10 冷え込んだ馬車内で
石畳を掻く蹄鉄の力強い音に合わせて、車輪がガタゴトと小気味よい音を響かせる。
窓の外を流れていく桜吹雪のなんと美しい。
俺の心も蝶のように踊りだしてしまいそうだ。
……と、よかったのだがな。
「はぁ……」
俺はタールよりも重ったるい息を吐き出した。
窓ガラスの向こう側はあんなにも晴れやかだというのに、俺のいるここは梅雨と冬を同時に迎えてしまったかのように陰気に凍りついている。
負の発生源はこいつだ。
俺の隣に腰掛け、腕を組み、仏頂面を決め込み、今にも爆発しそうな、こいつ。
リンネ・イー・エトナリー。
一目見てわかる。
かつてないほどご機嫌斜めだと。
馬車の揺れに別の揺れがまざっているのがわかるか?
貧乏ゆすりだ。
リンネのな。
俺と一緒の登校するのがよっぽど不満らしい。
「……恥ずかしいところを見せたわね。母は古いものを大切にする人なのよ」
車内がカビと霜で覆われた頃、ようやく沈黙が破られた。
俺は恐る恐る返答する。
「古いものというと?」
「ドレスよ。貴族とは思えない身なりだったでしょ。きっと古いものに執着しているのよ。今度新しいものを買いに行かないと」
リンネはどうやらリマ夫人の身だしなみをまだ気にしているらしい。
たしかに、質素を通り越して、みすぼらしい印象さえあった。
貴族というと煌びやかなイメージがある。
でも、そんなのは極ひと握りだけだ。
下級貴族は一般庶民と大差ない暮らしぶりだし、中堅貴族にも没落寸前のところは多い。
エトナリー家もその一つだ。
何代か前は広大な領地を所有する大貴族だったが、土地に関する税が軒並み引き上げられたのを機に、家計が火の車に。
今では最も没落に近い貴族などと揶揄されている。
実際のところ、1年後にはエトナリー邸は差し押さえられることになる。
未来視で見たので間違いない。
そして、すべてを失い、路頭に迷う彼女らに救いの手を差し伸べるのが我が父レナードだ。
かくして、リンネは俺の妻となり、貴族社会に復権するのであった。
これが、リンネルートの序章にして、俺たちの馴れ初めである。
それはともかく、だ。
今のエトナリー家には普段着に気を遣う余裕さえないってことだ。
「殺したくなるわね」
ドキン、と心臓が跳ねた。
ドス黒い眼光に睨まれて、俺の尻と座席の間には嫌な汗が噴き出している。
「あなた今、私に同情の目を向けたでしょう」
「いや、そんなことは」
「とぼけないで」
「向けました……」
もうタジタジの俺である。
リンネは威圧するように、ため息をついた。
「私はあなたのそういうところが嫌いなのよ。よかったわね、ご立派な家に生まれることができて。その時が来たら家督を継いで、お高い椅子にふんぞり返って、それだけで何不自由なく暮らしていける。羨ましい限りだわ」
なんてことを言うんだ。
さすがの俺も怒るぞ。
と思ったが、未来を見る限り、まさしくおっしゃるとおりな自堕落っぷりの俺である。
返す言葉もありゃしない。
「どうして、あなたみたいな苦労知らずのボンボンに嫁がないといけないのよ」
そんなことを言われてもな。
「私には選ぶ権利なんてない。一族の血を絶やさないために、あなたに捧げられるの。貢ぎ物としてね。これ以上の屈辱はないわ。腹の底から煮えくり返りそうになる」
その腹の底とやらは黒い炎を宿しているに違いない。
そういう目をしているもの。
選べないのはお互い様だろ。
俺を恨むのはお門違いというものだ。
殺すなんてもってのほかだぞ。
穏便に行こう。
な? な?
(……しかしまあ、あれだな)
嫌われた理由がわかってよかった。
もしかして、俺に原因があるのではないかと思い悩んだこともあった。
でも、そういうわけでもなさそうだ。
家同士の格差。
羨望、嫉妬、そして逆恨み。
貴族社会ではよくあることだ。
「私も本当はわかっているわ。あなたは悪くないってことくらい」
窓ガラスに頭を預けるようにして外の景色を見つめながら、リンネはひどく小さな声でそう言った。
「私のこと、ムカつくでしょう」
というより、怖いかな。
防刃ベストが欲しくなる怖さがあるんだ。
この気持ちは刺された者にしかわからないだろう。
「気に食わないなら殴るなり蹴るなりしなさいよ。どうせ逆らうこともできないんだから」
そんなことはしない。
俺は紳士なのでね。
……あ、いや。
ちょっと待った。
俺の脳裏に未来の記憶が蘇った。
俺は嫌がるリンネを殴りつけ、ベッドに押し倒して無理やり行為に及んでいる。
泣き叫ぶ彼女を何度も何度も蹂躙し、動かなくなるまで辱め、時に首を絞め、締め落として失禁させ、時に拘束し、夜の通りに放置している。
逆さ吊りにムチ責め、監禁、ソフト拷問に果てはスライムプレイだ。
なんてことをするんだ、未来の俺。
性根ばかりか性癖まで歪みやがって。
リンネが悦んでいるようにも見えるが、きっと俺の身勝手な勘違いだ。
このドス黒オーラ全開の少女がドメスティックなエロスに身悶える変態にはとても思えないからな。
「これだけは覚えておきなさい」
リンネは強い意思を感じさせる目で俺を睨みつけた。
「体は好きにできても、心だけはあなたのものにならないんだから。わかったわね?」
わかった。
未来の俺はとびっきりの馬鹿だが、さすがに殺されれば学ぶさ。
安心してくれ。
俺もお前との結婚を回避するべく全力で行動する。
だから、早まって刺すのだけはよしてくれよ。
「俺も悪かった。ブスなんて言って」
俺は座席で身をよじって頭を下げた。
「あれだ。記憶があれでパニックを起こしてしまったんだ」
記憶喪失のフリというのは本当に便利だ。
なんとでも言い訳できるからな。
「謝ることないわ。私も心無いことを言ってしまったもの」
馬車内の陰鬱な冷気が若干和らいだ気がする。
心なしか、リンネの顔にも赤みが見えるような。
「あなたって意外とハッキリものを言う人だったのね。以前のあなたは社交辞令と作り笑いばかりだったのに」
「貴族の子なんてそんなものだろう。記憶をなくして変わったのかもしれない」
「今のあなたのほうがいいわ」
「そうか?」
「そうよ」
「……」
「……」
わずかな沈黙を挟んだ後、リンネは珍しくまごまごしてみせた。
「も、もう一度言ってみなさいよ、ブスって」
……ん?
なぜだろう。
頬の赤みが強まった気がするのだが、気のせいだろうか。
「私、あなたの頬を張ったわ」
「ああ。あれは、いい一撃だった」
「格上の貴族に手を上げたんだもの。覚悟はできているつもりよ」
「と言いますと?」
「あなたは私を罰するべきよ。平手ではぬるいわ。グーで構わないから」
そう言うと、リンネは俺に頬を差し出してきた。
その頬が真っ赤に染まっているのは一体なんなんだろうな。
この辺で、あれ? と思い始めた俺だが、確かめる間もなく馬車は学院に到着した。
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