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第10話

「……そのためだけに勉強しろっての?」

「そのために勉強してもいいくらいの価値はあるから。これだけはまじで大人の言うこと聞いとけって」

「止めんか。子供に変なこと教えるんじゃないの」

 教師としての立場から、紀美は進をいさめる。それでも進は止まらない。

「なんだよ、じゃあ社会に出て数列とか確率とか、高校のばけ学とか地理公民なんて使う機会あったか? 就職だってだいたい何とかなるけど免許の試験だけはどうしようもないだろ」

「もうあんたの免許にかける情熱が怖いわ」

 ここまで来るともうトラウマといって差し支えない。そのとおり、もう一度学科の試験など絶対に受けたくないと進は考えていた。

 だから自宅学習ができると豪語した翼を進は素直な気持ちで尊敬していたのだった。

「で、成績のほうはいかほどなん?」

 話は最初に戻るように進が聞く。

 ただの興味本位だった。

 学校をサボる程度には学力があると見越していた。

 が、実際のところ反応は悪い。翼は唇を一文字に結んで答えようとせず、それを見た紀美が小さく、言うのもはばかられるというように進に耳打ちする。

「……平均より少し下くらいかな」

「え、マジで!? 超馬鹿じゃん。学校行ったほうがいいぞ」

「このド阿保! ちょっとは配慮ってもんを考えなさい!」

「配慮ったって、自分で勉強できてねぇ証拠じゃん。そんな奴が家で勉強できますって言ったって信用できるか、普通?」

 素直さは美徳とは誰の言葉だっただろう、この場合、進は何も考えずにものを言っているだけだが。

 言われたほうはといえば、俯いたまま微動だにしない。膝の上に置かれた手は力いっぱい握られて大理石のように白くなっている。

「あー……やらかした?」

「気付けたことは加点してあげる。でも言い過ぎ、退学させるぞ」

 冗談を言っている場合ではないようだが、冗談でも言っていなければやってられない状況だった。

 言葉のナイフでめった刺しにされた翼はまだ中学生なのだ、大人から全否定されるようなことを言われれば、いかに気が強くとも堪えるというもの。ここにきてようやく罪悪感が芽生えた進はやべぇと内心で呟きながら、悠長に頭を掻いていた。

 こういうときどうすればいいのか。女性との交際経験のない進にとって学校の勉強よりはるかに難題で、社会に出てからも誰も教えてくれない内容だった。

「……なんでもするので許してください!」

 行き詰まった彼の出した答えがこれである。この姿勢には紀美も驚きを隠せない。

「なんでも? ……ならヴィエンティッタのパフェがいい」

 ようやく顔を上げた翼の要望に進は救われた気持ちいた。全く知らない名前の店名が出てきたが、金で解決できるなら安いものだ。

「翼さん? 流石にそれは――」

「もちろんいいぞ、すぐ行こう」

「進、多分あんたが考えてるように簡単じゃないんだけど……」

 紀美が止めようとするが有頂天の進には届かない。目を潤ませた翼の手を取り、貴賓のようにエスコートを始めていた。





 我ながら早計だったと、進は幾度目かの反省をしていた。毎度毎度、懲りるということを知らない彼にとって今回の反省もあまり意味がないのだが。

 手元にあるコーヒーカップへ口をつけながら前を見る。そこには一人で食べるには随分と背の高い、それこそビールの大ジョッキをそのまま使ったパフェが鎮座していた。御神木のようにご立派であり、ダメ押しでこぶし大の桃が丸々一つ上に乗っている。中国神話に出てきそうな、スケールの違いを見せつけられていた。

 それを対岸に座る翼がつまらなそうに食べ進めていた。一人で食べ切るには辛そうな量を黙々と、何も言わずに手と口を動かす様は流れ作業する期間工のよう。

「美味いか?」

「……まずい」

 だろうな、と進は感想を胸の内に秘める。どう見ても美味しそうな顔をしていないのは何が原因なのだろう。

 ドリンク付きで四千円と、進にとってもなかなかの出費である。金額の多寡に文句を言うほど子供ではなかったが、どうせならおいしそうな顔をしてほしかった。

 なにせ現在地は都会のど真ん中、流行の発信地である。片道三時間近い道のりを高速道路に乗ってやってきた、その労力と金額を考えれば猶更である。

 それが解ったのは出発前に紀美が伝えたから。部屋着のまま外へ連れ出されそうになった翼が着替えるために二階へ上がっている間、スマホで住所を提示されて進は絶句していた。まだ昼前とはいえ、今住んでいる進の家よりさらに遠いとなれば帰ってきた頃には日もすっかり暮れていることが確定している。それをたかだかパフェを食べるためだけに行くとは何たる贅沢か。

 てっきり近場で済む話だと思っていただけに、落差で進は崩れ落ちそうになっていた。今更撤回なぞ許されることもなく、行くことは変わりないのだが。

 どうやら最近ネットで有名な店らしい。だから紀美も知っていて、しかし遠方で諦めてもいた。それでも吐いた言葉を今更飲み込めないという進に、「そんな甲斐性見せるなら私を連れていけ」と愚痴られたのは謎である。

