第2話
金管楽器が色とりどりの音を混ぜて一つの絵を描いていく。スピーカー越しに聞く音とは違い生の音というのは時に非常に荒々しい印象を与える。
それが力強さであり、物理的にも心情的にも響くという表現を相応しいものとするのだが、少女達の演奏を前にして進は足癖悪く地面を掘り返していた。
……うーん。
唸るには理由があった。演奏しているのは少女ばかりで総勢四人、パート分けすると構成として最小限と言わざるを得ず、ひいては迫力に欠ける。少ないなら少ないなりにやりようがあるが、それにしては選曲が悪い、聞かせるさざ波のような曲ではなく歌謡曲、それも応援歌のようなものを扱うにしては圧が弱いのだ。
それに――。
思案していると急に耳を叩く音が消えていた。楽器とは音階を奏でるだけのものではなく、その見た目以上に音楽を響かせるものであるから、忽然と居なくなられると一瞬耳になにか詰まっているのではないかと思ってしまうほど静かになってしまうのだ。
何事かと進が顔を上げれば、十の瞳が向いていた。若く――若干一名を除いて――力のある視線に射抜かれて冷静でなどいられない、その原因は進にあることを本人は気付いていないが、決して好意的ではない、牙むく態度に内心では震えるほどに酷く怯えていた。
何かしたかと反省する間もなく、
「……あんたねぇ、いくらなんでもそれはないでしょ」
「え……っと何が? なんかしたか?」
分からず問う行為がさらに紀美の神経を逆撫でたようで白い指揮棒をフェンシングに見立てて進の眼球目掛けて突き立てる。三歩以上の距離があるというのに進は蛇に睨まれた蛙の如く動きをビタッと止めていた。
「そんなつまらなそうな顔されちゃやる気も削がれるってものでしょ!」
「いや、別に……」
そんな顔してない、ついて出た言葉を進は飲み込んでいた。激昂した相手にその場しのぎの言葉は逆効果であることを、社会人であれば往々にしてあることは言わずもがな、それに決して態度がよかったとはいえないことを進も自覚していた。ドレスコードでオーケストラを聞き惚れるような心構えは必要ないにしても生暖かい目で見守る程度の気は使うべきだったのだ。
躊躇いの色を顔に浮かべた進はたいした打開策を生み出せずに押し黙る。その様子を見ることなく、紀美が告げたのは、
「じゃあ感想、気ぃ使う必要ないから言ってみなさい」
……この野郎、また言いにくいことを。
えてしてこのよう状況で感想を求められるなどありふれていることだ。ただ作為的な意図が見え隠れもしていた。
顧問として時に厳しいことも言わなければならないが、どうしても愛着が邪魔をする。これで関係が崩れたりなどしたら今後の部活動において少なからず支障が出る。ならば部外に敵を作ってしまえばどうか、より一層奮起するだろうしそうでなくとも身内の結束は強くなる。そんな悪役に選ばれたのではないかと。
考えすぎだろうか、どちらにせよ発言を求められていることは事実で、進は脳内で話を組み立ながら口を開いた。
「正直言って……演奏は上手いと思うぞ」
「本当ですか?」
生徒の一人が尋ねてくる。襟足で短く切り揃えられた髪は勝気な性格が見え隠れして、進の言葉を不十分に捉えていた。
進とて別にプロではない。あくまで演奏経験は中学の三年間だけであり、その経験だけで語るとするならば、
「あぁ、俺が同い年の時よりはずっとな」
「先輩の担当はなんだったんですか?」
今度は最初に出会った少女が尋ねてくる。それに進は即答せず、寧ろ困ったように眉をひそめて紀美へと目を向けていた。
それには理由があって、当然紀美も知っていることであるから、
「あー、進は担当ないのよ」
「……ということは指揮者?」
「違う違う。当時の顧問から楽曲に対して足りないパートがあったらその穴埋めに任命されてたのよ。だから全部の楽器をそれなりに吹けるわけ」
「全部じゃねえよ。フルートだけは必要なかったからそれ以外だな。あと穴埋め言うな、ユーティリティと言え」
