第17話
「じゃ、そろそろ」
グラウンドでは中学生が整列を始めた頃、応援の歓声も消えた頃合いで進は手を挙げていた。一刻も早くこの場から立ち去ろうという気概が見える。
おう、と言う克樹の声も聞こえているのかいないのか、逃げるようにして応援席の方へと向かうと、談笑しながら楽器を片付け始めた生徒から距離を置いて、指揮者と話す紀美の姿があった。
「よう、おつかれさん」
まったくどうして、明らかに取り込み中であるにも関わらず進は声をかける。豪胆もしくは臆病、一貫性のない男だった。
「お疲れ様、といっても私も見てただけなんだけどね。頑張ったのは生徒達だから」
もちろん進だってそれくらい分かっている、しかし今日という日を迎えるまでの苦労を労いたかったのだ。部活動とは部員がいなければ始まらないが顧問がいなくても続かない、中学生だけではできることも限られるからだ。
だから都度感謝を強要される。それを何となく嫌だと感じていたのが学生時代の進だった。わかってる、一人では何も出来ないのだから関係者に感謝するのは当然で、それでも横一列に並んでありがとうございましたと言うのは何か違うのではないかと。そういうのは個々に気持ちを伝えるべきだろうと、まあずいぶん捻くれた餓鬼だったのだ。今では大人の苦労も分かるし一回でまとめてできるなら効率的だと、またそれもそれでどうなのかという考えを持っていた。
半分は話のとっかかりとして、もう半分は本心から出た言葉に紀美が気付いたかはわからない、それについて言い直すほどもう子供ではなかった。
「……彼は?」
二人の会話を遮り、そもそもは進が遮ったのだが、男性が割って入る。十歳以上年上の、渋めな印象の彼は先程まで試合中ずっと指揮棒を振っていた、第二中学の顧問だった。
「彼はOBで普段からも練習を手伝ってくれているんです」
「唐澤 進です。よろしく」
「ほう……よろしく。しかし感心だね、うちにはそんな殊勝な心掛けの子はいないから」
「OBなんて現役の子からしたら厄介なだけですよ。それがわかっているのでしょう」
褒められ、謙遜する。聞きなれない言葉はこそばゆく、どうせなら異性から言われたかったと身勝手な考えを抱いていた。社交辞令の定型文でのやり取りはただただ面倒なのだ。
あと二、三言葉を交わしてその場を立ち去ろうとした時だった。紀美が凄い顔をして進を見つめていた。凄いとは、凄い怖いという意味である。
何かしただろうかと疑問を持つと、背後に気配を感じる。振り返ればいなくていい人物が二人、忍者のように後ろをついてきていた。
……クソがよ。
進が外聞もなく吐き捨てるのも当然である。地雷と雷管が同時に飛んできたようなもの、いつ爆発するか秒読みなのだから。
何が悪いかと言えば場所が悪い。あまりに部外者の目が多すぎる場所で言い争いでも始まれば、余計な注目を集めることとなる。下世話な連中があの黒い不快害虫のようにどこから湧いて出てくるかわからない。
「紀美……」
「っ!? あんた――」
「はい、止め。すみません、ちょっとプライベートな内容なので離席しますね。うちの生徒達には先に駐車場で待ってるって伝えておいてください」
紀美の首根っこを掴みながら、進は他校の顧問に言伝を頼み、引きずるようにしてその場から逃げ出していた。
「この、この!」
「いた、マジで痛え! なにすんだよ!」
「何するじゃないわ、このタコ! 首が取れたらどうすんの!?」
「取れるわけねえだろ。細長くなって見栄えよくなったら感謝しろよ!」
そんなことを言うからまた蹴られるのである。
進が連れてきたのは駐車場、近くに帰る予定の人が数人いるがまだ先程よりはましだった。
容赦なく蹴られ続けること十回、相当な恨みを持った犯行である。体重の乗った蹴撃は骨髄まで揺さぶり、進の全身を痺れさせる。それを心地よいと感じることが出来ればご褒美なのだが、如何せん進にはまだ高い頂だった。
「変わらないな」
「あんた達は黙ってな」
克樹が口を挟めば取り付く島もない。それだけで余程のことがあったことが伺える。
克樹ら元夫婦は進についてきていた。誰に頼まれた訳でもないのに懐かしい気持ちを表に出して進の車の横にいた。
進はようやく大人しさを見せた紀美を手放し、車に寄りかかる。何かあったことは明白なのだが興味がない、巻き込まないで欲しいと願っても、この三人を放置していては埒が明かないことは自明であった。一肌脱ぐ他ないのだ。
「――で、何があったなんて聞いても仕方ないからそれぞれどうしたいんだ?」
「なんであんたが仕切ってんの?」
「そ、じゃあ帰るわ。またな」
言葉通り本当に進は車のドアに指をかける。微かな良心がどうにかここまで彼を引き止めていたのだ、断られたなら見放すことも視野に入っていた。
そんな進の腕を紀美は抱えるようにして留める。どこそこ当たっているが、進は喜ぶ素振りもなくただただ面倒に感じていた。
「……場所が悪いな。どっかの店に入るけど、そっちは? 強制じゃないから帰ってもいいぞ」
「いや……いくよ。いいだろ」
