46 闇の向こう
パラパラ、と石の破片が降ってくる。
至近距離で砲弾が炸裂したのかと思った。
俺は豆鉄砲をくらったハトの完全上位互換的な顔で口をパクパクさせている。
驚いた。
驚くだろ、こんなの。
飛んできたのは砲弾ではない。
拳だ。
サンドラの。
グーパン。
握り拳だった。
その拳は今も岩壁に突き刺さったままで、蜘蛛の巣状のひび割れを壁の隅まで広げている。
人間のパワーじゃない。
素手で岩が割れてたまるか。
実は、ゴリラの神でした、とか言われなきゃ納得できないぞ……。
魔法による幻覚?
……いや、違うな。
こいつに、そんな高尚な真似ができるとは思えない。
なら、祝福か?
「んなセコイもんじゃねえよ」
サンドラが拳を引き抜くと、岩壁が崩れ落ちて土砂の波が広がった。
「オレはただ殴っただけだ。こう、普通にズドンってなァ」
普通に殴っただけ。
この破壊力が、魔力による純粋な身体強化の産物だって言ってんのか?
あっていいのか、そんなこと。
サンドラは崩れた壁を見て苦笑して、
「いけねえなァ、本気出しちまった。一撃でくたばっちまったら面白くねえからなァ。ほどほどに手加減しねえと」
そして、ふたたびファイティングポーズを取る。
待て。
俺は岩を素手で砕くバケモノと殴り合わなければいけないのか!?
無理だろ。
ぐちゃぐちゃに飛び散って死ぬ未来しか見えないのだが。
「ちょ、待」
「アッハッハ――ッ!!」
右フック。
未来視で避けたつもりが、避けるに合わせて追ってくる。
脇の下をかすった。
それだけで、肋骨が砕け散った。
いや、俺は医者じゃない。
怪我の度合いなんてわからない。
でも、岩壁を見ればおおかた察しがつく。
オーバーランした拳がまたしても岩の壁を突き崩していた。
お前の体は一体何でできているんだ?
脇を押さえて俺は反対の壁まで後退した。
足の下で、――ガリッ。
鈍い金属音。
剣だった。
サンドラが投げ捨てたものだ。
これが、あれば……。
「おォーらよォ――ッ!!」
左ストレート。
肩をかすめた。
左腕がだらりと垂れる。
休むまもなく、右が飛んでくる。
避けきれない。
前髪が暴風でなぶられ、額が熱を持つ。
視界の上側から赤いカーテンが降りてきた。
右、左、右。
交互に即死級の打撃が繰り出される。
未来視を使っても直撃を免れるのが精一杯だ。
拳圧って言うのか?
風で砂塵が舞い上がり、砂の濃霧の中から亡霊のように腕が現れる。
足の裏に何度も当たる剣がもどかしい。
すぐそこにあるのに、拾うに拾えない。
拾おうとすれば、そのわずかな隙で、俺は命を落とすことになるからだ。
「どうしたァ? このオレから一本取ってみせたのはマグレだったのか? ハッハッハ!」
楽しそうに殴りやがって。
こいつ、遊んでいるな、俺で。
俺は死に物狂いだってのに、サンドラからすればお遊びみたいなものだ。
それでも、だ。
反撃に転じるどころか、逃げる余裕もない。
俺にできるのは必死に避けることだけ。
滑って転んで蹴られて立ち上がって、また転んで。
無様に転がりまわって、その場しのぎ。
それしかできない。
血が喉に蓋をして息が上がってくる。
視界が涙で歪む。
ダメだ。
勝てない。
人としてのポテンシャルが違いすぎる。
俺は未来が見えるだけのハエだ。
ゴリラの眼前を飛び回って鬱陶しがらせることはできても、それ以上はない。
大きな手のひらで触れられた瞬間、原型をとどめない残骸に変わる。
なぜだ?
なぜ、少しでも勝てると思った?
どうして、なんとかなると思ったんだ?
