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第23話

 恥も外聞もなく大の大人がさめざめ泣く姿に翼が引いているかと思えばその逆、呼び水にでもなったのか、一旦引っ込んでいたはずの涙が呼び起こされていた。

「な、なんで翼が泣いてるんだよ」

「だって……わかんないよ……」

 わからないなら仕方ないな、なんて言えるはずもなく、居心地の悪さに進は顔をしかめていた。

 涙は続く。止める術を知らないのだから流れ切るまでそのままにしておくしかなかった。

 進は嗚咽もなく、秋雨のようにさらさらと。翼は正反対、土石流を何とか食い止めようと、歯を食いしばる。

 ひとつ、またひとつ。頬を伝う涙がこぼれる度、胸が軽くなっていく。心は壊れていた、薬とカウンセリングで糊付けされただけの応急処置ではどうしようもなかった、それが今しっかりと癒着を始めているようで。

 ……そっかぁ。

 馬鹿馬鹿しいなぁ、と自己嫌悪。とてもとても簡単なことだった、ただ誰かに必要とされたくて、見捨てられそうになって勝手に病んでいた。どこまでも自分勝手で独りよがり、呆れられても当然である。

 再発のきっかけはなんだったろうか、いや内心ではわかっていたのだ。進より優れた克樹の存在によって不要になる、何より――。

「翼」

「……なに?」

「選んでくれて、ありがとう。必要としてくれて、ありがとう」

「あたりまえじゃん……」

 当たり前、そんなはずないのに真っ直ぐ言えるところが子供らしく、その愚直さに進はまた涙した。好きとか嫌いではない、命の恩人への忠義とでも言えばいいのか、進の胸中にあったのは庇護愛だった。

 進は立ち上がり、まだ泣き続けている翼の後ろに回る。そして腕を肩越しに前へ、初めて進から彼女を求めていた。

 その頭皮に鼻を当てる。全てが愛おしく、ただその涙だけは悲しくて。

「部活、行ったのか?」

「うん」

「そこで嫌なことがあった?」

「うん。おっさんよりあのおっさんのほうがいいって、皆が。酷いよ、あのおっさんだっておっさんがいなきゃ来てないのに」

「そっか、ありがとな」

 おっさんとおっさんで事故渋滞を起こしていたが進は文脈からなんとか解読してその頭を撫でる。喧嘩したのだろう、じゃれ合うようないつもの言い争いではなく、本当の喧嘩を。

 場の空気に流されず意見するのはとても大変なことだ。それも仲のいい友達ならば尚のことである。そのリスクを背負ってでも進を庇ったこと、とても勇気のある行為は大人でもそうそう出来ない気高い行いだ。

 進の腕の中で翼が小さく喘ぐ。反転、首だけ後ろに向けた彼女と目が合う。

 涙は止まっていた。

 求めんとすることは分かる。以前の進なら拒否したことでも、今は別だ。

「ん……」

 甘く、淡く。

 心が繋がっていた。

 一度、二度。間を開けて、貪るように三度目、と。長く、濃く。歯止めという言葉を忘れて、愛を確かめる。

 限界だった。

「来てくれ」

 深くは言わず、翼もただ頷くだけ。その細い体に腕をのばし、軽い身体を抱える。

 向かったのは寝室だった。

 磁器を扱うように翼をベッドに寝かせる。その双眸が進を捉えて離さない。

 腕が、進を迎えるように伸びている。

「来て」

 今度は翼から。進は何も言わず、被さるように身を預けていた。

 そして――。

「……ぅ、すぅ……」

 寝息が鳴る。

 限界だった。

 限界だったのだ、一週間もろくに眠れていない彼にこれ以上起きていることなど出来はしない。指を重ね、しかし睦言一つ言うことなく、進は睡魔に誘われるがまま、深い眠りに落ちていた。

「お、重い……」

 最後に翼の、ヒキガエルのような悲鳴だけが部屋に残っていた。





「いや、しませんけど」

 三十分、短い睡眠を終えた進はベッドの上で正座していた。

 正しくは正座をさせられていたのだが、その命令を下したのは翼であり、のしかかりに耐えること同じ時間、ついには酸欠気味になって肉布団を跳ね除けていた。

 ぐっすり、とまではいかないまでも、久方ぶりにしっかりと寝落ちた進の頭は、憑き物がとれたようにはっきりと晴れ渡っている。そんな彼に提示された内容とは、ずばりなぜ手を出さないのか、だった。

 へたれだから、が返答ではない。むしろ命を賭して守る気概があるからこそ、その要望には応えられなかった。

「いいか、性行為に絶対なんてないんだ。もし子供が出来たらどうする? 責任を取るなんて簡単だけど、その後の翼の人生、もっとやりたいこととか、そういう枷を作りたくないんだよ」

