49 獄中の目
「おはようございます、若様」
朝である。
圧倒的、朝である。
昨夜カーテンを閉め忘れたおかげで、差し込んでくる朝の日差しを俺は全身の毛穴から吸収することができた。
爽やかすぎる目覚めだ。
まるで素っ裸で砂浜を走り回っているがごとき爽快感である。
だが、冷静になってみれば何かがおかしい……。
全身の毛穴から日差しを取り込むには衣服が邪魔になるはずだ。
俺は昨夜、着替えることすら面倒になって倒れるように眠り込んだから当然、脱衣などしていない。
よって着ているはずなのだ、服を。
しかし……。
仰向けに寝転がったまま頭だけ持ち上げて視線を落としてみると、うん。
ヘソが見える。
乳首もだ。
見事なまでに全裸である。
しかし、下半身は見えない。
穿いているから、ではない。
下腹部にメイド姿の少女がまたがっているからだ。
もはや誰であるか言うまでもなかろう。
だが、あえてヒントを出すなら、そいつの名前は「ル」で始まって「ヤ」で終わる。
まあ、あいつしかいないわな。
「いい夢をご覧になられたようですね」
どうしてそう思う?
「とても心地よさげな寝顔でいらっしゃいましたので」
俺の寝顔にイタズラしていないだろうな。
勝手に脱がすような奴だ。
鼻の穴に指以上のものを入れられていてもおかしくはない。
だがまあ、そうだな。
いい夢を見た。
ハッピーエンドの未来だ。
今度のパートナーはお前だったよ、ルマリヤ。
俺とお前は戸籍の上でも家族となって、いかがわしくも楽しい毎日を過ごしていた。
おまけでついてきたアレアレ三姉妹も俺を実の父のように慕っていた。
リンネルートだけじゃない。
ルマリヤルートまで拓けてしまったようだ。
だが、糠喜びは破滅のもとだ。
未来とは、羽毛よりも簡単に飛んでいってしまうものなのだと俺は知っている。
だからこそ、今と向き合って生きていく必要があるのだ。
今を生きようとしないものに、未来など来ないのだから。
「若様、賢者のような凛々しいお顔をされていますね。勃つ前にイカれるとは、さすがです」
生まれる前からイカれていたであろう奴が何か言っている。
さあ、起きるか。
「え、勃起るでございますか?」
低きをゆくメイドを振り落とし、俺は着替えを引っ掴んだ。
脱がせてくれたおかげで楽に着替えられたよ、ありがとさん。
「ところで、若様」
なんだ?
下ネタでないなら耳を貸そうじゃないか。
「行きたいところがあるのですが。イキた――」
みなまで言うな。
それと、スカートの裾を持ち上げるな。
爽やかな朝の汚点め。
それで、どこに行きたい?
「それは……」
ルマリヤの返答を聴いて、俺は顔をしかめるハメになった。
まさかの場所だったからだ。
「会いたい人がいるのです」
そうか。
俺は金輪際二度と永遠に会いたくないが、まあ、どうしてもと言うのなら付き合ってやろう。
というわけで、朝食を済ませて家を出た。
二人きりの馬車内。
道中、そういった行為を強いられるかもと期待もとい覚悟もしていたが、案に相違して、ルマリヤは憂い顔で窓の外を見つめてばかりだった。
ガタゴト揺られること、しばらく。
見えてきたのは、高い壁だった。
王都中央大監獄。
華やかな都内にあって、ここだけは灰色の空が落ちてきたような重苦しさを漂わせていた。
会いたい人とやらはここにいる。
ここの、最も警備が厳重なところに。
「ああ、ソーシア上爵家の……。わかりました。では、特別に」
看守長にちょっと頼むと中に入れてくれた。
保安的観点から問題がある気がするが、この国は無罪すら金で買えるからな。
こんなもんだ。
何重もの鉄門扉をくぐり、有刺鉄線の茂みをかき分け、変な笑いが出てくるほど長い階段を降りた先で俺たちを待ち受けていたのは、魔王を封印できそうなほど巨大な鋼鉄の扉だった。
しかし、そこに封じられているのは魔王ではない。
分厚い扉に設けられた指1本分に満たない覗き窓から中を見てみると。
……いた。
女だ。
イカズチのような角を持ち、雷神の風格をまとった女。
野太いワイヤーで簀巻きにされてはいるが、それでも俺としちゃ魔王のほうがマシに思える。
治ったはずの傷がズキズキと痛んだ。
「サンドラ」
ルマリヤがそっと声をかける。
俺に折られた鼻がこちらを向いた。
割れた額が生々しいが、そんな有様すら逆にカッコよく見えるから不思議だ。
「ルマリヤか!」
サンドラの声に熱がこもった。
勢いよく立ち上がった拍子にバチン、と聞こえてくる。
もしやワイヤーが破断したわけであるまいな。
「チッ、お前も一緒かよ。アレン」
スリットの隙間から覗く目がわかりやすく険しくなった。
悪名高きテロリスト様に名前を覚えられたことを光栄に思うべきだろうか。
忘れてほしいってのが正直なところだ。
