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第20話

「よう」

 見知らぬ電話に出た進の耳へ届いた第一声は個人を特定するには至らなかった。

「すみません、どちら様でしょうか?」

「え、あぁ。克樹だよ、急に連絡してすまん」

 かつき、かつき……あぁ。先日あった友人の声は電話越しではまた違った印象を与えていた。

 野球部の応援から五日、現在は木曜日の夜である。進は自宅で夕食を食べ終え、これから寝るまでの間、無為に過ごす時間だった。

 しかし、なんで。

 進が感じていたのはそんなことだった。

 土曜日、うまくいったとは言えない打ち上げの後、連絡先も交換せずに別れたのである。克樹が電話番号を知るはずがなかった。

 紀美が教えた、にしても性急すぎる。進ならいざ知れず禍根が完全に解消されたとはいいがたい彼女と、まだ面と向かって話すなんてしないはずだ。

 ではなぜか。進は思いつかず聞くしかなかった。

「なぜ番号知ってるんだ? まさかトイレ行ってる間に盗み見た? だとしたら二度と連絡してくんなよ」

「違うって。夏希おばさんから聞いたんだよ」

 ……あぁ。

 余計なことしやがって。進は眉間に深く皺を寄せていた。電話だからできることである。

 中学時代、進と一番仲が良かったのは克樹、当然家へ遊びにくることも複数回あった。その場所が変わっていないのだから来訪することなどいともたやすく、夏希とも知り合いであるから聞き出す程度たいした労力でもない。

「また……なんでそんなことを」

「実はさ、夏希さんとは何度かあってたんだ。結婚式にも出てもらったし」

「はぁ? 聞いてねえぞ」

 初耳である。まさに寝耳に水とはこのこと、友人の結婚式に当人を差し置いてその親が出るとは前代未聞である。

「だってその時お前音信不通だったじゃん」

「……うっす」

 ……うっす。

 確かにそうだった。最初の就職後、とてもじゃないがまともな精神状態ではない日々のせいで外部からの連絡を一切遮断していた時期があった。そうでなくとも普段から人に連絡することが面倒に感じる人間なのだ、それでは死んだと思われても仕方がなかった。

 今は心身ともに復調、健康診断で年々体重と腹囲が増えていくことをおびえる程度には物が食えるようになっていた。

 いらない心配をかけたことへ母親である夏希には負い目があった。そこも強く出られない原因になっていた。

 しかし、それならそうともっと早くに言ってほしかったと、進が感じるのも無理はない。

「――で、人の母親と何してんだ? ……手、出してるとか言ったらそのソーセージ切り落としてやるからな」

「阿保言ってんじゃねえ。まぁ……いい人だけど、流石にそこまで節操なくないっての」

「言葉に詰まってんじゃねえよ、気持ち悪い」

 同級生が自分の母親に懸想している様子を思い浮かべ、進は口の中に苦いものを感じていた。先日のことといい、克樹の扱いが親友からそろそろ知人にまで降格しそうな勢いだった。

「で、なんの用?」

 そんなこと今は大事ではないし、考えたくもないと自分から振った話を強引に掻き消していた。

「あー……その、先日迷惑かけただろ。だから何か償いをしたい訳で。夏希さんから聞いたけど後輩の指導もやってるらしいしその手伝いでも出来たらなって――」

「無理」

 質素なテーブルに座る進の声は殺風景な部屋によく響く。

 一言で断られ電話越しに息の止まる音がした。

「俺も部外者だし、みきすけに聞けみきすけに」

「……着拒されてんだよね」

 それこそ知るかという話である。

 要はメッセンジャーになれということだ。迷惑かけたというのに、これではただ上乗せしているだけにすぎなかった。

 ふざけんな、断ろう、進がそう決めたときだった。

「――夏希さんからもお願いされてるんだ」

「おま、それ卑怯だぞ!」

 さすが四半世紀以上母親をやっているだけあって進が断るだろうことも織り込み済み、先に退路を断つことなど造作もないことだった。





「というわけで、今日から下僕二号が参加することとなったので皆遠慮なくこき使うように」

 また数夜明けての土曜日、音楽室ではとても教師から出た言葉とは思えない暴言が吐き出されていた。

 新入社員の紹介のように、指揮台に立つ紀美から右手側に進、そして今日から克樹が並ぶこととなっていた。下僕二号、ということは一号もいる、そういうことだった。

 追求したら負け、紀美は明らかに不機嫌な顔をしていたから進も黙る。原因は言わずもがな、それでも助力を受け入れたのはひとえに生徒のためを思ってのことだった。

 練習が始まる。野球に大会があるように吹奏楽部にもコンテストのようなものがある。夏休みに入ってすぐ、地区の中学生が集まり優劣を競うのだ。一番大きな出番に向けて、一年練習していると言っても過言ではない。