「えぇ」
提案に頷く克樹と真喜子。いやそこは帰れよと、進は本音を隠した。
ならばさっさと退散しようといった時だった。
「――おっさん」
若い声が聞こえる。
誰かなんて疑問に思う必要もなく、進が目を向けると四人いるはずなのに翼だけが先陣をきって駆けていた。目指すは意中の男性、その横に未だ抱きついている顧問である。
「きゃっ――」
勢いそのままに肩からぶつかり紀美を押しのける。腰の入ったショルダータックルだ、こらえるのは難しい。
無様に倒れ込む様子に目もくれず、翼はさも先程までそうしていたかのように進の腕に絡みついていた。
「演奏聞いてた?」
「うん、それより今普通に衝突事故かましてたけどそれについてはどうお考えですか?」
上目遣いで気を引く翼、どうしてこうなったのか、出会いはもっとサバサバしていたはずなのに、と進は嘆く。
人生楽しそうな翼は地面に転がる敗者を一瞥していた。その目は敵意を抱いている、顧問相手にしていい目ではなかった。
「その気もないのにあざといわ。教師としてどうなの?」
あくまで謝るつもりは毛ほどもないらしい、むしろ潜在的な敵と認定していた。
「翼! あんた何してんのよ!?」
そこへ現れたのが遅れてきた生徒達、特に雪緒は顧問を弾き飛ばしあまつさえ成人男性に甘える翼へ明らかに憤怒していた。
仲は悪くないはずなのに、自由過ぎる翼に対して重しになっているようだ。名の通り、どこまでも飛んで、いつか疲れて堕ちてしまわぬように。
しかし、と進は困る。
自分の玩具を独り占めする子供のように腕を抱える翼、それを諌める雪緒に大人の目線で見る克樹と真喜子。余程深いところに入ったのか、潰れたヒキガエルのように伏して動かない紀美を介抱するまうみとさくら。まさに進を困らせる為だけに存在しているかのような舞台だった。
市内有数のローカルチェーン、居酒屋兼ファミレスであるその店は全室個室という、無駄に広い土地を有効活用していた。味はファミレスの中でも上等なほうだろう、値段も取り立てて高い訳でもないと、人気が出るに必要な要素は揃っているわけで、近年のローカルチェーンブームを牽引する立場としてその勢力を拡大していた。
進が子供の頃はなかった、あった可能性もあるが縁がなく立ち寄らなかった店は、紀美が打ち上げのために予約した店だった。学生時代からの伝統でもあるが、この歳になると数十人の生徒を会費も取らずに奢った当時の顧問の気前の良さがわかるというものである。
そんなことを進が考えていたのはひとえに現実逃避のためだった。本来五人、もしくは進を含めた六人での打ち上げのはずが、騒がしい生徒を傍目に大人だけでしっぽりと、たいして益にもならない思い出話に花を咲かせるような、ショートケーキよりも甘い考えは大人四人これから殺し合いでも始まるのかという空気に置き換わっていた。
生徒たちは隣の部屋へ、こんな空気では打ち上げなど楽しめないという配慮からだった。出来れば進もそちらにと願ったが、いかんせん号泣するならまだしも目の届かぬところで刃傷沙汰にでもなっていたらと考えるだけで恐ろしい。特に紀美ならやりかねないところがなおのことだった。
しかし、しかしである。
何故紀美がそこまで怒るのか、これが進にはわからない。
なにも聞いていないのだから当たり前だとしても、推測する頭くらいはある。今わかっている材料を羅列するならば、克樹と真喜子は結婚し、中学生の子供がいるということだ。つまり大学卒業前後で産んだこととなる。
籍を入れたことに間違いはない。結婚式に呼ばれていないことから式は挙げなかったか、母、夏希が招待状を握りつぶしたかである。普通そんなことをする親はいないが彼女ならありえる、ちょうど進が他に目をやる余裕がない時だったからだ。
そして離婚。結婚何年目での出来事かはわからないが、事実そうなっている。昨今離婚などたいして珍しくもないのだからどうでもいいとして、ここで一つ疑問が進の脳内に浮かび上がる。
……紀美、関係なくね?
ここまで彼女の名前は出ていない。つまりはどこかで登場させなければならないということだ。
ここで考えるべきはなにか、離婚のその理由だろう。
性格の不一致、金銭問題、育児問題。そのどれもが家族に収束する。それでは駄目なので、他人が絡む問題にしなければならない。
そう、つまりは異性関係である。
ならばと進は納得する。結婚後克樹に近寄った紀美のせいで家庭が壊れ、しかし克樹は離婚後責任を取らず独身生活に戻った。結婚できると踏んでいた紀美の目論見が外れ、当たり散らしているというわけだ。
完璧な理論に進は思わずほくそ笑む。冴えわたりすぎた頭脳は一を知り十を理解するということなのだ。
「なににやにやしてんのよ、気持ち悪い」
「みきすけ、浮気はいけないよ」
「死ね」
ド直球に罵倒される。つまりは図星ということだ。
勝ち誇った余裕の表情で何も注文していない机の上にあるお茶をすする。勝利の美酒、ではないが空調のよく効いた部屋で飲む暖かいお茶は五臓六腑に染み渡る。




