第30話
「なんかあった?」
進が車に戻り早々のことである。助手席に座っている翼の言葉に息を詰まらせていた。
聡い子である、隠し通せる自信は進になくて、
「雪緒ちゃんの頼みでまうみちゃんの悩みを聞いてた」
「どうだった?」
当然聞かれる。
まだ答えも出ていない、というよりまうみの意思が固まっていないのに進から言うのは違うと思い、
「……すまん。本人の口から言うまで待ってくれ」
軽い罪悪感を抱えながらエンジンをかけていた。
すぐに走り出して数秒、校内から車道に出るという時であった。
「……引越しかぁ」
「ぶっ!?」
翼がいきなり確信をつくものだから、進はたまらずブレーキを踏み込んでいた。
幸いなことに後続車両はなく、痛いくらい高鳴る心臓の音を聴きながら進はアクセルを踏み込む。気持ちはそれどころじゃなくて、
「え、なんで? どういうこと?」
動揺で声が震えていた。まさか心を読んだのかという疑念すら生まれるほどに。
もちろんそんなわけがなく、
「いや噂だよ噂。まうみんちが引っ越すんじゃないかってちょっと出回ってるんだ」
「……恐るべし田舎ネットワークってか。そういう所は相変わらずだな」
げにまこと恐ろしきかな。壁に耳あり障子に目ありというが、一体どこからそんな噂を拾っているのやら。
ならば何故雪緒は相談に来たのだろうか、彼女も知っていて当然である。進はなんとなく馬鹿にされているような気がして、アクセルを気持ち強めに踏み込んでいた。
「そのこと、本人に確認したのか?」
「してない。っていうかゆきに止められてる」
「なんで?」
「本人が言い出すまで待ってあげて欲しいんだって。別れ離れになって一番辛いのはゆきだから、本人の口からききたいらしいよ」
話を聞いて納得、そんなはずはない。
さっさと事実確認をして残り少ない一緒にいれる時間を有意義に過ごす計画をたてるべきである。そう考えるのは進が大人になったからだろうか。
「理由はなんなん?」
「わかんない。焦れったくてイライラしてる」
ひとまず安堵、ここしばらく問い詰められることが多く自分の常識に自信を持てなくなっていた進は胸を撫で下ろす。
面倒くさい彼女ムーブか、それとも後方で腕組みしている理解者にしかわからないなにかがあるのか、とにかくわかっていることは面倒事にまた巻き込まれたということだけ。若干気持ちが鬱になり始めた頭を、進はこの後のことを考えて気持ちを切り替えていた。
「ちがうじゃん!」
拗ねていた。そんな所も可愛いと進は思う。
そんな童貞臭い思考はよそにしておいて、翼が憤慨する理由は確かにあった。
「どうした急に?」
男性の声である、しかし進ではない。場所は進の実家であるのに、いままでいたことのない男性がソファーに座っていた。
ただ進には見覚えがある。それもそのはず、翼の父親なのだから。
「龍彦くん、どうかしたの?」
「あ、いえ。うちのが急に叫び出しまして」
「あぁ、よくあるわ。うちのダメ息子もそういうことあったから」
キッチンのほうから夏希の笑い声が聞こえていた。そんなことはないと進が首を横に振るも案の定無視される。
龍彦と呼ばれた男性は、肩身狭く居ずらそうにしていた。当然だ、娘の彼氏の実家にいるのだから。
どうしてこうなったのか、語るにさほど時間は必要ない。今朝連絡先を聞いた夏希が招待した、ただそれだけなのだから。
それだけだと言っても実際に呼ぶなんて普通ありえない。どういう感じで接すればいいのか、全員が手探りだった。
一人を除いて、だが。
「はい、じゃあ食べましょうか」
「お母様、その前にこの惨状を見て言うことはないのですか?」
「張り切っちゃった、てへ」
テーブルに所狭しと並べられた料理を一瞥して、夏希は舌を出してみせる。進の心に深い傷を刻みつけた。
翼が外泊するためには親の許可が必要である。しかしその親である龍彦が、自分とさほど年齢の違わない異性の家に泊まるなど許可するはずもなく、そこで一計を案じたのが夏希だった。要は一緒にいれば何かあっても対応できる、親としても安心なのは間違いなかった。
理屈では合っていても呼ぶ方も呼ぶ方なら来る方も来る方である。せっかくの甘い蜜月の時間に保護者同伴とは、翼でなくとも憤慨するというものだ。
「なんかごめんな」
「おっさんのせいじゃないし。お父さんもさぁ、こんな常識がないなんて思わなかった」
