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第25話

「おい、いい加減にしろ」

 流石に程度がすぎると、進が魔の手から引き剥がす。驚くべきはその抵抗だろう、伸ばした手は叩かれ、掴んだ腕は振りほどかれ、終いには無防備に出していた足を踏んづけるなどの蛮行にをわ。及ぶ。子供が玩具を取り上げられまいと駄々をこねるような仕草は還暦間際の大人がすると目の毒だった。

 それでもやっとこさ押しのけて、恐怖に震える姫を進は腕の中に取り戻していた。悪名高い魔王をいつか成敗すると心に誓う。

「怖かったな、今後あのおばあちゃんの目には映らないようにするから」

「おばあちゃんじゃない、お母さんだろ。ほら、呼んでみて」

「お……お母さん……?」

 よくまあそんな図々しいことを言えるものだが、案外根の素直な翼は、半ば脅されているように恐る恐るその呼称を口にする。

 瞬間、顔をパッと輝かせた夏希は、

「やばい、効く」

「クスリやってんのか?」

「この子を産んだ時のお腹の痛みを思い出しそう」

「ナチュラルに記憶を捏造すんな」

 腹を愛おしく撫でる夏希の仕草が妙にリアルで、進は吐き気がすると顔で伝える。

 三文にもならない漫才に、翼は愛想笑いを続けていた。正しくいたたまれない、まだやることはあると進が腰をあげようとした時だった。

「進」

「……なんだよ」

「ちゃんと話し合いなさい。あんたはいつも周りを置き去りにするんだから。そういうところだけあの人にそっくりよ」

 かすかに憂いをにじませて夏希が言う。あの人、とは進の父親であり、夏希の元夫である。

 母親のおせっかいに少しだけ顔を赤くしながら、進はまた、と言って翼を連れていく。残された夏希は一つ大きなあくびをして午睡へと戻っていた。





 進が次に向かったのは中学校だった。日曜、この歳になってからは初めて行くのには理由があった。

 寝物語で語ったこと、喧嘩別れになっている翼と同級生の関係を元に戻すため、向かわなければならなかった。

「翼、大丈夫か?」

 一声かけると、翼は何も言わずに小さくうなずく。その代わりなのだろう、絡めた指にはじっとりとした汗が感じられていた。

 緊張が伝わる。ここから先、進にできることはそう多くない。

「……行くか」

「ううん、今日は私一人で行ってくる」

「……そっか」

 心配を表に出さず、進は頷くだけ。そしてよし、と小さな背中を押していた。

「頑張れよ」

「うん、おっさんもね」

 相変わらず、呼称はそのまま変わることがない。それでも振り返らずに校舎へ向かう翼の背中を、進は見えなくなるまでじっと見守っていた。




 

「翼!?」

「うん、ども……」

 開くはずのない部室の扉が開かれ、演奏が止まる。

 皆の目が向く先は、いつもより気乗りしない指揮棒を振るっていた紀美でさえも、突然の来訪者にその動きを止めていた。

 いつもならば楽器の準備に入るところ、翼は扉から一歩も動かずに視線を浴びていた。注目の的と言えば聞こえがいいが、実態はそう優しいものではない。紛いなりにも啖呵を切って出て行ったのだ、特に雪緒からはツンドラのように冷たい目で見られていた。

 ……よし。

 短く息を腹に詰め込み、翼は下がりそうになる顔を無理やり持ち上げる。見知った顔しかいない部室はやけに広く感じられていた。

「迷惑かけてごめんなさい! また皆と演奏させてください!」

 頭をこれでもかと下げながら声を張る。楽器にも勝るとも劣らない声量は普段のニヒルな彼女からは想像もできない音量だった。

 数秒、いや数十秒。無音が過ぎる。

「新名さん」

 その静寂を破ったのは顧問である紀美だった。

「はい」

 顔を上げた翼が見たのは、紀美ちゃん先生と呼ばれるようないささか威厳の足りない顧問ではなく、年長者としての堂々たる立ち姿だった。

 指揮棒が振るわれる。翼を指し、次に部室の奥、楽器のしまってあるほうへと。

「時間がないの。早く準備しなさい」

「っ、はい!」

 その一言で翼は部室へと入っていく。受け入れられたなんて甘いことは思わない、だからこそがむしゃらに実力を示すしかなかった。




 夕暮れ、部活終わり。

 吹奏楽部の四人は後片付けの後も部室に残っていた。四人膝を付け合わせての話し合いである。

 誰からそうしようという話が出たわけではない、自然とそうなっていたのは、ひとえに詳しく話を聞かないと納得できないという心情からだろう。

「ごめん、いいすぎた」

 先に謝ったのは翼ではなく、雪緒だった。

「ううん、こっちこそごめん。部活止めるは流石に言い過ぎたと思ってる」

 あの怒りまで否定する気はないが、それでも自身の短慮を謝罪する。まだわだかまりがなくなったわけではないが、表面上いがみ合うことは避けられていた。

 話はそれで終わり、なんて問屋が卸さない。花も恥じらう女子中学生にとって、日常の些細な出来事ですら世界の終わりのように話を盛るものである。そんな中翼のこれまでの動向は格好の話題となっていた。