……そうだ。
俺の悪いところが出てしまったんだ。
すぐに、うぬぼれる悪い癖が。
妹に勝ち、ヒラーデに認められ、たった一度頭突きをくらわせただけで舞い上がってしまったんだ。
自分はデキる奴だと。
素手対素手なら勝てるかも、とか思ってしまったんだ。
そうやって俺は死ぬんだ、いつも。
増長して思慮が浅くなり、暴走して死ぬ。
いつもそうだっただろう。
今回もそうだ。
アジトを突き止めた時点で引き返せばよかった。
すべてを衛兵団に委ねれば。
いまさら遅い。
もうとっくに過去のことだ。
今の俺にあるのは素手で少しずつ肉を削られていく現在だけ。
どう立ち回っても最後は俺の顔に拳が突き刺さる。
そして、何も見えなくなる。
それが、俺の未来だ。
何十通り検証しても、必ずそこに行き着く。
確定された未来。
絶対の宿命。
こんななら剣でなますにされたほうがよかった。
左肩の先で干された長靴下みたいに力なく揺れていた手に、サンドラの右が直撃した。
指の向きがおかしなことになり、剥がれた爪が花吹雪のように舞う。
間髪入れずに飛来した左が頬骨をえぐる。
口の中では、どこのものとも知れない歯が跳ね回っていた。
殴られた拍子にルマリヤの姿が見えた。
椅子に縛り付けられ猿ぐつわを噛まされたまま、必死に身をよじり、その顔は涙でぐしょ濡れだった。
いや、悪いね。
俺もできればカッコよく助け出したかったのだが、ヘマをこいたみたいだ。
最短、あと3秒。
最長でもあと40秒ほどで俺は死ぬ。
まあ、サンドラはお前を傷つける気はないようだから安心してくれ。
いい子が生まれるといいな。
ブリッとな。
名前は付けるなよ?
特に、アレ○○みたいなのはやめろ。
俺の尊厳が傷つく。
一寸の虫にも五分の魂。
俺にだってあるんだよ、プライドが。
まあ、そういうわけだ。
一応、最後まで抵抗はしてみるよ。
虫の抵抗を。
倒れてもいい、血を吐いてもいい。
だが、目だけは閉じない。
未来を見続ける。
これだけが俺の武器だから。
可能性にゼロはない。
そして、可能性とは常に未来にあるものだから。
(……っ?)
見間違いか?
俺はボコボコの顔を違和感で歪めた。
今、妙な未来が見えた。
――サンドラがラリアット気味に腕を振り抜いた。
俺はそれを避けた。
絶対に躱した。
だが、次の瞬間、何も見えなくなる。
このゴリラ女め。
岩壁を殴り壊すだけじゃ飽き足らず、ついに「避けた」という事実すらも無効化する特殊ラリアットまで戦線に投入する気か。
これだから、脳筋は。
(……いや)
脳筋とかパワーとかで説明がつくものなのか。
「避けた」という事実を塗り替えるラリアット?
なんだそれは。
そんなことがあってたまるか。
百歩譲って岩砕きは物理で説明できるとして、だ。
そのラリアットは一体全体どんな法則で成り立っている?
あるはずない。
何かきっと――
「あ」
考え事をしていたせいか、避け損なってしまった。
割とまともな形で胸に一撃もらった。
息の仕方がわからなくなる。
幸いなことに、もう痛みとか感じないんだよな。
血のゲロを吐いて、胸焼けみたいな感覚を味わっただけだ。
あと5秒ってところか。
何も見えなくなるまで。
俺が死ぬまで。
(……いや)
いやいや。
違う。
そうじゃない。
そうじゃないだろ。
見えなくなることと死ぬことは別じゃないか。
目を閉じれば何も見えなくなる。
だが、死ぬわけじゃない。
だろ?
(そうだ)
別なんだ。
別。
見えなくなるだけ。
別なんだ、別。
――そういうことか。
闇の向こうに光が見えた気がした。
いける、……のか?
