第21話
「進は?」
「体調不良だって。先週も具合悪そうだったし、厄介な風邪でも引いたのかな……」
土曜日、音楽室の前で克樹と紀美が話していた。話題は二人の友人のことである。
体調管理も大人の努めではあるが、本当に辛いのならば心配くらいする。特に大人の風邪はこじらせると尾を引く経験があるから、他人事ではいられない部分もあった。
「あとでもう一回連絡してみるわ。とりあえず今は部活に集中しましょう」
「あぁ、そうだな」
後ろ髪引かれる思いを抱えたまま二人は音楽室に入る。
そこには四人が楽器を構え待っていた。ただ先週までいたはずのドラムの主がいないだけでやたらと広く見えていた。
「……おっさんは?」
「病欠。今日は来ないわ」
案の定というか、進へ子犬並に懐いている翼が聞いてくる。事情を知らない、ということは常日頃から連絡を取り合う仲にまではなっていないということ、紀美は人知れず胸を撫で下ろしていた。
彼女はそれ以上何も言わずにいた。少しは噛み付いてくるかと戦々恐々だった紀美も――最近どうにも苦手意識が出てきて、教師として不甲斐ないと思いながら――良かったと、気持ちを部活動に切り替えていた。
さて、今日も練習が始まった。
それを言葉で形容するならば、なんというのだろうか。
ひとつの事柄でも見る方向を変えれば違った印象を受ける、錯視というほどではないが、当事者からすれば変に感じるものだった。
「うん、いいね。もう少し姿勢を上げてみようか」
最近来ただらしない男、克樹が個別に指導している。幸運なことだ、実際彼が来て皆見違えるほど上手くなった。特にさくらは、彼が提案し買ってきた真新しいマウスピースに変えてから、明らかに音の響きがよくなっていた。
好調、順調、好転、多くの人は現状をそのように判断するだろう。短いながら信頼を勝ち取った克樹の指導は丁寧であり的確、これ以上のものを望むならそれこそ金銭を多く支払う必要がある。
なんら問題はないように見えるし、実際問題ないのだが、ただ一人現状を快く思わない人物がいた。
翼である。
同じ楽器、厳密に言えば音域が違うけれど仕組みとしてはだいたい同じ、つまり一番恩恵に与る立場であるのだが、克樹からの指導はほとんど受けていなかった。言うことはある、他にかかりきりだからということもない、単純に彼女のほうから関わりたくない、それは拒否と言って過言ではない程だった。
何故か、それは気に食わないから。
理由ははっきりしていて、七割程が嫉妬だった。
今はトロンボーンが翼一人だが、過去、といっても二年前、翼が一年生の頃に三年の先輩が一人トロンボーンを担当していた。お世辞にも上手いわけではなかったが、先輩が卒業後トロンボーン奏者は翼一人、だいたい一年半の間テナーパートを支えてきた自負があった。
そこへぽっと出てきたのが克樹である。それなりに不真面目な翼にとってもその事実は面白くなく、さも彼中心に回り始めた部活がいつもより遠く感じられていた。
逆立ちしても敵わない技量のせいで文句を言うことも許されない。その点進はよかった、誰ともパートが被らず、腕前もそれなり。口を出すことがあってもあくまで同じ目線で話していたから。
……おっさん。
どうしてこんな時に限って彼が居ないのか、翼は悶々とした感情を抱えながら何も見ないようにして練習に向き合っていた。
その昼のことである。
生徒は昼食の匂いが残ると部活動に影響があるということで、別の教室でお弁当を広げることが伝統となっていた。今日も例に漏れず、机を合わせて四人は包みを広げていた。
「なんか、変わったよねぇ」
「いいことじゃない。私もうかうかしてられないわ」
いつも通り、まうみが捲し立てるように話し、他三人が相槌を打つところだが、今日は違っていた。急に頭角を現したさくらをまうみが褒め讃え、それに雪緒が乗っかったのだ。
普段なかなかないことに照れるさくらだが話の本題は別、ここまでは続く話題に対する前振りでしか無かった。
「克樹さん、すごいよね。流石元プロって感じ」
「そうね。指導も分かりやすいし安心感はあるわ。ちょっともったいないくらい」
「ね。でもゆき、隣で指導されてる時顔赤くしてたよね、ああいう人が好きなの?」
女子といえば恋バナ、恋バナといえば女子なのである、唐突に繰り出された色恋話に雪緒は酷く慌てた様子で、
「は、はぁ!? そ、そういう目で見てないし!」
「本当?」
「……そ、そりゃぁ、頼りになるし、大人だし……顔もかっこいいし……」
誰も聞いていない感想まで飛び出す辺り、語るに落ちていた。
それを聞いてまうみは満足そうに頷いていた。主食が恋愛怪獣はまだ青い果実をひと舐めして、赤く熟れるまで待つようだ。