「それで、昨日から今日にかけて何してたの。電話もメールも出ないってことは何かあったんでしょ?」

 問いはまうみから翼へと。

 嫌気から、同級生の連絡を拒否設定にしていたのは事実で、翼は返答に窮する。適当なことを言えばいいのだが、中々どうして説得力にかけるし、本当のことを包み隠さず言うにはまだ度胸が足りない。そも足りたとて、色々とありすぎたせいで妄想か夢物語と笑われてしまうだろう、そう考えると正解かないように思えていた。

 進の病気のことは話せない、個人の尊厳に関わる話だからだ。翼は当たり障りがないよう頭を捻り口を開いた。

「……おっさんの家に行って、話して……泊まった」

 直後、黄色い声が上がる。耳元で銅鑼を鳴らされたような音量に翼は思わず耳を押さえていた。

 外泊、それも異性の家。ここから何があったかを想像するのは容易い。問題は現実よりもずっと先に進んでしまっていることだ。

 まさか二度目なんて言えるはずもなく、言ったが最後、どこまでも根掘り葉掘り聞かれることは必至だから、翼は急ぎ否定する。

「違う、何にもなかったから!」

「当たり前よ……別々の部屋で寝たんでしょうね?」

 雪緒の鋭い質問に、即答はない。言っていいものか悩んだ結果は、それくらいなら大丈夫だろうという甘い見通しだった。

「同じベッド……だけど、仕方ないじゃん。他に眠れそうなところなんて床しかないんだから」

「それでそれで? 二人でベッドの中でどうしたの?」

「どうしたって……どうもしてないし」

「えぇー、抱き合ったり、キスしたりとかないの!?」

「ない!」

 嘘である。

 まうみは興奮して鼻息荒く問い詰めているし、さくらは想像豊かに顔を赤くしそれを見咎められないようにと手で覆い隠している。対称的に雪緒は腕を組んで冷ややかな目を向けていたが、その指は落ち着きなく蠢いていた。

 言いすぎたと後悔してももう遅い。同学年七人しかいない学校では誰々が付き合ったという話が出ることはなく、多感な時期の女子にとって飢え死にしそうなほどその手の話題を欲していた。そんな折に翼が年上の男性へ懸想しているというのだ、サバンナに放置された牛肉のごとく食い散らかされることは目に見えていた。

「泊まって何もなし、か。もしかしてそっち系?」

「そっち系って何さ」

「同性愛者」

「違うし」

「へぇ、なんでそんな事わかるのよ」

 ニタニタと底意地の悪い笑みを浮かべて雪緒が問う。はめられたというのか自爆したような、悔しさに翼は奥歯を噛み締める。

 ここまで来てしまえばもはや観念するしかない。

「はいはい抱き合いましたチューもしました。これで満足?」

「その後は?」

「その後はほんとにしてない……ってか、してくれなかった」

 翼の最後の言葉は霞みがかっていた。

 何もそこまで馬鹿正直に言う必要もなく、適当にはぐらかせておけばいいものを、変なところで真面目だから周りが沸き立つ。悔い滲む艷顔にまうみが目を輝かせていた。

「ま、常識があっていいんじゃない? まだ中学生なんだからそういうのは早いもの」

「……ゆきって結構むっつりだよね」

「はぁ!?」

 やられっぱなしは面白くないと、翼が言えば、雪緒は自分の腕を強く握りつぶしていた。

「どうしてそうなるのよっ!」

「でもゆきってむっつりじゃん」

 これはまうみの台詞である。その付き合いは幼稚園よりも前から、姉妹のように育ったからか、一番の理解者であった。

 流石の雪緒も親友から言われたのでは否定できず、これ以上余計なことを言うなと目で訴えるばかり。そんなことまるで気付いていないように、まうみの注目は変わらず翼に向いていた。

「でも羨ましいなぁ。部活も楽しいけど、女の子はやっぱり恋愛しなくちゃ。ねぇどっちが告白したの、付き合ってるんでしょ?」

「付き合ってる……?」

 問われ、語尾が持ち上がる。

 そこで疑問を持つというのはどうかと思われるが、面と向かって進が告白したかと言われればそんなことはなく、しかしもう両家に挨拶まで済んでいる。城は陥落目前だというのに周りの堀から埋められてなかなか攻略が進まないなどという事態に、翼は納得出来ないところを抱えていた。

 別に夜景の見えるホテルで花束を渡されたいというわけじゃない、交際している証拠があれば気の持ちようも変わるというもの。それが肉体的接触でも構わなかったのに、断られたからにはそれに代わるものが必要だった。

「なんていうか……多分付き合ってるんだと思う」

「煮え切らないわね。嫌ならはっきり言うべきよ」

「嫌じゃないんだけど、想像してたのと違うというか……まぁ結婚は早いなぁとか?」

「結婚!?」

 あまりに素早い反応が翼の脳みそを揺らす。いや、物理的にも、揺さぶられていた。

 身を乗り出したまうみが肩を持っていた。出来の悪い人形のように激しく動かされるに合わせてがくがくと首が前後する。

 過去一番の失言だったと実感したのは、それから三十分も問い詰められてからだった。

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