第12話
「今日は……一応ありがとう、本当は言いたくないけど」
帰り道、そろそろ翼の家につくという頃合の事だった。
脈絡もなく、静寂を割いて翼が言う。散々進のことを殴り飛ばしておいての台詞としては肝が据わっている。
「はい」
「ほんと反省してる?」
「はい」
進は機械的に返事をしていた。これ以上意図しない暴言を避けるために。ここに来てようやく自分が失言しやすい体質なのだと実感していた。
その代償は大きい。顔にいくつもの青あざをつくり、頬骨の辺りは大きく腫れていた。まだ子供の、それも女の殴打であっても普通に痛かった。
抵抗しようとはした、しかし羞恥で燃える翼の顔を見てその気も失せる。結果男の子だからと受け入れていた。でも痛い。凄く痛い。
その後、雰囲気が盛り上がることは当然なく、むしろ進にとって喜ばしいことで、帰路に着くこととなった。あんなことがあったのだ、気の迷いだとしても気まずさから二人の間にろくな会話が生まれなかったのは言うまでもない。
「月曜、学校行くから。部活も……出てみる」
「はい……大丈夫か?」
「これでもあいつらとは小学校からの友だちだしね。あんまり情けないところ見せたくないし。それに――」
一息置いて翼は前を向く進の顔を見る。
「――またおっさんが家に来ても困るし」
「えっ、もう行く気……はい」
鋭い眼光を受けて、進はまた頷くだけの機械に戻る。
自覚しているかどうかは別として、複雑怪奇な女心は進の頭に混乱だけを残していた。
「おはよ」
「あっ翼、もう大丈夫なの?」
翌月曜日、宣言通り学校に来た翼を出迎えたのは吹奏楽部のメンバーたちだった。
休んでいた理由を体調不良としていたため、嘘であろうとも信じるしかなかったのだ。
「……まぁ、そこそこ」
「翼ちゃん……ごめんなさい。私が下手だから」
「あー……いや私も言い過ぎた。だいたいあのおっさんが全部悪いし、さくらのせいじゃないよ」
休む前なにがあったかを思い出し、翼は首を横に振る。正直彼女の中ではどうでもいいこととなっていたが、いまだに気に病むさくらには悪いと思っていた。
進のせいにしたのは、事実も含まれているが、この場にいない人へ責任を押し付けたほうが話はまとまりやすいと考えたから。陰でどういわれていようと、進なら深く思いつめることはないだろうという信頼の証でもあった。
……あの馬鹿、なにしてんのかな。
ふと、翼は天井を見上げる。我ながら、どこにほだされたのか、短慮をしたものだと反省する。進に少しでも悪気があれば一生に残る傷を負っていたに違いない。境遇が似ていたからか、今までにない考え方に共感したのか……顔は悪くないにしても軽率だった、幻滅されてもおかしくないというのに最後までいい大人であった彼には感謝するしかない。へたれだけども。
翼は七つしかない席の、自分の椅子に座ると三人が囲む。これがいつもの光景だ、中心にいる人物は都度変わるが。
「翼、おっさん呼ばわりは止めなさい。一番つっかかってたあなたが気に食わないのはわかるけど、休みを削ってまで私たちの練習を手伝ってくれているのよ。敬意を払うべきよ」
「ゆき真面目過ぎ。おっさんはおっさんでいいんだよ。本人も喜んでたし」
鼻で笑いながら翼は言う。ちなみに進が喜んでいたという事実はないし、むしろちゃんと名前で呼んでもらいたいとすら思っていた。しかしそれを知っても翼が止めるつもりはなかった、特別な呼称で呼ぶ仲が心地よいと感じていたからだ。
ゆきと呼ばれた少女、須藤 雪緒はまったくと嘆きながら腕を組んでいた。ただそれ以上咎める様子がないのは、長年の付き合いの結果だった。
「今日は部活来るんだよね」
話す人が目まぐるしく変わる。今度は進と最初に出会った少女、玉城 まうみが机に手をついて身を乗り出していた。
「まあね。腕がなまったなんて思われたくないし」
「翼なら大丈夫だよ、私たちの中で一番上手いんだし。でも休んでた間に私だってちゃんとやってたんだから、負けないよ」
合奏に勝ち負けがあるかは別として、まうみが笑顔で言う。太陽のごとく天真爛漫、発言は少々馬鹿っぽいがこれでも翼より成績はいいのだからやるせない気持ちにもなる。
雪緒が成績優秀なのは解釈一致だった。眼鏡で三年間学級委員長、七人しかいなくとも常にテストでは満点、またはそれに近い点数を維持し、清廉潔白。頭は固いところも実にそれらしい。
と、成績のことで翼は思い出す。あのいけ好かない野郎ですら教科書を繰り返し見ていれば好成績を収められる、中学の勉強などそんなものだと見下されたままでは面白くない。しかしただでさえ勉強についていけているとは言えないのに一週間というブランクがある、ここは一つ見返して驚く顔でも拝みたいと。
