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第19話

 それはそれとして、先の答えを聞いていないのである。

「そんなに嫌か? 楽器を吹くの」

「嫌なもんか。少なくとも俺はガチだったんだ……もう腕は衰えたけど」

 嘘偽りない本音だろう、こんな話をしていては飯も進まない。

 刺身が乾いてきたなと、進は御膳を眺めていた。もったいない、そんなことを考える程度には飽き始めていた。

 自分を優先してきた人生を歩んできた進にとって、人のために何かする、自分の感情を犠牲にするという行為をよしとする人の気持ちはわからない。少なくとも進より腕も熱意もある克樹が我慢している現状が、どうしてもたまらなく不自由であり意味不明、むずがゆくて仕方がなかった。

 物事単純なくらいでちょうどいい、変に悩むからややこしくなるのだ。そういうのはもっと頭のいいと自負している変態達の仕事である。

「じゃあ何が問題なんだよ」

「それは……男に二言はないというか」

「それで離婚するぐらい尾を引いてたら意味ねえじゃん。真喜だって、音楽やってた頃の克樹が好きで結婚したんだろ?」

 我慢できなくなって、進は刺身を箸の先でつまみながら今度は真喜子へと言葉を投げかける。事実かどうかは重要じゃない、今雰囲気で話していた。

 乾いた刺身はそれでも口の中でねっとりと絡み、芳醇な香りが鼻の奥で膨らむ。食事を一人堪能していると、真喜子も同じように食事を始めていた。

 黙々と。

 二人の箸が進む。やがて冷えきった米をかきこむように、飢えた相撲取りのごとく乱雑に食べ進めていた。

 訳が分からないのは見ていた克樹と紀美である。そんなに腹が減っていたのか、なんて考えるはずもなく、しかし鬼気迫る食べっぷりに言葉も出ない。

 最後には汁物を、お椀を傾け喉に流し込むと、完食のため息をついて、

「――酒!」

 真喜子は最短で欲望を吐き出していた。

 同性の紀美ですらドン引きである。見た目おしとやかな彼女は学生の時から誰よりも肉食系で欲に忠実、悪く言えばおっさん臭いと呼ばれる人だった。さすがに社会へ出て子供も生まれたことで丸くなっていたかに見えていたが、あくまでそれは猫かぶり、本質は変わってなどいなかった。

 その姿をよく知るメンバーからしてみればようやくよく知る真喜子が戻ってきたと同時に、学生の頃ぶいぶい言わせてた彼女に変わってしまったと震える番である。

「真喜……いったん落ち着こうか」

「落ち着け、だ? さんざん自分勝手しておいて今更夫みたいにふるまうのは止めてよ。家事も手伝わないでボーンばっか、やれ講演会だ、楽器教室だ、たまに帰ってきたら腰振るくらいしかできないなら避妊くらいちゃんとしたら?」

「あの時は仕方なかっただろ。こっちだって二人の結婚資金貯めるために仕事の幅増やしてたんだぞ。それに応援するっていったのはそっち、すこしくらい甘えて何が悪いってんだ」

「悪いわ、ばか! 本音と建前ってもんがあるでしょ!」

 出るわ出るわ、本音の応酬が。今まで我慢していたぶんが堰を切って溢れ出ているようで、この様子だと離婚時にもたいして話し合うことはなかったのだろう。

 生活、性格、仕事、教育、実家、そして下のこと。一度溢れ出たものは源泉から湧き出る温泉の如く。それどころか誰かが燃料をくべ続けているように、その勢いは留まることを知らなかった。

 ……どうしよう。

 こうなれば燃え尽きるまで待つしかないのか、と進は助けを求めて横に視線を回すが、紀美も同じことを思っていたらしく、この喧騒の中部外者面して行儀よく食事を始めていた。

 確かに酒でも飲んでいなければやっていられない状態である、口論しているほうは言わずもがな、聞いているほうも間が持たない。話の内容も、そろそろ聞いていていいのかと迷うほど恥ずかしいことも含まれるようになってきてしまい、このままどこまでいくのやら、紀美だったらもうとっくに手か足が出ていてもおかしくない、そんな時だった。

「――ちょっと、みっともないんだけど」

 ノックもせずに開いた戸から現れたのは、翼、そしてその後ろには雪緒もいた。

 その顔は怒りを通り越して悪鬼羅刹のそれである。背中に仁王を背負った翼の登場に先程まで発情期の猫のように騒いでいた二人は冷や水を浴びせられて黙っていた。

 個室といえど防音がされていることはなく、つまりは丸聞こえ。まだ混み合う時間でなかったことだけが救いだった。

「いい大人が、なんて言いたくないけど場所くらい考えたら? つうかそれだけいがみ合うなら結婚向いてないよ、別れて正解じゃん」

「新名さん、口が過ぎるわ」

「結婚してない人が言えたことじゃないでしょ。処女だし」

「しょ――」

 翼に言い返され、紀美は代わりにというように進を睨みつける。言ってないと首を横に振るも信じられてはいないようだ。

 それを言うなら翼も同じなのだが、中学生と三十路を過ぎた成人女性が男性経験で張り合うなど、教師どころか人としてもいかがなものか。結局紀美は進に目線で苛立ちをぶつけることしか出来ずにいた。

