第22話
飲食をせずにいた身体は、その生命を維持するためになけなしの脂肪を燃やし、生み出す熱も最小限、飢餓状態で冷えきった身体には温いはずのシャワーがスポンジのように染み渡る。
断食をすると体臭などがきつくなるという噂は本当のようで、中年間近の男性にとって臭いは禁句だった。効果的すぎるが故、国際ルールで制限が課せられるレベルに違いない。
二日ぶりのシャワーは汚れだけでなく憑き物まで落としてしまうようで、腐った脳みそは除菌され久方ぶりにすっきりとした思考ができるようになっていた。
わかっている、嫌なことを考えないようにしているだけだということは。
いつもより長く、肌が赤くなるほど丁寧に垢と臭いを落とす。気分は洗車に近い、それほど先程の一言が堪えたということだった。
「ふう……」
やりきった、そんなため息が漏れる。
風呂から出た進はバスタオルを巻いてリビングに戻る。そこには涙の跡が頬に白く残る翼の姿があった。
進が口を開く前に腹が鳴る。ようやく動き出したのだからなにか食わせろと駄々をこねているようだ。
とにかくカロリー、あと水分。生存欲求には抗いがたく、ちらりと翼をみて後ろ髪引かれながら、冷蔵庫へ直行する。
まだどうにか気力があった頃に買っていた食材がいくつか、それにすぐ食べられるゼリー飲料がぎっちりと詰まっている。経験が生きたな、と進は考えながらベーコンと卵、それと直ぐに胃に流し込める何点かを抱える。
五徳の上に置きっぱなしのフライパンを加熱、油をなみなみと注ぎ入れ、雑にパックを破いたベーコンを底が見えなくなるまで敷き詰める。
ぶつぶつと油の弾ける音を聴きながら、一パック分の卵を割り入れていく。卵白でべとっとする指を構うことなく、ゼリー飲料を握り潰して急場を凌ぐ。
灼熱のフライパンの上で所狭しと詰め込まれた卵黄が恨めしく見つめ返す様子を見ながら、
「腹は?」
「だ、大丈夫……」
翼の返答を聞いて遠慮なくソースをぶちまける。
まだ白身が半透明なのも気にせず、大皿に移す。進は軽く手とフライパンを洗い、皿とフォークを持ってテーブルに座った。
「体調、悪いんじゃないの?」
「悪い」
心配する声に短く答えて進はソースの味しかしないドロドロの半固体を口に掻き込んでいた。
決して美味いとは言えないものを、酷く汚らしく食べる。なりふり構う余裕があるならその分口を動かすことが優先だった。
味など二の次の食事はものの二分で終わりを迎えていた。ほとんど飲み込むように食べる姿は、飼料を食べる家畜よりも機械的だ。
空になった皿を置き、口元をティッシュで拭う。そこでようやく人心地ついた進は追加のゼリー飲料を咥えながら、
「……すまん、心配させたな」
「いや、いいんだけど……」
翼は呆気にとられたという表情をしている。無理もない、腰にタオルを巻いただけの男がいきなり暴食に走る理由を察しろなどできるはずがない。
冷静になると色々見えてくるものがある。お互い疑問しかない状況だ、どちらから口を開くか探り合いが始まっていた。
……俺からだよな。
仮でもなんでもなく、正しく大人である。子供に気を使わせるものではないと頭ではわかっていても、ではいざ何から話すか、と進は戸惑っていた。
整理すると、今日は土曜日、翼は部活をしている日である。進も同じなのだが体調不良で休むことは紀美に伝えていた。普通に考えれば心配になってお見舞いに来たと判断するだろうが、今はコンテストに向けての大事な時期、克樹から教わる機会を逃すとは考えにくいと進は思っていた。
そこは心配が勝ったと仮定しても、紀美に体調の詳細を聞けばいい、わざわざ金と時間を使ってお見舞いにくる理由とは? そこまで自惚れられず、また号泣する理由もわからない。
推論することは可能だ、どんな突飛な考えでも思案すること自体は自由、しかしそれで先日赤っ恥をかいた経験から進は気軽に口を開くことが出来なくなっていた。
……わからんなぁ。
結論、どうしようもない。長々と考えた結果がその程度ならさっさと質問すべきだった。
「あの……何かあった?」
どういう立場での発言なのだろう、まるで唐突に離婚届を出したっきり押し黙る女性を相手にしているかのごとく、おっかなびっくり様子を確認していた。