 方々に禍根を残したまま、現地についてこの現状、労力にたいして成果が実っていなかった。

 全体的に意地で半分食べ終えた翼がとうとうロングスプーンを置く。

「……小林農園の桃のほうが美味しい」

「小林農園ってインターから北に行ったところのあれか? あそこの桃美味いよな」

「へえ、知ってるんだ」

「同級生にあそこの息子がいてさ。今、後継いでんじゃねえかな」

 せっかくの都会にきてまで地元談義で盛り上がる二人。共通の話題が少ないため仕方のないことだった。

「もう食べないのか?」

「ちょっと……想像以上に多いのと味がね」

 どうやら本当に口に合わない様子。

 そこまでこき下ろしされると進でも興味がわく。いわゆる怖いもの見たさで、別皿に置かれた半分の桃をひょいとつかみ、行儀悪くそのままかぶりつく。

 しゃくり、と筋の残る食感とともにまだ青い香りが口の中に広がる。品種なのか、はたまたまだ完熟していないのかの判断はできないが、こぼれんばかりの果汁と豆腐のように崩れ落ちる口当たりを想像していただけに失望感が否めなかった。

 これじゃない。そんな色が進の顔に浮かぶ。

 それでも吐き出すほどじゃないと、手の中の桃を口の中に押し込み、ハムスターの頬袋よろしく顔全体を使って咀嚼していた。

 飲み込み、手と口元をお手拭きで拭い、「……なるほど」そんな感想をこぼして翼の前に置かれたパフェを手を伸ばして引き寄せる。

 大食い選手のようにか細いスプーンで残りをかきこむ。脳髄が蕩けるように甘いクリームと水気を吸ってしなったフレーク、子供だましのような味の違う桃のピューレと、見た目のインパクトに比べて味はお粗末といって差し支えない。最近有名になったという割に行列もそれほど長くなかったことから急速に客離れが始まっていることがうかがえた。

 ……ラーメン喰いてえ。

 総評するとそんな感じ。人におすすめできない店だった。

 一息ついて進はコーヒーを飲み干す。ブラックで良かったと実感しながらカップを置くと、向かいの翼が見つめていることに気付く。その目は怪訝そうに、形のいい眉は八の字をかいていた。

「どした?」

「私が使ったスプーンなんだけど……デリカシーなくない?」

「俺は気にしないぞ」

「私が気にするから、馬鹿じゃないの」

 罵詈雑言のあとはそっぽ向かれる。反抗期の娘を持つ父親の気持ちを、進は実感していた。





 カフェを出て、他に寄る時間もないため帰宅途中、進はナビを無視してハンドルを切っていた。

「すまん、ちょっと寄らせてくれ」

 助手席に座る翼はスマホに目をむけながら、「ん」と答えているのかいないのか微妙な返事をする。

 そこから数分、大した時間もかけず車は停車していた。

 場所はマンションの中にある地下駐車場、他は高級車が数台並んでいるため、オンボロ中古車では悪目立ちしていた。

「待っててくれ。すぐ戻る」

「いや、ここどこ?」

「俺ん家というか借りてるマンション」

 車から降りた進はそう言い残してドアを閉める。その後ろ姿を追うように少女が車を降りていた。

「なんで来るんだよ」

「面白そうじゃん?」

 じゃん? と言われても進は困り顔で翼を見つめていた。

 男の一人暮らし、中学生が楽しめるものなど何もない。せいぜいその事実を揶揄されるくらいなので連れてきたくなかったのだ。

 追い返そうとしたところでかえって興味をそそる結果になることも目に見えていて、「まじでなんもねえからな」と釘刺しだけしてエレベーターに入る。

 三階で止まり、エレベーターのドアが開くと、黒塗りの木目柄でまとめられた廊下が目に入る。田舎にある集合住宅では廊下が外に面していることが多いため、まるでドラマの一場面のようだと翼は感嘆の息を吐く。

 カーペットを歩き一度曲がったところで進が立ち止まる。ドアノブの上にある液晶に指が触れると、駆動音と共にカチリと鍵が開く。

「お、お邪魔します……」

 無言で入る進に続いて、小さく会釈しながら翼も入室する。男性の一人暮らし、思春期の女子にとってなかなか刺激が強いもののようだ。

 部屋の中は濃い茶、マホガニー色で統一された壁紙が真っ直ぐ伸びる廊下となっている。左右にある扉は水回りのもの、生活圏はさらに奥にある扉の先だった。

 勝手知ったる我が家、進は靴を揃えることなく脱ぎ捨てて翼を置いていく。まるで居ないもの扱いにぶすっと唇を尖らせた彼女は、小走りで意地でも着いていくつもりだった。

「……へぇ」

「あんまジロジロ見るなよ、行儀悪い」

「なんもないじゃん」

「そう言ったろ」

 進の用とは一枚の封筒を手にすること、ものの数秒で用事を終えた彼は、ドア付近で物珍しそうに見渡している翼を追い出そうと手を振っていた。

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