 翼とて無遠慮に物事を言うはずがない、多分きっとおそらく……自信がなくなってきた進だが、砂漠の中に眠る一粒の善性を信じて語りかける。

「騒がしくしてすまんな。皆は大丈夫か?」

「話の内容的にね、さくらが怯えちゃってる。私だけだったら馬鹿馬鹿しいって笑ってられたんだけどね」

 やはりというか、優しさから出た行動だったことに進は安堵する。同時に、気の弱いさくらのことだ、大人が本気でいがみ合う声を聞いて気分を害したことは申し訳なく思う。紆余曲折あれど、本来は彼女達の慰労のための打ち上げなのだから。

 平時なら分別のある大人な克樹と真喜子は牙が抜かれたように静かになる。流石に子供の前でも続けるほど恥知らずではなかった。

 いや、むしろいい傾向なのでは、と進は考えついた。短くない時間疎遠になりこじれた大人になったとはいえ友人は友人。元鞘に戻れなんて口が裂けても言えないが、出会って気まずい雰囲気にならないくらいには関係を戻して欲しい、ささやかな願いだった。

「翼、ちょっとこっち来いよ」

 入り口に立つ彼女へ声をかける。隣に座るよう掘りごたつの席を叩いたつもりが、歩み寄る彼女は傍でたったまま座ろうとしない。

 汚れているか、と座布団を見てもおおよそ大丈夫そう。それでもお嬢様の気に障らないよう目を皿にして確認する進の肩に手が添えられていた。

 ぐいっと後ろに引っ張られる。何事でしょうか、と疑問が口から飛び出す前に、進の視界には翼の背中があった。

「なにしてはるの?」

 思わず生まれでもない地方の方言が飛び出すほど、進は動揺していた。なぜか股座に座る翼は抱え込むにはちょうど良く、だからと言って実際にするわけではないが、身を預けるようにもたれかかると体温が直に伝わってきて非常に熱い。とくとくと小刻みに震える心臓は普通よりも早いようで、よく見れば耳の当たりが他に比べて朱に染まっていた。

 無理するくらいならしなければいいのに、と思っても口にしない。したら絶対、不機嫌になることが目に見えていた。

 もう一人、雪緒も部屋に入らせると、彼女は監視しますというように進の隣に座る。その目は翼と進を交互に睨んでいた。

「そもそもさ、自分一人で生きていけないような人間が結婚するとかどうなの?」

 初手から投了したくなるようなどぎつい一言を翼が放つ。少なくともこれに対して理想論で語ろうものなら――「新名さん。人は一人では生きていけないものよ」――止めとけばいいのに横から未婚の処女が口を出していた。

「自分一人幸せにできないで他人と幸せにするとか馬鹿げてるよ。一未満と一未満を足してもかけても二にはならないし」

 数学的に正しい答えに進は感服する。そういえば最近はちゃんと勉強するようになったと、本人だけでなく周りも言っていた。しっかりと身についている証拠だった。

 余計なことを言った紀美はあのね、と反論しようとするがそこは進が止める。たぶんこの場で彼女の言葉が一番響かない、それは進も同じであるが。

 惨めだった。

 まだ半分も生きていない少女に諭され、満足に反論できず口を閉じている大人の姿というのは。

 子供というのはどこまでも残酷になれるのだと、進は思い知る。悪気のないところがなお厄介だ。

 しかし、言われっぱなしも面白くないだろう。何度も後悔し、あの時ああすればよかったと反省できる人物であることは進も承知していた。ここでこれ以上責め立てる必要はない、大事なのは話し合い、時間を空けることだから。

 進は感謝を込めて翼の頭をぽんぽんと叩く。そして、

「ま、そういうことだ。傍から見ればまだまだ覚悟が足りなかった。でも別にそれは悪いことじゃない、死んでなきゃいくらでも取り返しのつくことだからな。ただ一つ、二人の覚悟が決まったらみきすけにだけはちゃんと謝ってくれ。こいつなりにしっかり二人の幸せを願ってたんだ、それを裏切ったことだけは忘れないでくれ」

 本人はいいことを言っているつもりなのだが、それよりも満足そうに甘えている翼のせいで、自分の娘でもない子を膝の上に乗せて可愛がるという行為が気になって仕方ない。克樹達からしたらどういう関係なのか、聞くに聞けない状況だった。

 そしてもう一人、

「何いい感じにまとめようとしてるのよ、私が許すと思ったら大間違いなんだからね」

 金の亡者はまだまだご立腹、怒りを二人に向けていた。

「……あんた達よりいい人捕まえて幸せになってやるんだから。悔しがっても遅いからね!」

 なんとも子供っぽい捨て台詞を吐くが、その相手の候補すらいないのにどうするつもりなのか、進は考えないように努めていた。

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