事実である。普通なら考えられないことなのだ、同じ金管、木管ならいざ知れず、進はそこの所を拙僧なく取っかえ引っ変えとしていた。それどころか打楽器にまで手を出す始末、本人の要望ではないにしても無法がすぎるというものである。
中学三年間という短い期間ではまともに演奏することですら一苦労、三年目にしてようやくそこそこ上手くなるものなのだ、それほどまでに楽器の演奏とは一筋縄ではいかず、熟練する間もなく楽器の変更をする利点がない。現に実力で言えば下から数えた方が早い程度、一年間みっちり練習した下級生に後塵を拝するなど並のプライドがあれば耐えられないのだが、そこはそこ、寧ろ色々な楽器に触れることを楽しみとし、必要とされているという充実感が腐らずにいられた要因でもあった。便利に使われていたと言えばその通りなのだが、まだ若い純真さが見えていた頃ではその事実に気付くことはなかった。
当時の顧問へ、今となっては過ぎたことだけれども文句のひとつくらいは言いたいと思っていたが、卒業後一度も会う機会がなかった。ちょっとした心残りである。
そんな進の事情を聞き、どう思ったのか少女達の目には落胆ではない何かが浮かんでいた。下手の横好きであることを口にしていないから仕方ないのである。
「じゃあなんであんな顔してたんですか?」
勝気そうな女の子が言う。彼女だけは進のことをよく見ていないようだった。
「なんでって言われてもなぁ……」
理由はある。告げることに戸惑い、そして、
「……曲調に人数が合ってないんだよ。だから迫力がないのにペットだけが頑張ってるから楽器間の音量もバラバラ。個人個人はちゃんとしているだけに息の合ってないところが際立って聞いてる方が辛くなる」
本音をぶつけるが進の中ではこれでも抑えているほうだった。
とはいえ相手はまだ中学生、大人からこきおろされてしまえば気持ちも曇る、現に四人のうち三人は肩に重荷を背負ったように俯いてしまい、もう一人もつまらなそうにしていた。
……言いすぎたかな?
進が反省する前に、寄ってきていたのは紀美だった。
「あのね、言いすぎよ」
「分かってるよ、でも本来お前がやるべき事だろ? ペットペットホルンボーン、構成おかしいじゃん」
「わかってるけど仕方ないでしょ!」
紀美の痛いほどの悲痛な叫びにも進は冷めた目で見つめ返していた。
基本的にはソプラノ、アルト、テナー、バス、四つのパートに分かれている。その中でも基礎となるバス、チューバがいないことを指摘していた。
なくても音楽は完成するが、あったほうが厚みは生まれる。学生程度の四重奏ならば尚のことであった。それより、
「……部員、これだけか?」
たった四人、それは奇しくも進の学年の時と同じであった。しかし当時は上も下もいた為人数不足に悩むことはなかった。
少ない、いや廃校になるくらい生徒が少なくなったというのに四人もいることを褒めるべきか。となれば大会に出ることも一苦労だろうなと進が考えていると、
「男子は野球、女子は吹奏楽部しか選択肢がないからね」
「……貧すれば鈍するとはこの事か」
「その男子も三人だけ、夏の大会だって他校と合同での出場だしね」
「二十年でここまで過疎化が進むとは……残酷だな。ってことは今の練習は野球部の応援ってことか」
進の言葉を聞いて紀美はこくりと首を前に倒す。お互い学生の時に通った道だ、その伝統というかスケジュールが今なお失われていないことをよく思うか、人数が減ってまでするようなことじゃないのではと見直しを進言するかは悩みどころだった。
とにかく、それなら話が早い。
「吹奏楽部も合同なんだろ、じゃあ構成が変でも問題ないな」
人数の懸念がなくなれば進から言うことはそれ以上ない。あとはその中学の練習に時折混ぜてもらえばいいだけの話と片付けられる。
が、そこで紀美は異なことを口にする。
「そうなんだけど、それでも本番に慣れておいた方がいいと思うのよね。で、ちょっと練習付き合わない?」
軽く言う言葉の意味を進は悩み、聞き間違いを疑ってから、
「……いや、おい、まじかよ」
拒否を示す間もなく、紀美が肩に手を置いていた。万力のように力強く指が食い込む音を聞いて、諦める以外の選択肢がなくなっていた。
