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第14話

 この日最大の苦悩の時間が訪れた。

 結局吐いた言葉は飲み込めないと、翼は泊まると譲らず、じゃあ今までどこに行っていたのか追及されれば困る進が折れるしかなかった。

 お互い時間をずらして風呂に入り、もうその時点で諦めもついた進は他愛ない話をするに抵抗なく、さあ夜も更けて明日に備えて寝ようという時間になっていた。

 さてここで思い出して欲しい、この家の家具は最低限しかなく、殺風景を越えてむしろ不便に感じるほど物がないのだ。そんな中、いつ来るかも分からない来客用の寝具一式が揃っているだろうか。

 答えは明白で、寝床といえば一人用にはやや大きい、安くない金を払って手に入れた有名ブランドのベッドが一つ、あとはどれだけ寝相が悪くても転げ落ちる心配のない、固く冷たい床が広がっていた。

「大丈夫、何もしないから」

 と言ったのは翼だった。その目は獲物を狙う鷹のようであり、進の身体を身震いさせる。

 それでも進には勝算があった。たとえ本当に襲われたとしても、なぜ女性から襲いにかかるかは別として、高身長に最近腹が出てきたことも相まって体重差から逆に組み伏せることなどたやすいことだった。それを見越して行動されてしまえば意味のない話だが。

 自分のなかでは完璧な作戦を描いてベッドに入る。お互い誰かと同衾することなど久しぶり、変に目が冴えてしまわないかと心配になるも、十分もすれば杞憂だったと悟ることとなる。仰向けになって眠る姿はあまりに自然で手慣れていた。

 一つ誤算があるとするならば、いつもなら気付くことがなかった自分自身の寝相だろう。いや、気付けるはずもないのだが寝入って一時間が経つ頃にはお互いを抱き枕のように抱えあう姿が年の離れた兄弟のよう。

 それから数分、先に動いたのはどちらだっただろうか、解っていることと言えばお互い額に大粒の汗をかいて、苦悶の表情を浮かばせていたことだ。しかし手足が複雑に絡んでいるせいで離れることもできず、

「――暑い!」

 ほぼ同時に叫ぶと現状に戸惑う。ほとんど口付けするような、吐息を絡ませる距離に顔があったからだ。

 驚く、よりも先に離れたい感情が働いていた。胸のあたりが発電所のように燃え滾っていた、その熱気にのぼせ思考よりも先に生存本能のほうが強く身体を動かしていたからだ。

 殴りあうように離れ一息つく。不快感でいっぱいの原因は肌に張り付く寝巻のせいであり、進は薄暗い常夜灯の下、いともたやすく上裸になっていた。

 男の特権とでもいうように、睡眠モードのエアコンの緩い風を浴びて、天上の心地を味わう。

 その様子を見て、翼も躊躇なく脱ぎ始めた。

「おい」

「なに? 別にこんな痩せた身体に興味なんてないんでしょ。ならそのまま寝ればいいじゃん、それとも身体拭いてくれる?」

 それは意趣返しにも似た言動だった。あまりに不自由な二択を突き付けられ、進は逃げるようにベッドに倒れこんだ。

 何もしない、確かに翼はなにもしていない。だから進も見なかったことにして再び深い意識の海に身を投げ出していた。


 翌朝、本当に何事もなく抱き合うように眠る二人の姿がそこにはあった。





 月日が流れるのは早いもので、土曜日、それは進が実家のほうへと向かう日だった。

 しかし今日は少々趣が違う。六月入って最初の週、それは母校の野球部の大会の日だった。

 まだ楽器も満足に吹けなかった、音符を追うことに必死だった中学一年のこと、進も同じ経験をしていた。初めて人前で演奏する経験はただただ緊張に支配され、自分の音を見失っていたことだけが強く印象に残っていた。

 とはいえあくまで吹奏楽部が行うのは応援である、主役は球児達、演奏の善し悪しなど二の次だった。二年目以降はその事に気付き、試合に目を向ける余裕も出てきていた。なにせ応援するチームの選手がヒットを打ったなら演奏途中でも直ぐに専用のファンファーレを響かせなければならない、顧問の指示など待っている暇がないのだ。

 進の思い出話は置いておくとして、演奏しない予定の彼がわざわざ母校へ向かったのには理由がある。

 端的に言うなら足として使われていたからだ。

 楽器とはかさばるし重いしで、その移動に車は必須だった。今回は全員金管楽器、一番大きくても翼のトロンボーンとさほど場所を取らないとはいえ、顧問である紀美の車は軽自動車の五人乗り、小柄な中学生女子だけでもやはり窮屈さは否めない。

 このような場合中型のバンをレンタルしたり保護者に送迎を依頼するものだが、進に白羽の矢が立ったのだ。それは前々からお願いされていたことで、進としても特段ことを荒立てるつもりはなかった。

 開始は第三試合、ウォームアップの時間を含めても昼に着けば余裕がある。いつもより余裕をもって家を出た進は渋滞に捕まりながらも待ち合わせの時間よりずいぶん早く母校に到着していた。

