第15話
「おっさん、道分かる?」
さて出発、というところで翼が尋ねていた。
「ん? あぁ市民公園だろ? 場所が変わってなきゃ大丈夫だ」
「場所は変わってないけど道は変わったよ。ショートカット出来る道が出来たからそっちから行った方がいい」
言いながら、翼が車載のカーナビを操作する。目的地を入れルートが表示されたが、なにぶん車同様ナビも古い、最新の道路事情には対応していないわけで、途中の道を指さし、「ここ真っ直ぐ行けるようになったから」と翼が伝えていた。
「あー、あそこか。万年工事してたと思ったけどとうとう道が出来たんだな」
ほうほうと頷きながら進は車を走らせる。迷うほど遠くない道のりだ、ハンドルを握る手も軽い。
都合二回、片道二時間以上のドライブデートを経験した二人にとってその手の話は慣れたものだった。ただそれが他人にどう映るかまでは想定できなかった。
「なんか、仲良くない?」
後部座席から雪緒の疑問が飛ぶ。
「そうか? 特別そうは思わないけど」
「うん。今後付き合うことに比べればこれくらい普通でしょ」
ね、と翼が同意を求めていた。
このとき進は運転中である。普段は電車通勤であり、休日も毎日車に乗るようなことはない。ペーパードライバーではないが慣れているわけでもない、そんな中まだ前途明るい少女二人を乗せて移動するとはそれなりに神経を使うことなのである。
だから呆気にとられ言葉を失っている雪緒にも気づかず、変なことを言われたとわかっていても言葉の意味まで考えるまもなく、「おう」と返事をしていた。
不自然な静寂が車内に漂う。今なんて言われたんだっけ、と耳を通り過ぎていった言葉を拾い集めていた進は、後部座席からの絶叫に思わずブレーキを踏んでいた。
「あ、あ、えっ……はぁ!?」
「ど、どうした? 忘れ物か?」
「常識忘れてんのはあんたでしょ!」
怒られる。一応は年上ということで会話の際はしっかり敬語を使っていた雪緒が、思わずタメ口になるほどには衝撃的なことだった。
若年特有の甲高い声だ、翼は耳の中に指を突っ込みながら、「うるさいなぁ」とボヤいていた。よく分からないまま、生返事は不味かったなと、雰囲気で察した進は車を走らせながら翼に耳打ちしていた。
「おい、なんて言ったんだよ」
「ゆくゆくは付き合うって話」
「ちょっと待て、そんなこと聞いてないぞ」
「半分くらい冗談のつもり。おっさんのツッコミ待ちだったんだけど」
やれやれと翼が首を横に振る。波のように訪れるお笑いブームにより今では笑いの聖地以外でも適応が求められていた。
ツッコミ、ノリツッコミ、ボケ、ボケ殺し、回しに天然など。上手く使いこなせれば一目置かれ、会社でも覚えが良くなる、反面場を白けさせれば裏で悪評が広まることだろう。
自薦でつまらない男と公表しているだけあって、進にお笑いの技術を期待することは間違っていた。そうでなくとも普段の翼の態度は紛らわしいのだ、その機微を察することが出来るほど付き合いは長くない。
分かりにくいんだよと、進は左手で翼の頭を小突く。冗談で良かった、半分は、といった枕詞は無視しておく。
冗談、冗談。そう、問題ない。背後に迫る気配を無視して進は運転に集中することとしていた。
その獄卒のごとく睨みを利かせている雪緒はというと、センターコンソールに身を乗り出してしれっとした顔の二人を交互に見つめて、「……悪趣味じゃない」と本音を漏らしていた。
「そう? これでも可愛いところあるよ」
「にしても年の差考えなさいよ。二十歳も上だし、経済的に余裕そうにはみえないし、なんかねちっこそう」
「それは同意」
批判はいつの間にか一方的な想像へと変わり、中年を控えた男性の心を滅多刺しにする。少女とはいえ女であることに変わりなく、当事者が近くにいるのにも関わらず、いや近くにいるからこそ進の話題で盛り上がっていた。
「だいたいひと月くらいで普通惚れる? 相手のこと何もわからないじゃない」
「そうでもないよ。基本的には優しいし、ヘタレだけど相手のことを思いやれる人だし。ヘタレだけどよくある正義感で子供を押さえつけようともしないで自分の言葉で話してくれるし。ヘタレだけど」
「ヘタレなのね」
褒めているのか貶しているのか、結局ヘタレであることしか雪緒に伝わっていないようだった。