「まじかぁ……」
昼過ぎの一番暑い時間に何をしているんだと進は嘆く。
手には木のスティック、目の前にはスネアドラムとハイハット、足元にバスドラムのペダル。久しぶりのはずなのに自転車同様染み付いた経験はなかなか取れないらしい。
「ほら行くよ」
少女達の頭を越えて見る紀美が指揮棒を向けていた。その表情は作戦が上手くいったことへの喜悦が浮かんでいる。
つまりは、そういうことだ。助言など鼻から求めておらず、現状を認識させた上でこき使える人員が欲しかっただけ。馬鹿みたいに講釈を垂れたせいで後はお好きにと言えない状況にさせられたという訳だ、まんまとしてやられていた。
とんだ悪女だと渋い顔をしながら進はスティックを持つ手に力を入れる。譜面の用意はないが、とりあえずエイトビートを叩いているだけでいいと言うことなのでそれ通りにする。というよりかはそれしか出来ないのだが。
「はぁ……」
演奏なんて二十年ぶり、ただでさえ実力がないというのにブランクまであるとなればただの生き恥である。やりたくない気持ちが先行して手がおぼつかないようだが、歳の離れた後輩を前にしてみっともない姿は見せたくないという小さな自尊心だけで今座っていた。
軽く叩いてみたところ、なんとなくだがやれそうであると自信がつく。少なくとも邪魔しないだけの技量は残っているようだと安堵しながらその時を待っていた。
さんはい、と声が聞こえてきそうな指揮棒の振り方で紀美が合図する。トランペットがコーラスを、ホルンがそれを支えてトロンボーンが土台を作る。しかし進はまだ動かない。短い頭サビが終わるのを待って、スネアドラムをロール気味に叩く。
タムタムがないので派手さはないが、アップテンポでビートを刻む。裏方として邪魔にならないよう優しくバスドラムを叩いていると金管の和音が膨らみながら踊る様子が聞き取れていた。
……やっぱり。
立ち位置によって音の捉え方とは随分と変わるものである。一番後ろにいる進からは一度離れていく音が周囲の物に反響してから聞こえてくるため、よりミキシングされているのだが、それに関して感想は一つ。
上手である。あくまで学生としての範疇だが、まだ慣れていない時期の下級生が居ないことも含め、実力は進の時と段違いに上手いと言わざるを得ない。
だからこそ、もったいないとも思う。人数が少ないだけあって個々の実力差が隠せず、どうしても僅かな粗が目立つのだ。それなりに上手くともさらに上がいれば話が別なのだ、そんなこと当の本人が一番解っていることだろうから進がわざわざ口にすることは無かった。
ただ今はそんなことを考える余裕がないことも事実。Aメロ、Bメロ、そしてサビ。次々流れる音楽に食らいついていくので精一杯、五分もかからない短い曲だと言うのに細かなミスをするたび気持ちがつっかえて、最後の余韻を聞く頃には叱られる直前の子供のように精神が疲労していた。
……センスねぇなぁ。
改めて感じる。演奏とは感情であり情熱であり言葉である、なんて気取ったことを言うつもりはないが、繊細さと豪胆さを混ぜて積み上げていくものである。技術身体能力だけではなんとも味気ない演奏、それこそパソコン上で入力される正確無比な音の波の方が調和は取れているためその違いを魅せなければならないのだが、なにぶん感覚がものをいう世界、進にとって苦手な分野であった。
同期にも後輩にもその点では敵わない、それが中学以降楽器に触れることがなかった原因でもあった。
端的に言えば挫折、諦めたのだ。練習が面倒くさかった部分はあれど、これ以上上手くなる展望が見えなかった。
久しぶりに演奏を経験してその気持ちが変わらなかったことに、浅い失望を覚えていた。まぁこんなもんだろうと飲み込めたのは拙いながら歳を重ね、いちいち嘆くほどの体力もなくなってしまったからだ。
いまさら上手くなりたいとは思わない、練習する場所もなければ一緒に馬鹿をやれる友達もいない、これでいい、これでいいんだと考えながら進はスティックを手放していた。