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第3話

「今日はありがとね」

 当然の事ながら一曲演奏して終わりなんて甘いことはなく、その後も十曲以上付き合わされることとなった進は、久々に感じる腕の痛みと戦っていた。鉛の棒でしこたま叩かれたような鈍い痛みと重さは心地よくもなんともなく、疲労感は気持ちを落ち込ませる。せっかくの大型連休だというのに身体を休めるどころかかえって疲弊していてはなんのために実家へ来たのか分からないと自問していた。

 校舎内に入ることは流石に出来ないため、生徒が進のドラムまで片付ける様子を横目に見ていると、紀美が声をかけていた。

「労いなら現金にしてくれ」

「可愛くないやつ」

 という紀美の顔は緩い笑みが浮かんでいた。

 日は既に傾きを見せていて、これから大人の時間が始まるよう。この後の予定がない、元々暇に暇していたくらいの進は、

「この後空いてるなら一杯どうだ?」

 ゴールデンウィーク、教師とて連日部活動という訳ではないはず……自分の学生時代を思い返してみると休日返上が当たり前だった気もするので確かではないが、それを聞いた紀美は一瞬喜色を浮かべた後にあー、と芳しくない声を出していた。

 決して肯定的ではない反応に進は気にすんなと手を振る。

「忙しいんだろ、無理することはねえよ」

「違うって!」

 紀美が否定する。それがやけに力のこもったものだから進は気圧されて息を止めていた。叱られ萎縮する子供のようである。

 急な感情変化は紀美本人も意図したことではなかったようで、尻に火がついたように両手を振り広げて慌てていた。あまりに古典的な慌てっぷりに、進はついおかしくなって吹き出して笑っていた。

「どうしたんだよ、落ち着けって」

「あ、うん……ごめん、飲みたいなとは思うんだけど家が遠くてさぁ、代行頼める距離じゃないんだよね」

「実家は?」

 進が尋ねると紀美は静かに首を振る。

 その反応にやぶ蛇だったかと思ったのもつかの間、

「兄貴が家建てたからそっちで二世帯よ。元の家は売っちゃってないの」

 なるほどそういうことならと納得。ご不幸があった訳ではないことに進は胸を撫で下ろしていた。

 紀美の口ぶりからすると新築の家というのはこれまた遠いところにあるように思える。田舎だから交通の便もよくないため、数少ない居酒屋に行っても帰りの足に困る、そのために運転代行サービスがあるのだが、タクシー同様いい金額になるとするならば二の足を踏むのも当然のことだった。

 それくらい持つと進が言ってもいい顔はしないだろう、それがわかって八方塞がり、諦めかけた時だった。

「……なら家にくるか? 泊まって朝帰れば」

「えっ?」

 紀美は驚く。無理もない、男が女を家に誘う、あまつさえ宿泊していけというのだ、気が早いにも程がある。が当の本人、進にはそんな気持ちなど一切ないと断言できた。それは容姿や性格の問題ではなく、

「なんか変なこと考えてないか?」

「か、か、考えてないわよ! ていうかそれはこっちのセリフでしょ!」

「阿呆。実家だぞ、母親がいるのにそんな真似出来るわけねえだろ」

 言いながら進は冷ややかな目で紀美を見ていた。二人きりならいざ知れず、家は母親、夏希の城である、そんなところで不埒(ふらち)な行いをしようとするならば勘当(かんどう)されること間違いない。

