慕、ましてや同級生の彼氏を好きになるなんてありえない。しかも自分にも付き合っている彼がいるのだ。不義理にもほどがある行為、誰も幸せにはならないならするわけがないと、断言できる。
それでも隣の芝生は青く見えるのは致し方ない。
「……どうだった?」
ためらいながらも聞きたい気持ちが勝る。セックスしたとは聞いていないが二人裸でいたのだ、これで何もなかったら常識を疑わなければならない。
「……言わなきゃ駄目?」
「そこは言ってよ。もう気にするような段階越えちゃってるじゃん」
「控えめにいって……よかった」
頬を赤らめて白状した翼に、さくらはちくりと胸が痛んだ。
満足そうな顔である、少女から一皮むけた、女の顔。それだけで初体験がどういったものか窺い知れるというものだ。
真逆だな、とさくらは感じていた。自身の初体験では痛みに悶え、それでも相手はその欲情をぶつけようとしてきていた。好きな相手のために我慢しようとしたものの、最後は号泣までして弾き飛ばした記憶は印象的に残っている。
失敗体験はなかなか抜けず、ようやく慣れてくるまでに十回は身体を重ねていた。今ではそれなりに気持ちよくなれているが、精神的な充足感はともかく、早いのだ、物足りなさに夜自分で慰めることも少なくない。
あぁ、そうかと納得する。心に秘めている感情は惨めさなのだ。つい先程までは嫉妬される立場だった、それが今ではイーブン、それどころか先を行かれてしまって自分に何が残るのだろう。
……駄目。
ちらりと過ぎる妄想をさくらは掻き消す。それは駄目、本当に駄目なのだ。
しかし無視しようと目を背ければ背けるほど、影はどんどんと迫ってくる。それだけならまだいい、最悪なのが、光だと思っていた彼の存在が徐々に小さく、みすぼらしく見えてくること。黄金の塊だと思っていたものが実は錆びた鉄塊にメッキを貼っただけとわかってしまったようで。
「――にゃあ!」
「うわっ!?」
邪念を振り払うためにはこれしかないと、さくらはお湯に顔面を勢いよく叩きつけていた。奇行を目にした翼は顔にかかる水飛沫を手で拭いながら、
「何? どうした?」
「翼ちゃん!」
数秒顔を沈めていたさくらが頭をあげる。肩より長い髪はたっぷりと水分を含んでいて、それがまるで鞭のように翼の顔を叩く。
そんなことお構い無しにさくらは翼の肩に手を置く。顔の表面からボタボタと水滴を垂らし、真剣な目で見つめている。
「ごめん、私を叩いて――」
パンッ。
もはや言い切るよりも早く翼の平手が炸裂する。
パンッ。
二回も。
「……それは酷くない?」
「見なよこの顔。びっちゃびちゃなんだけど」
洗いたてになった顔を見せつけるためにさくらの頬をサンドする。確かにびっちゃびちゃである。
あまつさえ髪の毛で叩かれているのだ、水分を多分に含んだ髪は重く、そこそこ痛い。翼が苛立つのも道理が通るというものであった。
「それで。急にどうしたん?」
「……怒らない?」
「なるほど、多分だけど絶対怒る」
一行で矛盾しながら翼は断言する。怒られるようなことを言うつもりなら怒られて当然だった。
なら言わない、と言える状況でもなく、さくらはちらりと翼をみて、その目を合わせずに言う。
「気持ちいいなんて、羨ましいなぁ……」
「彼氏いるじゃん」
「……ちょっと違うんだよぉ」
言うなれば高級店と大衆食堂、当たりを引いたか引いていないかという話である。大変失礼な話だが、女子の話とはだいたいこういうものだった。
「なんていうか下手? 相性が悪いのかも」
「そういうもん?」
「わかんない。他の人とした事ないし」
「そりゃそうか」
「だからさ、駄目なんだけど羨ましいなって。思うくらいは勝手……じゃ駄目かな?」
それは恋心でもない、ただの興味本位から出た言葉だった。言わばアイドルとの疑似恋愛、叶わぬとわかっていても空想するならばお金はかからないという、一種の遊びだった。