俺は骨を抜かれたみたいによろめく脚を気力だけで突っ張った。
サンドラの左フック。
鼻を折られても、目は閉じない。
瞬きだってするものか。
見てやる。
見逃さない。
どんな小さな光でも。
俺は角に手を伸ばした。
イカズチのような角に。
その予備動作に、サンドラは敏感に反応した。
大袈裟に退く。
その分だけ、次の踏み込みは大きくなる。
サンドラがラリアット気味に腕を振り抜いた。
未来視で見た通りに。
俺はそれを伏せて躱した。
完璧に躱した。
絶対に避けた。
だというのに。
(……)
真の闇が訪れた。
完全なる黒が。
その中をガラスの破片のようなものが光のシャワーとなって飛び散っている。
ガシャンと何かが砕ける音が聞こえた。
例えるなら、結晶石が砕けるような音が。
俺にはもう何も見えない。
だが、考えることができる。
感じることができる。
生きている。
見えないだけで。
そうだ、これこそが「見えなくなった理由」。
サンドラは砕いたのだ。
その拳で。
この横穴を照らしていた光の魔結晶を。
まあ、取るに足らないことだろう。
歴戦の戦士サンドラからすれば。
こいつは、完全なる闇の中でも正確無比に俺の顔面をぶち抜くに違いない。
今のは右だったから、次は左か。
振り返りざまに殴りつけてくるんだろ?
またラリアットか?
フックか?
それとも、アッパー?
たぶん、ストレートだ。
一番リーチが長く、角に触れられる心配がないから。
狙いは顔だな。
ムカつく奴を殴るならそこしかない。
(それだけわかれば……)
全部想像だ。
予想だ。
憶測だ。
でも、俺の目は闇の中にくっきりとサンドラの姿を見出していた。
伊達に殴られていたわけじゃないんだ。
これだけボコボコにされりゃ闇の中でもお前を幻視できる。
俺は右手を握り込んだ。
やってやる。
最初で最期のカウンターパンチ。
だが……。
この貧弱な拳でこのゴリラを沈められるのか?
無理だ。
拳より重いもの。
何か、岩のような。
そのへんにいくらでも転がっているはずだが、見えないものは無いのと同じだ。
(あった)
ひとつだけ。
岩みたいなやつが。
これを使ってやる。
やってやる。
俺は歯を食いしばって踏み込んだ。
右耳のすぐ横を死の塊みたいな風が通り過ぎた。
サンドラの左直が。
左腕がここなら、お前の顔は今このへんか?
俺は全身全霊、乾坤一擲、渾身の力でぶつかっていった。
頭で。
額で。
おでこで。
頭突きで。
命懸けで。
◇
何か、とてつもなく硬いものと正面衝突した気がする。
それこそ、岩の壁みたいな。
それを機に、俺の意識は9割方吹っ飛び、残りの1割だけで体を支えていた。
暗闇を蹌踉と歩く。
ダンジョンの中ってのもあって、さながらアンデッドにでもなった気分だ。
俺は剣を手にしていた。
それで、縄を切った。
耳元でルマリヤの声がした。
なんと言っているのやらさっぱりだが、俺を心配してくれているのは伝わってくる。
俺は歩き疲れた3歳児のように、ルマリヤにもたれかかった。
粉々になった結晶石が散らばる床は薄ぼんやりと光って見える。
その中に、誰か倒れていた。
雷のような角を生やした女。
サンドラだ。
額から血を流している。
岩で殴られたみたいに。
俺のおでこも同じようなものだろう。
ピクリとも動かないが、死んでいるのか生きているのか、わからん。
どっちでもいいから、そこを動くなよ。
ルマリヤ。
出口はあっちだ。
見張りには気をつけろ。
そう言おうとしたが、もう声が出なかった。
まぶたも重い。
俺の意識はぷっつりと途切れた。
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