「サンドラ、あなたが若様にしたこと、私は絶対に許すことはできません。……でも」
ルマリヤは言った。
「ありがとうございました。アレックたちを守ってくれて」
サンドラは魔族の顔役なのだとルマリヤは言っていた。
裏番長だ。
その庇護下にあった魔族は少なくないだろう。
血も涙もないテロリストの裏の顔ってやつだ。
「もうやめにしませんか。私は赦しました。若様に出会えたおかげで」
ルマリヤは静かにそう言う。
「赦せるわけねえだろうがァ。家族を八つ裂きにされて、ダチの首を晒されて。オレの角もこのザマだぞ」
サンドラの折れた片角。
折られたものだったのか。
角は魔族の誇りだ。
それを傷つけるのは、ライオンのたてがみをむしり取るようなもの。
最大限の侮辱だ。
俺が角を掴んだとき、サンドラはどこか恐怖に怯えているように見えた。
トラウマがフラッシュバックしたのかもしれない。
少し罪悪感。
「オレの角をへし折ったとき、人族の奴ら笑ってやがった。オレの角で作ったネックレスを母さんの首にかけたときも。その首を斬り落としたときもだ。赦せるわけがねえ」
「それでも、誰か大切な人ができたら、あなたも変われるはずです。私のように」
「わざわざこんなところまでノロケ話をしにきたのかァ? ルマリヤ、お前はいいよな。オレはダメだ。角の折れた魔族なんて誰も愛しちゃくれねえんだよ……」
覗き窓で目元しか見えないが、おそらくサンドラは不貞腐れたガキみたいな顔をしているだろう。
魔族の物差しなんて知ったこっちゃないが、俺はその角、カッコイイと思っているぞ。
初めて見たときからずっとな。
折れているのが逆にいいんだ。
強そうだしな。
カッコよく見えるのは、きっとサンドラの心が折れていないからだろう。
生き様は顔に現れると言うしな。
そんなことをボソッとつぶやいた。
銅像のように直立している看守長殿に、軽口のつもりで。
地下なのが悪い。
声がやたらと響いて、サンドラの耳にも届いてしまったらしかった。
覗き窓の奥で、目が見開かれている。
まばたきもせずに俺を見つめているが、幸いにして怒っている様子はない。
「初めてだぜ。そんなふうに言われたの……」
「ぇ!? ま、待ってください……! サンドラ、そんな目で見ないで! 若様は私のなんですから!」
ルマリヤが割り込んでくれて助かった。
ライオンに睨まれた猫みたいな気分だったのでね。
「ルマリヤが骨抜きにされるのも納得だぜ」
サンドラの咆哮じみた笑い声が響いた。
「それじゃオレはオサラバさせてもらうとすっかなァ」
ひとしきり笑ってから、気分を変えるようにハツラツとした声で彼女は言った。
聞き捨てならないセリフを。
まるで、ここから逃げる手段があるみたいな。
「あるぜ? ルマリヤが面会に来てくれるような気がしたから、おとなしくしていたがなァ。こうして会えたわけだし、もう、ここにゃ用はねえよ」
牢の中で準備運動している気配がするのだが。
まさか、と思って看守長を見るが、彼は亀の王のごとく泰然と構えている。
だよな。
破れるわけない。
岩を砕けるサンドラでも、この鋼鉄の扉は。
「おい、看守どもォ! オレのパンツに触ったら承知しねえぞ! 殺してから皮剥いでやるからなァ!」
皮剥いでから殺したほうがよくね!?
とツッコミを入れかけたそのときだった。
俺の前に突如として女が現れた。
素っ裸の女が。
全裸の女が。
マッパのサンドラが。
何が起きた!?
なぜ牢の外にいる!?
どうやって出た!?
どうして裸ぁあ!?
頭の中でクエスチョンマークの花吹雪が巻き起こっている。
が、本能的に俺はファイティングポーズを取ってルマリヤを庇う位置に立った。
第3ラウンドは裸で勝負かよォォォォ、とか思いながら。
「まァ、待て待て」
と、サンドラ。
「オレは2回負けた相手とはもう殺り合わねえ主義なんだ。だからこそ、今日まで生きてこられたんだぜ」
得意げにそう言うと、彼女は流水のごとき動きで俺をすり抜け、ルマリヤをギュッと抱きしめた。
素っ裸のままで。
「じゃあな、ルマリヤ。いい子、産めよ」
そう言い残して、――消えた。
消えたんだ。
手品のように。
一瞬で。
初めから存在しなかったかのごとく。
看守長の口がパカーンと開け放たれている。
俺も似たようなものだろう。
唐突にフララの言葉が思い起こされた。
『アレン、時渡りの祝福は非常に稀なのですよ。時間や空間の壁を越えて力を及ぼすなんて、女神様の御力にすら匹敵しうる権能です。すごいのですよ!?』
空間の壁を越える、か。
つまり、それがサンドラのスキルってことだ。
たぶんな。
女神ってのは馬鹿なのか?
とんでもない鬼にどんでもない金棒を授けやがって。
ともかくまあ、アレだな。
素っ裸で逃げていくサンドラもカッコイイな、とか思った俺であった。