突然の告白に翼は口を閉じ、唇を引き締めて考えをまとめると、
「……いいんじゃん?」
「いいの!?」
予想外の答えにさくらは目を丸くする。
それもそのはず、誰が好き好んでパートナーを明け渡すというのか、しかも今最良の初体験を済ませたばかり、楽しくて仕方がないはずである。
そこには翼の仄暗い考えがあった。
「うん、ちゃんと今の彼氏と別れてから、欲求不満なので棒だけ貸してくださいって頭下げられるなら。あ、言っとくけど奪いたいって言うならやめときな、刺し違えてでも殺すから」
本人の口調は軽く、しかし目は笑っていない。仮にそこまでしたなら翼は本当に許可を出すだろう、その代わり友達としての立場を無くすことになるが。
汚辱にまみれてまで得たいものなのか、そう考えたときさくらの中にくすぶっていた感情は冷水を浴びせられていた。
「ははは、大丈夫だよ。ちょっとナーバスになっただけだから」
「わかってるって。さくらにそんな度胸ないことぐらい」
「翼ちゃん」
「なに?」
「いつか絶対見返してやるんだから」
普段の様子とは裏腹に、おとなしくやられっぱなしでいられるほど子供ではなかった。
さくらの決意を聞いて、翼は含みをもった笑みを浮かべる。つられるようにさくらも笑うが水面下ではお互い強く拳を握りあっていた。
少女たちが風呂から出た時点で、時刻は深夜に突入していた。
問題があるかで言えば大問題、彼女たちが帰る電車は既になく、そうでなくともまだ酒精の匂いは残っている、なんの対策もなく帰す訳には行かなかった。
「……はい、すみません。私も寝てしまって――」
進は電話をしていた、相手は翼の父親、龍彦である。なんでも包み隠さず話せるはずもなく――まさか誓いを破って娘さんを傷物にしましたなどといえば信用を無くすため、疲れからふたりは夕方に長すぎるお昼寝をしてしまったていで話を作っていた。
『……そういうことなら、明日学校に間に合えばこちらからは……』
「はい、それは必ず。重ね重ね申し訳ありません」
話はつつがなく終わり、進は電話を切る。ひとまずこれで翼は大丈夫、しかし問題はもう一人の方である。
大人として保護者に外泊の許可をとることは必要であるが、さくらの親は進を認知していない。ここで翼がいるからと電話しようものならばどうなるか、火を見るよりも明らかだった。
そのため交渉は、本人任せにするほかなかった。
「うん、うん……大丈夫、迷惑かけないから。おやすみ」
「どう?」
「翼ちゃんのうちに泊まるってことでオッケー貰った。たぶん、大丈夫だと思う」
同時に電話していたさくらが告げる。事実確認をしてしまえばもろく崩れる嘘だが、流石にそこまではしないだろうと期待するしかなかった。
ともかく明日は早い。時間も時間なため、三人は寝る以外できなかった。
しかし、しかしである。
「おっさん、ベッドいこ」
翼はそう言い残して寝室へと向かう。扉を開けば数時間前まで淫靡な空間だったそこはいつも通りダブルベッドがどんと居座っている。
もともと二人で眠ることを想定されたサイズ、普段はそこを悠々と進が占有しているが、本来二人でも十分余裕がある。しかも今日は三人でもいけることが証明されていた、他に寝具がない以上川の字になって寝る以外認められていなかった。
実情はそうであれ、心情で受け入れられるかと言えばそうではない。
「わ、私は床で寝ますから」
「いやそれは駄目だって。俺が――」
かたやカップル、かたや同級生。どちらかが譲る以外方法はなく、二人は手を横に振って譲り合う。
「……何してんの? 早く来なよ」
そんな無駄な時間にしびれを切らしたのが翼だった。彼女は寝室から顔を覗かせて手招きをしている。
「え……いいの?」
「いいもなにも、それしかないし。変なことさせないから大丈夫」
気を使ったつもりがかえって迷惑、そんな顔をする翼に二人は取り越し苦労だったのかと顔を見合わせてため息をついていた。