 だから進の言葉に過不足はなく、一人舞い上がった紀美だけが顔を良く熟れたトマトのように真っ赤にして地団駄を踏んでいた。

「紛らわしい言い方すんな!」

 横暴である、正しく。

「そんな童貞みたいな反応すんなよ」

「ど、童貞じゃないし!」

「当たり前だろ」

 ただの比喩表現にも気付かずに反論するとは重症である、進にはそれ以上口を開かない優しさがあった。

 呆れながらも笑みを浮かべる進に自分の言葉を省みた紀美が鬼の形相で睨みつける。その姿を遠巻きに見ていたのは先程まで進と共に演奏していた生徒達だった。

「紀美ちゃん先生、鍵閉めてきました……喧嘩?」

「違うよ、ちょっと昔話に花を咲かせてただけだよ」

 生徒の一人が紀美の顔を見て言う。確かに喧嘩しているようにも見えるだろう、人は基本的に同性の味方をしたがるものだから、進は先手を打つ。

 玉城(たましろ)、彼女は紀美からそう呼ばれていた。担当はトランペット、進と初めに会ったのも彼女であった。何かと矢面に立つので恐らくは部長であると進は想定していた。

「お疲れさん、いい演奏だったよ」

「おっさんはダメダメだね。次までには聞ける程度にしておいてよ」

 玉城の後ろからかけられた声に一瞬進の息が止まる。おっさん、その一言がなんともいいがたく、そして否定もしずらい。

(つばさ)、手伝ってくれた人にその言い方はないでしょ。すみません……えっと」

「唐澤。唐澤 進です」

 そういえば挨拶すらしていなかったと、進は頭を下げる。相手はホルン奏者、黒縁の眼鏡のいかにもな雰囲気が佇まいを正させる。今も昔も変わらず、委員長と呼ばれる部類の真面目君が苦手だった。

 進をおっさん呼びした少女はトロンボーン奏者、素人目に見てもその実力は頭一つ抜けていた。何しろ音に不安を(あお)る揺れがなく、透き通る湖のように美しい。音色に性格が表れるとしたら女神のように可憐な心の持ち主だったであろうが、残念なことにそんなことはなくやる気のない目に警戒心だけがありありと浮かんでいるほど態度が悪い。そもそも、

「……これ以上邪魔するつもりはないから。部活頑張って」

「えっ、練習見に来てくれないんですか?」

 玉城が驚いたように言う。それにむしろ進が驚く。

「いや君たちの部活でしょ。こんなお兄さん――」

「おっさん」

「……おじさんが参加するっておかしくないか?」

「……そうですか?」

 余計な口を挟んだ少女はともかく、玉城は納得しかねるといった表情で真っ直ぐ進を見つめていた。

 ――なんで?

 理路整然としたことを言ったつもりである、それを純真無垢(じゅんしんむく)な瞳で跳ね返されるとは。予想だにしない事態へ進の顔の筋肉が引き()り始めていた。

 何度も言うが進は部外者である。教職の免許だって持っていないし、コーチングできるだけの技量もない。廃校間際だからと言って許可が不要なわけもなく、関係があると言えば卒業生だということくらい。今日の練習に参加したことですらかなり危ない綱を渡っているのだ。

 それに、

「ごめんな、こっちにも予定があるんだ。今日はたまたま実家に来ているだけで普段はもっと遠くに住んでるわけで、そう簡単には来れないんだよ」

 人間誰しも都合というものがある。流石に中学生ともなればそれを押し切るような真似をすることはなく、それでも明らかに肩を落としてすごすごと引き下がっていた。なかなかに良心が痛む光景である。

 これでいい、これが普通。その後は気落ちした玉城を囲うように少女たちは挨拶を残して帰宅の途へとついていた。その後ろ姿が見えなくなるまで見送った後、紀美が腕を組みながら口を開く。

「まだまだ子供ねぇ、あの子たちも」

「半分はお前のせいだろ。いやだぜ、変に恨みを買うの」

「……皆いい子なんだけど、ちょっと複雑なところもあるのよ。私から学校のほうには言っておくから、たまには様子見に来てあげてね」

「え、待って。待てって。なんでそういう話になったの? やらないって言ったじゃん。人の話聞いてます? ねぇ、ねぇってば――」

 進の声は虚しく空に消えゆく、紀美は一人納得しながら校舎へと向かっていた。

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