彫刻のようにじっと動かず運転を続ける進でも心がある、人の気持ちがわからない悪鬼どもの話をどうにかして止めようと頭を巡らせていたがどうにも思い浮かばず、下手に止めると後々酷い目にあうことが分かっていたので、動きようがなかったのだ。
だから大人しく嵐が通り過ぎるのを待っていると、目的地まであと少しというところまで車が来ていた。後ろを走る紀美の車からは翼達がこんな会話をしているとは露ほども思わないことだろう。
「まぁ、自分の立場を考えて、節度ある行動をしなさいよ。唐澤さんも、ですからね」
「私よりも自分の心配したら? そう気が強くちゃ男受け悪いよ」
どうしてまた、翼は煽るようなことを言う。
こうして道中、喧噪は絶えることがなかった。
他校との合同での演奏というものを進は知らない。知る必要がなかったのだ、中学生時代、同じ部活の同級生は少なかったが上も下も十分な人数がいたから。
初めてのことだった、指揮者が変わり、それが演奏にたいして影響がないということも。
冷静に考えてみればそうなのだろう、普段でもメトロノームを指揮者代わりにして演奏することもある、表現がどうこうという問題には練習でしっかり身についていて、そも技術的にも難しい。少なくとも進には分からないことだった。
……うーん。
演奏を聴きながら進は腕を組んでいた。その顔はやや険しい。
演奏が下手だから、という訳ではない。
そもそも目線はそちらに向いていなかった。
進はスポーツに疎い。家にテレビはないし観戦にも行かない。興味はないので国際大会の日程すら知らないし、会社で話題になっても逃げるように立ち去るか、適当な相槌を打って場をやり過ごしていた。
だから今行われている試合についても、母校の生徒が参加しているにもかかわらず、毛の太さ程も興味がなかった。それでも数字を見ればどちらが優勢かくらいはわかる。
五回表、母校の攻撃。それはものの数分、三者凡退という形で終わっていた。
スコアボードを見れば上に0が並ぶのとは対照的に、下は一や二とバリエーションに富んでいる。分かりやすく言うなら悲惨なほどのワンサイドゲームだった。
関係ないとはいえ、頑張って練習してきた応援もなんの役に立っているのやら。ここから逆転するくらいなら最初からやっているだろうし、それこそ漫画のように突然覚醒でもしなければ結果は見えていた。
なんの思い入れのないほうからすると、この試合、娯楽にならないほどつまらなく、見ていて可哀想になる。それでも逆転を目指し努力する学生達に感銘を受ける心など進が持ち合わせているはずもなく、ただただ時間を無駄にしているなとしか思っていなかった。
顔見知りはいない、生徒は言わずもがな、紀美も顧問として、指揮棒は振っていないが後ろで見守っている。邪魔しては悪いからと距離を置いた手前、駄弁のために戻るなどとは出来るはずもなく、いっそコールドゲームになってさっさと終わってくれないかなんて、不謹慎なことまで考えていた。
見る価値もないと断じた試合から進は目を離す。彼がいるのは自陣ベンチ側のファールポールの近く、そこからなら外野席に座る保護者らしき人物の姿が良く見えていた。
……。
まさかなと目を凝らしてもう一度よく見る。外野席には何人もの人の姿があったが、その中でも相手ベンチ側にぎこちない距離を空けて座る夫婦の姿があった。
女性の方は記憶にないが、男の方はよく知る顔だった。もう二十年も前、卒業とともに別れた親友がそこにいた。
進は、すぐには動かなかった。他人の空似という可能性があるからだ。
なにせ最後に見た時はまだ中学生、その後成人式ですら個人的な都合で欠席したため記憶はその時のままで止まっている。しかも随分擦り切れ色褪せているのだから確証なんて持てるはずもない。もし間違えた時の寒々しい雰囲気のことを考えたら、進は勇み足で踏み出すことが出来なかった。
しかし似ている。人とはそんなに変わらないものだろうか。やはり他人なのか。
近寄ろうかやめようか、そればかりが気になってもはや試合などどうでも良くなっていた。変わらないなんてそんなことあるか? と考えていたが、自分だって紀美に一目で見破られていたのだ、人のことを言える立場ではなかった。
迷い道を右往左往してなかなか踏ん切りがつかない。人間とは不思議なもので、見られているという気配をどことなく察知する、それはどれだけ距離があろうともだ。