 その指導役として、プロの経験は何物にも代えがたかった。個人の好き嫌いを抜きにする程度にはメリットがあった。

 克樹は自分の楽器を持ち、演奏に加わる。トロンボーン、それも迂回管で後ろがごちゃごちゃしている、バストロンボーンだ。十年以上使われてなかったにしてはその光沢に曇り一つない。

 演奏が始まった。

 進は後ろから、紀美は正面から演者を見る。

 だからこそはっきりわかるのだ、格の違いというものが。

 それほど造詣の深くない進ですら理解する、理解するといっても技術的な話ではないのだが、黄金に輝く大剣(トロンボーン)を巧みに操る姿は、ただひたすらにかっこいい、絵になるという奴だった。

 それだけではない、競技によくある話で隣に速い人がいるとつられて自分も速くなるように、演奏の質も目に見えて向上していた。まだ何かした訳ではないというのにこれである、紀美の選択は間違っていなかったことが証明されていた。

 だから、

「……衰えたなぁ」

 克樹の呟いた言葉はただの嫌味にしか聞こえなかった。





 ……なんかなぁ。

 午前の練習が終わり、昼休憩。ただ言われるがままに振ってきた腕は鈍く熱を持っていた。

 進は疲れていた、普段なら近くの中華料理屋に定食を食べに行くところだが、そんな気も起きない。腹を空かせたままでは午後になって辛い思いをするのは自分だと分かっていても、食指が動かない。

 原因は不明。進に身に覚えはなかった。

「よう」

 空き教室で黄昏ていた進の元に来たのは克樹だった。

「もう飯食ったのか?」

「……あぁ。もう食ったよ」

 嘘をついた。理由は特にない。

「なかなかハードだな、久々にやると」

「そうか? 余裕そうに見えたけどな」

 克樹は近くにあった椅子に座ると、背骨を伸ばすように身体を逸らす。近くに座る進の耳にもボキボキと骨のなる音が聞こえ、そんなことしたら痛めるのではと心配していた。

「どうだ、久々の演奏は?」

「なんつうか……やっぱ好きなんだなって」

 照れ臭そうに笑って誤魔化すところに進は昔の彼を見ていた。

 変わらないな、何故かその言葉が喉から先には出ていかない。失声症にでもなったかのように、掠れた吐息だけが漏れていた。

 その後、つらつらと克樹が語るを聞き、休憩の時間が終わる。どっと疲れた進は、気もそぞろになって三時頃用事が出来たと帰ってしまっていた。


 そして翌週、彼は母校へ来ることはなかった。





 初めは小さなミスだった。ありふれた、笑い話で済む程度、自分一人で片付けることが出来た。

 次はもう少し大きいこと。損失とまではいかないが相手の心象を悪くするには十分で、上司からも次は気をつけろよと小言を言われていた。

 悪いことは二度三度続くと言うが、今はまさにそれで、次も、またその次もとミスが起きていた。

 それはひとえに人災、不注意からの確認ミスや大丈夫だろうという甘えが引き起こしたものだった。

 日を跨いでいるものの同じ週で数回となれば、やたらと目につくものである。普段しないような事例であるから尚更で、上司も怒るより先に心身の心配がくるほどだ。

 進は確かに疲弊していた。眠れこそすれ浅く、悪夢にうなされ飛び起きることもある。悪霊にでも取り憑かれたように目はくぼみ、頬はこけ、十年も老けたようであった。

 原因は不明。不明である。

 ついには療養ということで無理やり有給休暇を取らされていた。それで済ませてくれるだけ職場に恵まれているのだが、一人、病室のような部屋で寝ているだけでは改善の余地は見られなかった。

 眠れなくなった。

 眠ることが怖くなった。

 消極的な自殺にも似た、無気力は心臓を動かすことすら怠慢になり、このまま干からびて死ぬのだろう、そう考えるまで衰弱していた。

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