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第11話

 当人の言う通り、殺風景を絵に書いたように何もない部屋だった。リビングにはテーブルと二脚の椅子、あえて言うならカーテンくらいだろう。キッチンも使用感がほとんどなく、これでどう生活しているのかと疑問を持つ程に何もない。

 もっと言えば寝具すらない。しかしそれはリビングに生えるもう一つの扉が補っているようだ。

「おい、待て」

 家主の言葉を聞かず翼はその扉へ突進する。宝箱を開けた先には何があるのか、その期待への答えは翼の目の前に広がっていた。

「……えー」

「他人の家で勝手するんじゃないよ」

 そこにはクイーンサイズのベッドが一つ、仕事用の机と椅子、パソコンがあった。もう一つある扉はただのクローゼット、仕事着と数着で着回している普段着がハンガーにかかっているのみだった。

 必要なものだけ集めたような部屋は飾り気などなく、広いはずなのにむしろ息苦しく感じるようだった。例えるなら監獄、そんなイメージが翼の頭には浮かんでいた。

 空っぽな部屋は家主の心象風景にも似ていた。翼は言葉を失ったまま気絶するようにベッドへ頭から倒れていた。

 埃が舞う。進は顔の前を手で仰ぎながら、怪訝そうな目で彼女を見ていた。

「おっさんはさ、部活やってて嫌だった事ない?」

「あるぞ。というか毎日嫌だった」

「毎日?」

「毎日」

 嘘偽りなく進は答える。

 演奏とは見方を変えればただの苦行だと、彼は本気で思っていた。今の時代、音楽なんぞどこでも気軽に楽しめるコンテンツになっている。それも自分で演奏するより圧倒的に上質で、一人では奏でられない楽器の数々を耳に入れられる。それでも演奏する理由とはなんだろうか。

 楽器を購入、維持するだけでも金がかかり、人数を揃える必要があり、練習しても披露する場所がなければ自己満足にもならない。仕事にしているならいざ知れず、趣味として続けるにはハードルが高かった。

 同じ趣味なら調理というのもあるが、あれは食べるという行為で自分に益があるぶん、まだ続けやすい。生活の延長線上にあるものと比べ、演奏は時と場合を選ぶから忙しい社会人には覚悟が必要だと考えていた。

 もちろん、そればかりではない。進が本気で調べていれば、社会人が参加するスクールだってあるし、もう少し気軽な、愛好会だって存在している。演奏することでストレス発散をしたり、生涯のかけがえのない仲間を得たり、確かな腕があれば副業として多少の金銭を得ることだって可能だ。進の行為はただやりたくないから目を背けているだけにすぎなかった。

 それだけ中学生の部活動が苦痛として刷り込まれていたのだ、今後も自発的に楽器を手にすることがないということだけは確かな事実として存在していた。

「そっちはどうなんだ? 紀美はそう無理を言う奴じゃないだろうし面倒な先輩後輩もいないんだ。結構楽しくやれてんのか?」

「私は……ううん、私も苦痛かな」

「そっか……そりゃ仕方ないよな」

 大人としてどうかと思われるが進は賛同する。前に嫌と言った手前、嘘をつくわけにはいかなかったからだ。

 しかし、

「止めたいなら止めちまえ。でも止めた時間で何もしないなら続けてたほうがいいぞ」

「どういうこと?」

「恥ずかしい話、うちは母子家庭でな。いや、別に恥ずかしくなかったわ。母親が仕事で留守にしていることが多かったから高校以降だらだらしてたわけよ。気が済むまでゲームしたり漫画読んだり意味もなく深夜徘徊したりな。その経験が役に立ったことなんて一度もねえ。見てみ、一通りやりつくしたせいで大人になって熱も冷めちまった、だからこんな何にもない部屋でも息苦しくないんだよ」

 進はそういうが、何かを極めたわけじゃない。ただ新しくやりがいを見つけることがなかったせいで、今まで持っていたものを一つ、また一つと削ぎ落していったとき何も残らなかったというだけの話だった。無精、それだけで片付くことである。

 自分のことをつまらない人間だと自覚しているからこそ、同じ境遇の翼まで不憫な思いをする必要がないと伝えたかったのだ。

 その上で、前言を撤回する。

「大人の言うことなんて馬鹿にしていい。だいたい自分が後悔していることを、恩着せがましく注意してるだけだしな。それでもどうにかなってるから今があるんだ、致命的なことでもないのにいちいちうるせえって怒鳴り返してやれ」