「おはよう、今日はよろしくね」

「おう」

 駐車場についてそうそう、進に近づいてきたのは紀美だった。進は左右を見渡すが他に人の姿はない。

「他は部室?」

「いや、集合時間遅くしてるから。あと三十分もすれば須藤さんあたりが来るかな」

 勤勉真面目な雪緒がまだ来ていないということは、本当に早く着きすぎたのだと進は察していた。

 つまるところ暇なのだ。今日一日暇のようなものだが、出発までの間本当にすることがなかった。

 一旦夏希に顔を見せるのもなんか違うなと考えていた時、紀美がじっと見つめていることに気付く。惚れたか? なんて冗談を言う仲でもない、また蹴り飛ばされるのが目に見えているので進は地蔵のように黙することを学習していた。

「……新名さんのこと、ありがとね」

 溜めに溜めて言ったのはそんなこと、特に身銭を多く払った訳ではないことへ感謝されても進としてはむず痒い気持ちになるばかりだった。

「別にたいしたことはしてねえよ。それに俺が何もしなくても自分でどうにかした――」

「――それはそれとして」

 進の言葉を遮り、紀美の目つきが鋭くなる。愛車にもたれかかっていた進は突然変わった空気に身構える余裕はなかった。

「月曜、新名さんが放課後部活も行かずに駅の方へ行く姿を見たんだけど、何か知らない?」

「さ、さぁ……」

「それと火曜日に遅刻してきてね。家の方からじゃなくて駅の方から登校してきた訳とか知ってる?」

 進は答えず、否、答えることが出来ず首を横に振る。

 それは質問ではなかった。容疑者を取り調べするために退路を経つための報告だ。私は既に全部知っているから大人しく白状しろという、最後通牒だった。

 やましいことはしていないけれど誰がどう見てもやましいことをしていると判断できる状況証拠は残っている。進は粘り着く冷たい汗をかきながらどうにかこの状況をはぐらかせないかと言うことだけに思考を割いていた。

 見透かした目で見られること数秒、息も止まる。苦しさを表情に現れないように必死の思いで耐え忍んでいると、紀美は急に明るく笑い出した。

「やーねぇ、冗談よ冗談。さすがに歳の差もあるし、あんたみたいなへたれが大それたこと出来るわけないのは分かってるから」

「あ、あぁ……まぁ、うん……」

「……冗談でいいんだよね?」

 当然だと慌てて激しく頷くところが語るに落ちていた。




 二台の車に二人の運転手、乗客は四人と、人数の分配には悩む必要がなかった。

 それよりも皆が気になったのは、そう、進ですら疑問を抱いたのが、翼が我先にと進の車に乗ったことだった。後部座席を我が物顔に陣取るのはトロンボーンのケース、翼はしれっと助手席に座っていた。

 なんともわかりやすい態度である、背後から突き刺さる目線に進は身震いしていた。

「あのー翼さん? どうしてさきに乗ってるんでしょうか?」

 進が窓ガラスをノックすると、スライドを下ろした翼と目が合う。そこへ割り込むように入ってきたのは雪緒だった。

 見るからに怒っている、そんな態度を示すように腰に手を当て、

「あんたね、勝手なことしないでよ!」

 怒鳴りつけるが翼は何処吹く風、用件を聞き終えたとでもいうようにスライドを上げていた。

 それが雪緒の怒りに薪をくべることとなった、彼女は上がり始めたガラスに手を入れ力ずくで阻止しようとしていた。

「あぶねっ!」

 進は気付き、雪緒の肩を持って無理やり引き剥がす。これから演奏するというのにこんなつまらない事で怪我してはやりきれない。

 さすがに翼もその凶行には驚いたようで、バツの悪い顔をしていた。それも一瞬、直ぐにいつもの気だるげな目で雪緒を見ていた。

「馬鹿じゃないの。ちょっとは考えて行動してよ」

「あんたに――」

「だから、どっちにしろこうなるの。さくらは引っ込み思案だからおっさんの車より紀美ちゃんを選ぶでしょ。まうみはどっちでも。で、あんたは気を利かせておっさんの車に乗る、あとは私が選ぶだけなんだから先に乗っていようが変わらないってことくらいわからない?」

 淡々と意見を並べる翼に、進はそうなのかもと周りを見渡すと、さくらとまうみは苦笑いを浮かべながら頷いていた。

 となれば残るは雪緒である、翼の推論が当たっていれば何も言えず、いや当たっていたとしてもそんなことはないとうそぶくことも出来るが、その場合雪緒が紀美の車に乗ることとなるためどちらにせよ翼が進の車に乗っていることになんら障害はない。

 役者が違うというのだろうか、友達の性格を鑑みての行動に非は見当たらない。あえて言うなら何故助手席なのだというくらいか。

「……ごめん」

「別に、気にしてない。それより早く行こう」

 こんなことで亀裂の入る仲ではないのだろう、意固地にならず、素直に謝った雪緒はトランペットのケースを抱えて後部座席に乗り込んでいた。良かった、あらぬ疑いは晴れたと進も笑顔を浮かべるのである。

 問題は謝ったとはいえ薄暗い雰囲気の中、進は居心地悪く運転しなければならないということだけだった。

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