わたしだけが知らない
自分が壊れていたことを知ったのは最近だった。
そのきっかけは一つのうわさ。それは通っている王立学園で耳にしたものだった。
すれ違う生徒たちがみな私を見て何かを口にする。いたわるように、気遣うように、なぐさめの言葉をかけてくる者もいた。だけど、その言葉の意味がわからずあいまいにうなずくことしかできなかった。
学園から帰り公爵家の屋敷でゆっくりしているとき、何気なく侍女のヨハンナに聞いてみた。
「そういえば最近殿下とお会いしてませんわね。公務で忙しい方ですけれどそろそろ顔を見せなくてはなりませんね」
軽い調子で言うと妙な顔で見られた。その表情は学園で向けられたのと同じ種類のものだった。
夜になって父が帰ってくるとその理由を伝えられた。この一年間、わたしは婚約者である王太子殿下を完全に無視していたらしい。
手紙が送られてきても白紙の手紙だと不思議そうに首を傾げ、屋敷に訪ねてきてもそこに誰もいないように一切反応せず、父が殿下の話を聞かせてもそこだけが切り取られたように会話を続けたそうだ。
ある日から突然そうなったらしい。
そのきっかけとなったできごとについて、ヨハンナが話してくれた。
王立学園でのできごとだったそうだ。
「……婚約破棄? わたしと殿下が?」
彼女が教えてくれたことが信じられず聞き返してしまう。
ヨハンナは昔からずっと世話を焼いてくれていた侍女だ。小さいころから一緒にいる彼女はわたし以上にわたしのことに詳しい。わたしが忘れていたような小さなことでさえ覚えてくれていた。ずっとそばで支えてくれていたヨハンナがわたしをだましているとは思えないが、彼女が語った内容にはまるで覚えがなかった。
それは学園のパーティーでのこと。
衆目の前でつきつけられた一方的な婚約破棄。おぼえのない罪状。殿下の傍らによりそう男爵令嬢。彼女は地方の生まれだったが、眉目秀麗、語学優秀、花のような笑顔を分け隔てなく振りまき学園に咲いた薔薇とまでいわれていた。
二人を前にわたしは何も表情を変えずに「わかりました」という言葉だけを残して会場を後にしたらしい。
それから起きたこと。
婚約破棄は殿下の独断だったらしく、そんな行為を王家や臣下たちが許すはずもない。王家の遣いが毎日訪問してきてはわたしを説得しようとしたらしい。しかし、どんなに説き伏せようとしても謝っても人形のように無表情のままで。わたしの反応が恐ろしくなり帰っていったらしい。
学園でのできごとを聞いた父は憤慨しわたしを心配したそうだ。しかし、当の本人であるわたしは殿下のことは一切口に出さないし存在しない扱いをするようになっていた。
ここまで聞かされてもまるで実感がわかなかった。
この一か月間のわたし自身の記憶と周囲の時間はひどくずれていた。殿下とはこれまで通りのお付き合いをしていた記憶しかない。
「そんなことはないはずです。わたしはちゃんと殿下と―――」
記憶にある場面を説明しようとするが具体的な場面が浮かんでこない。贈り物をされたはずなのに何をどこで渡されたのかがあいまいで答えられない。
「そうです……、たしか花束とブローチを」
思い出したはずだった。だけどすっきりすることはない。これが本当に自分の記憶なのかと胸の内が冷たくなっていくのを感じた。なにか喉の奥から大きな塊を引き出さないといけないような気がした。
「お嬢様、いいんです。ご無理をなさらないでください」
こめかみに生じた鈍い痛みに顔を伏せていると、ヨハンナがいたわるように背中をさすってくれた。じんじんとした痛みはすぐに引いて何も感じなくなった。
それからこの不思議な状態についてたくさんの人に話すことになった。
小さめの部屋で向かい合って座り、医者から殿下のことを尋ねられた。見ているままのことを説明した。
「では、あなたの後ろに立っている方はわかりますか?」
振り返ったが誰もいない。隣にヨハンナがいるだけだ。わたしが首を横にふると医者はヨハンナとしばらく話し込む。
「なるほど、わかりました」
そういってうなずくと、今度はわたしの後ろを見た。まるで誰かと話しているようにしきりとうなずいている。
ここに殿下がいると教えられた。手を伸ばしてみるが指先は宙をかくだけ。
「今、あなたの手が殿下の腕を触っています」
しかし指先には何も感じない。戸惑ったようにヨハンナがわたしを見ている。彼女もまたわたしの後ろに向けて何かを話しているようだったがその声は耳に届いてこなかった。
医者との面談が終わった後、ヨハンナから話を聞いた父はわたしの状態を理解し殿下との婚約の話を破棄しようと決めた。だけど、わたしにとってはまだ殿下との仲は続いている。やめてほしいとお願いすると、父は悩みながらもうなずいてくれた。王家もこちらに対して負い目があり婚約破棄を押し進めることはできずにいた。
わたしと殿下だけが宙にういたままうわさが流れていく。
みんなは殿下の仕打ちがわたしの心を傷つけたせいだと言っている。だけれども、事情を知ったわたしが出した答えは少し違っていた。
これはわたしが望んだ状況なのだろう。その理由はたぶん―――と考えながら振り返ってみるがやはりそこには誰も姿も見えない。
だけど、わたしの口元は、安心したように笑みを広げていた。