「致命的なこと?」

「ムショに入るか死ぬか、そんなとこだな。勉強したっていい人生送れるかは運次第、だいたいなるようになるんだから好きにやれ、嫌なことはやらんでいい」

「適当じゃん。周りからよく怒られてない?」

 翼の呆れた声に、よくわかるな、と進は返す。

 くぐもった笑いが部屋に響く。ベッドにうつぶせていた翼は身体を半回転させ、天井を見上げていた。

「私、おっさんの考え方好きだよ」

「だろ?」

「でもそれで勉強できるところはマジで嫌い」

「安心しろよ。高校行ったら一気についていけなくなったから」

 いったいどこに安心材料があったのか、それでも進は胸を張って答えていた。

 ここまで駄目な大人の見本市のようなことしか話していない、それでも翼の表情から、どこか張りつめていたものが薄れていた。

 そしてぽつりぽつりとゆっくり話し始める。

「私も親が一人しかいなくてさ。ママは小さい頃に死んじゃった、それからパパと二人だけど、基本放置なんだよね」

 翼の独白を進は黙って聞いていた。ただ歳のせいか、立っていることに疲れがみえてきていたため横たわる翼の横に腰を下ろす。

 見下ろした先、彼女の痩躯が目に入る。ちゃんと食べているのか心配になるほど線が細い。

 翼は顔の前に腕を置き、独白を続けていた。

「パパが大変だなってのはわかってた。でも子供だからできることないし、どっか連れてってとも言えなかった。何にもしないでぼーっとすることに慣れてたからむしろ何かすることが面倒になってるのかも」

 男親が子一人育てる苦労を進は知らない。だが苦労があることくらいは理解できていた。

 しかし、ならば翼はなんていい子なのだろう。父親に面倒をかけないよう自分を押し殺して生きている、かわいそうではあるがその精神は称えるべきだと、進は自分を反省していた。

 そこまではいい、そこまではよかった。かわいそうな子と駄目な大人。妙な共通点をさらけ出して理解を深める。この後、どうするかの相談に乗って帰宅、それだけでよかった。

 しかし現実は思いもよらぬ方向へと転がることを進はまだ理解していなかった。

 まず寝ていた翼が身体を起こしていた。ベッドのふちに並んで座る。ただそれだけのこと。

 そして、見た。

 目が合った。

 灯りをつけていない部屋にカーテンから漏れ出る光が翼の顔を淡く照らしていた。歳相応の子供っぽさの中に疲れたように弓をひく目が進をとらえて離さない。

 次に、翼の手が進の手に重なっていた。流石の朴念仁もそこまでされては異変に気付くというものである。

「……あの」

「ねえ、二人でなら熱中もできるかな?」

 瞬間、進の身体は石像のように固まっていた。悲しきかな、女性経験のない彼には少々、いやだいぶ刺激の強い体験だった。

 えー……?

 そういうことなのか、そういうことと考えていいのか。混乱した進の頭の中は過剰に燃料を投下されたボイラーのように湯気を吐くばかり。それでもボロボロの釣り竿で思考という池から引っ張りあげたのは、『未成年者略取』という言葉だった。

 そも保護者の了承を得ないまま車で連れ去っている時点で有罪なのだが、そこまで法律に詳しくない進でもここで手を出したら負けなことくらいは理解していた。ダメです、断ろう、思春期にありがちな興味が暴走しているだけなのだ、年齢差もあるし何より出会ってまだ数週間の相手を惚れるはずがない、と心の壁を厚くしていく。

「私は……熱くなれそうかも」

 翼は進の手をとり、彼女の胸に当てていた。痛いくらいに高鳴る鼓動が伝わる。それ以上に進の心臓が破裂寸前だった。

 多量の血液が脳みそへ送り込まれ、噴水のように天辺から吹き出しそう。頭痛と充血で視界が暗転しそうな状況でなにか言わなければという気持ちだけが口を開かせていた。

「……し、木琴(シロフォン)みたいだな」

「ん? どういう意味?」

「いや、骨が……」

 進はそれ以上言葉をつづけることができなかった。何を言っているか自分でもよくわかっていないのだから。

 初めて異性の胸に触れた、その感想は柔らかいなどということもなく、未発達の身体と翼の体型も相まって肋骨しか感じ取れなかった。硬い、ものすごく硬い、でも熱い。それをなんとか言語化しようとした結果だった。

 しばらくの無言の後、ゆっくりと言葉の意味をかみ砕いた翼は俯き、進の手を持っていた指を離す。

 そして強く、この世のありとあらゆる憎悪を手中に収めて、

「――こんの、アホっ! バカっ! 最低っ!」

 白痴面する進を殴打していた。何度も、それはもう何度も。

 この時初めて進は知った。トロンボーン奏者は多分パンチが強い、ということを。

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