青春らしい青春の一コマである。それをハンマーで叩き割ったのは、不機嫌そうに顔を歪めた翼だった。
「……悪趣味」
ボソリと、しかしはっきり聞こえる声量で冷や水を浴びせる。それは奇しくも先日雪緒が言った言葉と同じだったから、瞬間湯沸かし器のごとく顔を赤くした雪緒が薄刃のような目できつく睨んでいた。
「何その言い方」
「別に。でも養育費ありバツイチって褒められたもんじゃないことだけは事実でしょ」
本人が聞いていたら血反吐と血涙を垂れ流しそうなことを翼は平気で言う。しかもそれが純然たる事実だから、雪緒も反論しにくかった。
その代わりだろうか、雪緒の口から出たのは他者を貶める言葉だった。
「でも私たちにとって克樹さんはとても有意義な時間をくれているわ。あなたが懸想している人よりもね」
その言葉を聞いたとき、翼の脳内で何かが切れる音が鳴り響いた。
机の下で拳を強く握る。激情に任せ机を叩かなかっただけまだ理性的とも言えた。
「――そうやって皆切り捨てていくんだ、いらなくなったら」
「えっ……?」
「もういい。部活止める」
帰る、ではなく止める。翼はその覚悟があった。
お弁当すら回収せず、自分のバッグをひったくりのように掴むと風となって走りだしていた。そのあまりの切り替えしの速さと決意のこもった言葉に三人はかける言葉を探す間もなかった。
「はぁ……」
分厚い遮光カーテンにより昼間でもそれなりに暗い部屋の中にため息の音だけが繰り返される。
ベッドと机、それ以外見当たらない部屋は壁紙の色を変えれば本当に監獄のようで、気を紛らわすものなど一つもない。
そんな中、部屋の主はというと、ベッドの上で蓑虫となっていた。布団に包まり膝を曲げ、大きな身体を抱え込んでもなお、その窪んだ目は閉じることがなかった。
寝よう、と考えていた。
寝なければ、という思考に襲われていた。
それでも眠れない。眠れば待っているのは悪夢である。暗い水底、沈む肢体の上を子供達が目もくれず通り過ぎていく。苦しくもなく考えることもなく、ただ生きているとも言えない状態で誰からも見向きもされない。求められず欲することなく、死ぬことすらない。
無である。無になりたくなかった。
だから眠れない。熱はないのに全身が倦怠感に縛られ、呼吸することすら億劫に感じていた。かれこれ丸一日水すら喉を通っておらず、それがさらに体調を悪くする、悪化の渦を描いていた。
進にとって初めてのことではなかった。それだけに今回の状況は堪えきれないほど辛く、どうにかしようと思考の片隅では考えているものの実際動けずにいた。
ピーンポーン……。
こんな時に限って来訪者を告げるベルが鳴る。いやむしろよかった、起きる理由になるのだから。
しかし進は動かない。おそらくセールスだろう、普段も居留守を使っているのだから気分の悪い今でも同じことだった。
ピーンポーン……。
ピーンポーン……。
ピーンピーンピーンピーンピーンピーピーピーピピピピピピドンドンドン……。
「――うるせえ!」
近所迷惑という言葉を知らないらしい、ベルだけでは飽き足らずとうとうドアを叩き始めた厄介な存在に、進は声を荒らげていた。
死んだ心のうちに湧いたのは怒り。進は普段怒ることはない、怒りを維持することは燃料をくべるために疲労を伴う、そもそも怒られてばかりの人生、怒り方がわからないなど、怒るくらいなら諦めるような人間だった。今回の騒音ですらいつもなら怒らず、むしろ怖い、警察を呼ぼうと考えただろう。しかし今まともではない心身が冷静な判断を遮っていた。
先程まで感じていた気だるさなどどこへ消えてしまったのやら、進は掛け布団を蹴り飛ばし身体を起こす。未だ鳴り続けるノック音はポルターガイストによる激しいラップ音のようである。
玄関までは二十歩ほど、そこを十数歩、十秒足らずで辿り着いた進は覗き穴から様子を見ることすら忘れてドアの鍵を開けていた。
「近所迷惑かんが……え……お?」
ドアの先、見慣れた廊下が続いていて、視線を下げればよく知る少女の顔があった。それだけならば進は大人気なく怒鳴り散らしたであろう、しかし彼女の瞳から滝のようにこぼれる天使の雫を見てその気も失せていた。
「よがっだぁ、じんでるがどおもっだからぁ……」
今期通算三度目、よく勝手に殺される男である。
ドアの前で泣いていた翼はそのままアメリカンフットボール選手並みの力強さで進の腰に抱きついていた。背骨からよくない音が脳みその天辺まで響き、嫌な汗が吹き出ていた。
数日寝たきりの進に、中学生とはいえ人ひとり支える力などなく、勢いそのままに尻から倒れる。覆い被さる翼を退ける余力もなく、
「――くさっ! なんか臭いんだけど!」
口撃による追い討ちは弱りきった心にとどめを刺していた。