「真面目か!」

「真面目じゃいけないんですか!?」

 大切に思うが故、一時の感情に身を任せてはいけない。後悔先に立たず、早く生まれ社会を経験したからこそ、自分が律さなければと、進が考えるのも当然のことだった。

 それを、翼は仁王立ちのしかめっ面で返す。興味があるのは年頃だから仕方がないにしても、恐ろしいまでに積極的である、進は軽く引いていた。

「そういう雰囲気だったじゃん」

「いや、それは違います」

「キスまでしたのに?」

「それは……その……」

 言葉に詰まる進。彼とて性欲はあるのだ、それでも踏み出してはいけないところはわかっていた。若干遅い気もするが。

「私って……そんなに魅力ない?」

 二回も断られた経験から翼が口にする。確かに見た目は貧相、男装すれば相応に映えるだろう、女性らしさという意味ではほかの生徒に劣っていた。

 それでも進は首を横に振るう。

「そんなことないよ。でもこればっかりはダメなのはわかってるだろ? それとも翼のことを考えないで自分の欲求だけを満たすような奴であってほしい?」

「それは……違う、けど」

 しぶしぶ、それでも納得しているのは馬鹿じゃない証拠である。

 難を逃れ、ほっと一息つく進に、翼はその頬へ手を添える。ひんやりとして指が寝起きの火照った顔には心地よい。

「じゃあ一つだけお願い聞いてよ」

「なんだ?」

「愛してるってキスして」

 こっぱずかしい台詞を真剣に、翼は言う。一つと言いながら二つ要求しているところがなかなか強かだ。

「愛してる。こんな俺だけど、選んでくれて本当にありがとう」

 茶化すことなく進は言い切り、いちばん優しい口付けを交わしていた。





 翌日のことである。

「おはよう」

「あぁ、おはよう」

 一人暮らしの部屋に、昨日までなかった挨拶が加わっていた。

 二度目の外泊である、昨晩は夜が更けるまで多くを語りあった。進の前の職場のこと、病気のこと。翼の部活を飛び出してきたこと、そして――。

「本当はね、私、嫉妬してたんだ」

 翼が進の家に来た真の理由について。

「誰に?」

「あのおっさん。皆が頼りにするせいで私もういらない子になったのかと思っちゃった。そんなことないのに、あの人じゃコンクールには出られないってわかってても必要ないのかなって。それで寂しくて、でも誰にも言えなくて、本当は慰めて欲しかったんだ。ごめん、こんな独りよがりで」

「そう言うなよ。こっちこそ辛い時に支えてあげられなくてごめん」

 お互い謝って、それで終わり。見ているほうが恥ずかしくなるほどの甘い空間だった。

 ただ一つ、進にはどうしても言わなければいけないことがあった。

「……あのさ、そのおっさんとおっさんが衝突してるから言い方変えてみない?」

 ひどく小さい事ながら、進は頼み込む。言われる度に事実とはいえ年齢の差、もう若くないことを再認識させられているようで、ちょっと心労になっていた。

 お兄さん、は流石に図々しいかな、と進が考えていると、

「……そっか、そうだよね。わかった、今度からバツイチさんって呼ぶ」

「そっちなんだー」

「だっておっさんはおっさんだもん。変えたら今までの関係なくなっちゃうから」

 理屈はわからないが、翼はそう信じてやまないようだ。

 そういうところも可愛いと思う進は既に重症であった。




 日曜の朝、空は夏の兆しを見せており、どこまでも澄み切った青空が目に眩しい。染みひとつない蒼穹は天高く、鳥の苦労を知らない人にとって大海を揺蕩う心地良さを憧れされる。

 雲のように生きられたなら、どれほど楽だろうか。ネオン光る街の下から人々は小さく考えるのであった。

 そんな中、進は車を運転していた。遠く見えるのは故郷の山である。助手席に愛する人を乗せて高速道路を疾走する。

 進の気分は日本晴れ、いつも抱えていた不安感が白の絵の具で塗りつぶされ、世間の明るさに目が焼かれていた。

 ハンドルを握る手は指が遊ぶ程度に余裕があり、安全運転、なれどアクセルの踏み込みは力強い。気持ち悪いくらい上機嫌な進は真っ直ぐの道を飽きることなく進んでいた。

「ねぇ、どこ向かってるの?」

 旧式のナビを見ながら翼が聞く。目的地はまだ表示されていないが、設定からして登録されている進の家ではなかった。

「翼の家だよ。だいたいは分かるけど近くになったら案内よろしくな」

「うん、わかった」

「あ、そうだ。今日はお父さんいるのか?」

「いるよ?」

 その言葉を聞いてそっかと返す。何もおかしなところはない、そう、進の胸中を除いて何一つおかしなところは存在していなかった。

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