それに対する返答は、
「……いろいろ」
これまた反応に困るものだった。
これからどうしようかと、悩む。食欲は満たされた、活力も湧いている、しかしそうなれば次に満たしたくなるものは睡眠欲求で、進の瞼は徐々に加重されていた。しかし寝てしまえばまたあの悪夢である、次また起き上がれる保証がないため、頼る術は外にあった。
できることなら翼など放っておいて、というのが進の本音である。それが出来たらここまで苦労していないのだが。
兎にも角にも知らなすぎることが原因、最後の気力を奮い起こして、進は背筋を伸ばしていた。
「ほら、話してみろよ。なんかあったんだろ?」
「……身体、大丈夫なの?」
「眠れないんだ、病気だから」
「病気? なんの?」
「鬱病」
進は隠さずに自分の汚点を告げる。このことを知っているのは夏希だけだった。
「まぁ俺のことはいいんだよ――」「よくない!」「……そう言ったってどうにも出来ないだろ? 翼だけじゃなくて俺にも。お医者様からお薬貰えばよくなるんだから放っておけ」
進としては冷たくあしらっているつもりはなく、ただ事実を並べているだけだ。簡単に治る病気ではないことは痛いほど身に染みているわけで、今この場でできることはないし対処法も明確、変に気負う必要はないと配慮した上での発言だった。
だからまた泣かれるなんて想定しておらず、そもそも女性の涙に耐性がないことも相まって、進は挙動不審なまでに首を左右へ振っていた。
「ど、どうしたんだよ?」
「ごめん……すぐ、泣き止むから……」
健気に目元を押さえる翼に、進のほうが悪者に感じる始末。どうにか涙を止める方法を探してみるが、視界の中には数える程しかものがない。中学生がものに釣られるかという問題は置いておくとして、ない以上何かで慰めなければならなかった。
「……ティッシュ、使えよ」
せめてハンカチくらい用意しろ、同席している人がいたらそんなヤジのひとつでも飛んできそうなものだが、翼はうんと頷いて、遠慮なく三枚掴むと盛大な音を立てて鼻をかんでいた。
より赤くなった瞳が進を見る。
「ほんとに、ほんとに大丈夫なんだよね?」
「あぁ、とりあえず今はな。翼のおかげだよ、ありがとな」
「私……何もしてない」
「こうやって話しかけてくれるだけで随分楽になるもんなんだよ。風邪じゃないんだ、気が紛れるだけで調子も変わるってもんだ」
「治ってる訳じゃないんだよね?」
「治んねぇからな、一生」
進は断言する。一度ヒビが入った心はどれだけ補強してもその脆さを抱えて生きていかなければならない、治療を続け完治したように見えても些細なことで再発する。それでもここ何年も大丈夫だったことが今回の油断に繋がっていた。
それこそ根治させるには脳みそを取り替えるしかない。でなければストレスのないぬるま湯の環境を選んで、怯えながら過ごす他なかった。
「……治したい」
「無理無理、治んないから」
「それでも――」
「無理なもんは無理。それにそこまでする義理もないだろ? 面倒くさいぞ、精神疾患抱えた奴と一緒にいるのは」
「うるさい、私にはおっさんが必要なの!」
怒鳴られた。理不尽であり子供らしい主張はただ大人を困らせる。
でも、悪い気はしない。
「必要って言ったって、克樹がいるだろ。あいつのほうが何倍も――」
「関係ない、いつも一緒にいてくれたのはおっさんだもん」
そんなことはない。そんなことはないのだ。進が練習に付き合ったのは数える程しかなく、そのうち半分はごたごたのせいで楽器に触れていない日もあった。密度からみれば余程克樹のほうが濃く練習に参加していると言えた。
腕前も知識も、性格ですら敵わない相手。上位互換。百人いれば百人が進より克樹を選ぶだろう。
それでも、翼は進を選んだ。
それが、うれしくて……。
氷解、凝り固まっていた心がほどけ、熱を帯びていく。
「ど、どうしたの?」
進の眼に映る翼がゆがみながら慌てていた。それが自分の涙によるものだと気づいたのはもう数滴テーブルに滴り落ちてからだった。
泣いている、泣けている。病気と診断されてからどれだけ辛くとも滲むことがなかった結晶が留まることなく頬を伝う。これまでの分を取り戻すかのようにとめどなく、静かに……。




