8 庭師レナードは言う
━=━=━=━=━=━
張られた頬が痛む。
リンネに暴言を吐いたら、「最低」と言われてキツイしっぺ返しをもらってしまった。
腰の入ったいい一撃だった。
さすが俺を殺しただけのことはあるな。
もともと嫌われていたことに加えて、今回の舌禍だ。
彼女とは二度と会うこともないだろう。
つまり、破滅ルート『リンネ編』は回避できたと考えていい。
ひとまず、安心だ。
聖歴246年3月27日水曜日――。
━=━=━=━=━=━
インクが乾くのを待ってから、俺は日記帳を閉じた。
今日から日記をつけることにした。
急に趣味に目覚めたとかではなく、あくまでも将来のためだ。
フララいわく、俺の未来視は、数あるスキルの中でも破格の力を持っているらしい。
だが、万能ではない。
「見る」ことしかできないのだ。
いつどこで誰と話しているかはわかっても、何を話しているかはわからない。
会話は見えないからな。
だから、日記を書く。
見えない声も、文字にすれば見えるようになるって寸法だ。
その日起きた出来事と重要な会話を記しておけば、未来視で覗き見ることができる。
要するに、この日記は過去の自分に宛てた伝言みたいなものだな。
キナ臭い事態になれば、未来の自分が教えてくれるだろう。
現代の俺にな。
「……うん?」
過去で未来な現代の?
頭がこんがらがってきた。
難しいことを考えるのは、ここまでにするか。
俺はこめかみを揉みほぐしながら庭に繰り出した。
うららかな春のよき日。
赤レンガで囲まれた花壇の中は、咲いたばかりの花の瑞々しい光であふれかえっている。
まだ冷たさの残る風がびゅーと吹けば、頭にこもった熱も遥か空の彼方だ。
気持ちのいい朝だな。
成人してからこっち、有力貴族や諸大臣への挨拶回りでずいぶんと忙しくしていた。
こうして、のんびりできるのだから記憶喪失も悪くない。
とはいえ、日がな一日、散歩にうつつを抜かすほど老いちゃいないので、ここは何か生産的な活動に打ち込みたいところ。
「未来視の練習でもするか」
俺は目の奥に力を込めた。
世界が少しばかりモノクロになり、あらゆる音が遠ざかっていく。
花は揺れているのに、風は感じられない。
そこは数十秒先の未来だった。
祝福を授かって数日になる。
そろそろ使い方にも慣れてきた。
未来を見るには時間の焦点をズラしてやるといい。
手のひらを見ながら手のひらの向こう側にピントを合わせる感じ、といえば伝わるだろうか。
ピントをズラすほど遠くの未来が見える。
とはいえ、2、3分が限度だがな。
それより先の未来を見ようとすると、ボヤけてしまう。
眠っているときなら10年くらい先まで見通せるのだが。
表門から大きな荷を担いだ男が入ってきた。
配達員のハインツだ。
抱えた荷袋が邪魔で足元が疎かになったらしい。
彼は無様に転んで泥だまりに袋の中身をぶちまけてしまう。
中身は手紙だった。
どれもウチ宛てのようだが、ずいぶんと数が多いな。
一体、何十通あるのやら。
「ハインツ、いつも助かるよ」
未来視はここまで。
俺は朗らかに声をかけた。
「ああ、ぼっちゃま。おはようござ――おっ!」
ハインツはすんでのところで泥だまりに気づき、なんとか転倒を免れた。
声をかけただけ。
ただ、これだけのことで未来は変わるのだ。
簡単に変わりすぎて怖いぐらいだ。
「アレン、記憶が戻ったのか!?」
「っ!?」
突然、花壇の中から人が生えてきたものだから、危うく俺が転びそうになった。
麦わら帽に作業着、軍手という庭師スタイルだが、その顔は我が家の父上に酷似していた。
というか、本人だ。
そういえば、うっかり「いつも助かるよ」なんて言ってしまった。
記憶喪失なのにな。
大失態だ。
未来視ではこの展開は見えなかった。
ハインツが転ばなかったことで未来が変わったらしい。
こんな時には、記憶の断片ガーってね。
「そうか……」
俺のしどろもどろな言い訳を聞くと父上は露骨に肩を落としてしまった。
悪いね。
「父上は庭仕事をされるのですね」
ちなみに、これは素で知らなかった。
貴族家の当主が庭いじりだなんて、他の貴族に知られればいい笑いものだ。
俺は、素敵な趣味だと思うけどな。
父上は、ああ、と返事すると花壇の傍らに腰を落とした。
「花はいい。文句の一つも言わん」
丸まった背中に哀愁が漂っている。
我が父レナードの本業は大将軍――すなわち、王国における軍事のトップだ。
昨今、めっきり平和なだけに武功をあげる機会も乏しく、政争でも苦戦を強いられていると聞く。
そこに来て、跡取り息子がこのザマだ。
花の世話に逃避したくなるのも頷ける。
「貴族は耳が早い。お前の現状を知った者どもが山ほど手紙を寄越してくるのだ。まったく薄情な連中だ」
あの手紙はそういうことか。
どの文面にも縁談をなかったことにしてほしいと遠まわしに書いてあったのだろう。
心中お察ししますよ、全部俺のせいだけども。
「エトナリー家からは、まだだがな」
父上は腰をさすりながら、向かいの屋敷に目を向けた。
リンネの家だ。
「お前たちは昔から仲がよかっただろう」
その通りだ。
正確に言うと、昔は仲がよかった。
毎日のようにこの庭を駆け回って遊んだものだ。
不仲になったのは、いつ頃からだったか。
何かこれといった出来事があったわけではないと思う。
次第に心の距離が離れていったんだ。
父上はコホンと咳をして声を落とした。
「エトナリー家の財政は芳しくない。私がその気になれば、縁談を強引に進められるのだが」
いや、やめてくれよ。
昨日ブス呼ばわりしたばかりなんだよ。
今、縁談なんて進められたら結婚を待たず刺されちゃうだろうよ。
「まあ、ゆっくり答えを出せばよい」
父上はポンポンと手を打って土を払うと、俺を正面に捉えた。
「アレン、アリエと同じ王立魔法学院に通え」
「学院にですか?」
「うむ。そこで実績を作れ。貴族連中はすでにお前を見限ったようだが、私はそうは思わん」
実績、か。
記憶喪失という悪評を覆せるだけの成果を学院で作ってこい、というわけか。
この言い分だと父上はまだ俺に家督を継がせる気でいるらしい。
それは困る。
俺の死亡率が格段に跳ね上がるルートだからな。
「私は、お前なら再起できると信じているのだ」
「……」
なんとか断ってやろうと思ったが、父上のまっすぐな目を見て俺は何も言えなくなってしまった。
というわけで、俺の学院生活が幕を開けるのであった。