「いや……それは……」
娘にそっぽ向かれてしどろもどろ。自身でも普通じゃないことくらいわかっているようだ。
そこへ助け舟を出したのは夏希だった。
「ほらそんなにいじめないの。私が無理言って誘ったんだから。はい、飲むでしょ?」
缶ビールとグラスを二セット持ってソファーに座った彼女は嬉々としてプルタブを開ける。カシュッという子気味いい音を響かせて、隣に座る龍彦のグラスへと注ぎ入れていた。
「あっ、すみません」
「いいのいいの、手酌じゃこっちが申し訳ないから」
仮にも年上からお酌をされれば受けずにはいられないのが社会人の常、龍彦もお返しとばかりに注ぎ返す。
一連の流れを見ていた進が一言。
「……俺のは?」
「私の酒をなんであんたなんかにやらなきゃならないわけ? 欲しけりゃ自分で買ってきな」
「……あー、お母様の気前のいいところが見たいなぁ。お客様の前でケチくさい女と思われるのは子供として嫌だなぁー」
棒読み甚だしくて、傍から見れば痛い子のようである。が、それを聞いていた夏希は考え込むように、まさしく考える人のごとく顎に指をおいて、
「万理ある。よし、とってこい」
扱いが犬のそれである。はたして評価が本当に上がると思っているかは別として、進は嬉々として立ち上がっていた。
冷蔵庫の中からよく冷えた缶をもって帰り、席に着けば薄目を開けた翼の視線が突き刺さる。
「……恥ずかしくないの?」
「大人にはな、恥をかいてでも貫かなきゃならねぇ時がきっとあるんだ……ごめん、やっぱ恥ずかしいわ」
冷静な翼のつっこみに、進はうなだれながらビールを喉に流し込んでいた。
「あーあ、完全に出来上がっちまったな」
「はぁ……マジありえない」
ソファーに眠る成人ふたりを見ながら進と翼はそれぞれ感想を口にする。
酒精の香りが強く漂っている、それもそのはず、テーブルの上には飲み終えた缶や瓶が所狭しと、さながらコレクションのように立ち並んでいるせいだった。ビールだけならまだましだっただろうに、チューハイワイン日本酒、さらには焼酎ウイスキーと、地獄の底を煮詰めたようなちゃんぽんに、ざるな夏希ですら夢の中へと飛び込んでいた。
「まぁ、それだけ溜まっていたんだろ。お互い一人親、似た苦労をしていたわけだし」
舐めるように酔い覚ましの水を飲みながら進は言う。
食事の間に話した内容はさほど多くない。それどころか酔いが回れば何度も同じ話を繰り返し、その度何が楽しいのか腹を抱えて笑っている。おそらく翌日になればすべて忘れていることだろうけれど、一時でも吐き出せる時間となったことが当人たちにとって幸せであった。
つまりは、一滴もアルコールを入れていない翼にとって、親の痴態を見せられるだけのただただつまらない時間でもあったということだ。
「それは……そっか」
「別に翼が負い目に感じる必要もないけどな。誰にだって抱えてるものくらいあって吐き出すにも人を選ぶんだ、今回はたまたまうちの母親に吐き出せた、それで良かったってだけさ」
「そうなんだけど……知らなかったから」
後悔を滲ませた声で呟く。
母親が亡くなってから父と子二人で生きてきたのだ、お互い深く信頼し合ってきたのに内心ではと言いたいのだろうけれど、それは贅沢で傲慢な悩みとも言えた。子供の前で情けない姿を見せたくない親心がわかるにはまだ早すぎたようだ。
「夏掛け持ってくる。エアコンにあたりっぱなしじゃ風邪ひくから。その間風呂に入ってて」
「ん」
短い返答を聞いて進は立ち上がる。きっとあの二人は朝まで起きることはないだろうなと決めつけていたところ、後ろ髪引かれるような感覚で踏み出した足はその場に戻っていた。
なにかと言えば裾が引かれていただけ。
「……一緒に入る?」
恥ずかしがりながら、小悪魔が囁く。それだけで心臓が高鳴り、
「勘弁してくれ。血圧上がってぶっ倒れちまうよ」
進とて健全な男児である、下卑た欲求がむくむくと湧いてでるがそれを表に出すことは許されていなかった。
それで納得してくれるなら若気の至りという言葉はないわけで、翼は不満気な表情で感情をぶつけてくる。
「あんまり悠長だと、飛んでいっちゃうよ?」
「わかってる。でもまともなデートもしてないんだ、そういうのを積み重ねてからでも遅くはないだろ?」
「……今日、一緒に寝てくれるんだよね?」
「……頑張る」
何をだ。ナニをだった。