狙うは期末、中間テストは終わったばかりなのでどうしようもないが、まだ挽回する時間ならあるはずと考えて。
「ゆき、休みの間のノート見せてよ」
翼の言葉に雪緒だけでなく他の二人もポカンと口を開いていた。
「あんた……どうしたのよ。自分からそんなこと言うなんて、熱で脳みそ茹だったんじゃないの?」
「失礼じゃない? 私だって勉強くらい……たまにするし」
記憶の中にある限りの数少ない経験を思い出しながら翼は言う。
勉強が出来なくなってどれくらいだろう、小学生の時は問題なかったと翼は自覚していた。その後、特に理由もなく成績は下り坂を転がる一方で上がる兆しは見えない。デフレスパイラルに陥っても義務教育は崩壊しないのだからやる気も起きないというものだ。
宿題はほとんど雪緒の写しである、しかしそれはまうみも同じ、それでもやや、そして超えがたい壁があるところが尚のこと、であった。
だから一念発起したというのに茶化されては気分も良くない。友達が勉強に興味を持ったと言うならば明るく門出を祝うのが努めだろう。
そんなわだかまりを胸の内に秘めていると翼は視線に気付く。机に顎を乗せ見上げるまうみはそのくりっとした大きな瞳を爛々と輝かせていた。
「翼、なにかいい事あった?」
突然、本当に突然である。横から暴漢に銃撃されたような乱暴さを身構えておけるはずもなく翼ははい? と首を傾げていた。
そこは女の子、自分が正しいと思ったことには全幅の信頼を寄せるもので、まうみはぐいっと口角を引き上げて笑う。
嫌な予感がする、翼は自分の感性が鋭いことになんの利点も見いだせなかった。
「……そういえば土曜日、唐澤さん帰ってこなかったよね。どこ行ったか知ってる?」
「……知らない」
「ほんと?」
「ほ、ほんと」
熟練刑事ばりのするどさと追及力に、しがない女子中学生では太刀打ちできない。慣れないごまかしを見破ることなど赤子の手をひねるより簡単だった。
「えー、何したの? まさかデート?」
あれをデートと呼ぶのだろうか。いや、当人たちが否定しても周りから見れば立派な逢引であった。もしくは援助交際。
しかし翼の頭の中はそれからさらに先のこと、進の家での出来事にまで思考が飛んでいた。あれをデートと呼ぶのだろうか、どちらかといえば淫行である。
やけに鮮明に思い出して翼は赤面する。忘れよう、忘れようと何度も呪詛のように唱えたはずなのに、そのたびに進の、男らしい大きな手の感触がフラッシュバックして心臓が早鐘を打っていた。
「ねえねえ、どこ行ったの?」
「いえ……いや、ヴィエンティッタ」
蚊の鳴き声ほどの小さな声で白状する。白状してはいけないところまで出かかっていたがそこだけはどうにか誤魔化す。
途端、歓声が上がる。なにせ最近メディアにも取り上げられる若者垂涎の人気店なのだ、流行に聡い女子なら羨んで当然だった。
ただ全員が全員そういうわけではない。生真面目堅苦しい雪緒は机を叩くように手をつき、身を乗り出して存在で圧迫していた。
「人が部活しているときにあんたってのは。それ以上変なこととかいかがわしいことしてないでしょうね?」
「えぇ!?」
驚嘆の声が上がる。翼が核心を突かれて動揺した、わけではない。声の出どころは翼の後ろでおっかなびっくり耳を傾けていたさくらだった。
「……なんでさくらが驚くのよ」
「あ、え……な、なんでもないの!」
明らかに何かあった様子。態度は言葉よりも雄弁に語っていた。
雪緒は目を細めて黙る。先週に接点がないことは自明であるから、その前の週、翼が途中で帰った日しかない。しかしほぼ皆一緒にいたので何かあったらわかるはずである。
「……自主練の時か」
その答えが出るのも当然の結果だった。皆の眼がないところで男女二人、さくらの動揺っぷりから察するに、とよくない想像が働いていた。
「え、なに? 唐澤さんと二人で何かあったの?」
「まうみ、あんたは黙ってなさい。デリケートな話なの」
唐突な戦力外通知にまうみは不満で唇がとがる。しかし最悪まである以上、雪緒は慎重にならざるを得なかった。
返答次第では生徒だけでなく教師、または警察にまで連絡する必要がある。しかしさくらは両手をちぎれんばかりに横へ振り否定する。
「な、なにもなかったから!」
「なにもなかったって態度じゃないでしょ。白状しなさい、私はさくらの味方だから」
「だから、ただ唇を――」
「唇? キスされたの!?」
「――触られただけ! マウスピースが合ってるかの確認だったの……そのあと涎のついた指を舐めてたからびっくりしちゃったけど」
ひどい冤罪だった。舐めていないのだ、進は。あくまで自分の唇に指を添えただけである。




