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暁の史記  作者: 焚火卯
三章
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第三十六話『カシス・ヴィヴァーチェ』

 何か、失った気がする。

 何か、失っている気がする。

 

 ——何か、失う気がする。

 

 

 

 

 生命の巡り合わせを遮るような靄が、私の心臓で唸っている。

 私は宙に固定され、繋がりを失った外側が無情にも離れていく。

 甘いゆりかごのような香りも、閉塞された心を解きほぐす温もりも。

 本当の太陽の輝きも、湖水に反射する花々の彩りも。

 自分だけが、世界の中心に取り残されているみたいだ。

 

「——ン」

 

「——レン」

 

「——フレン」

 

 呼ばれるたびに心が満たされるような声。

 私を呼んでいる。

 それは認識できるのに、名前の輪郭を認識できない。

 それでも私は躊躇を捨てる。これは私のことだから。

 私は、母の声に応える。

 

「おかあさん……?」

 

「——っ、そうよ、お母さんよ。ちゃんとここにいるからね。ちゃんと、ここにいるから」

 

 おかあさんに抱きしめられて、あたたかい言葉が私に纏う。

 それを貰える心当たりはなかった。しかし、それを言うおかあさんの顔がとても心配そうだったから——、

 

「大丈夫だよ……。おかあさん、私、大丈夫だから……っ」

 

 そうして顔を上げると、おかあさんと目が合った。その瞬間、大丈夫と言った私の口から嗚咽が漏れた。まるで、さっきの発言を言い咎めるみたいにして。

 私は何が何だか分からなくて、おかあさんの胸に顔をうずめる。顔を見られたくなかったからだ。

 きっとさっきのも、急に喋ってしゃっくりが起きただけだろう。特に深い意味はない。

 大丈夫。私は大丈夫。

 

「そっか。フレンは、大丈夫なんだね」

 

 顔をうずめた私の髪を、おかあさんはそっと口づける。そして私を胸に寄せたまま、頭を優しく撫でた。

 ——私は、声を上げて泣きじゃくった。

 私の小さな虚勢など、偉大な母の前ではお見透しなのだ。それでもおかあさんは、私の虚勢を守ってくれる。

 感情の明瞭でないあたたかな涙を、私はおかあさんの胸で流し続けた。

 

「——落ち着いた?」

 

「……泣いてなんかないもん」

 

「そうだったね。フレンは強い子だもんね」

 

 口を尖らせて抵抗するが、こんな泣き腫らした目では説得力はない。

 どうして自分でもここまで意固地になっているのかは分からないが、認められないものを受け入れることはできない。

 だって、私はまだ幼稚な子供だから。

 

「————」

 

 拗ねた顔で私は鼻をすする。おかあさんは仕方なさそうに目を細めて、私にハンカチを手渡した。

 

「それじゃあお母さん、ちょっとお外出てるから、フレンも、ね?」

 

 最後に頭を優しく撫でて、おかあさんは部屋から出ていく。

 フレンは手渡されたハンカチを使って、目元を拭い鼻をかんだ。

 心はもう十分に落ち着いていた。

 ふと窓から外を見上げると、暖かな陽気が私の身体を満たす。

 大体、三時と言ったところだ。

 

「そうだ……」

 

 私はおかあさんと昼寝をしていたのだ。それで何かヘンテコな夢を見て、おかあさんに縋ったと言ったところだろう。

 ——夢の内容はちっとも思い出せないけれど。

 

「おかあさんの顔見たら忘れちゃった」

 

 重要なことのように思えるが、思い出せないものは仕方がない。

 夢の抽象的な母親の像より、現実の母親の方が具体的で鮮明に残るのは当然なのだ。

 

「……よし」

 

 頬をパチンと叩いて、心の整理と頭の整理を終わらせる。

 そして私は、テクテクと外に出た。

 

「——えいっ」

 

 ドアを出たところで、おかあさんに両脇から抱えられた。

 いつの間にか着替えたおかあさんに抵抗せずいると、おかあさんは意外そうな顔を見せた。

 

「今日は避けないんだね?」

 

「たまには、せいこー体験を与えないとおかあさん可哀想だから」

 

「まあ、そんな生意気言うようになって。まったく誰に似ちゃったのかしら」

 

 微笑みながら、おかあさんは捕まえた私を地面に下ろす。

 もう何年もやっているお約束だ。とはいえ、いつもは私が器用にかわしているので、おかあさんに捕まるのはこれが初めてだった。——一応、失念が理由だ。

 

「それじゃあ、行こっか」

 

 おかあさんは私と手を繋ぎ、歩幅を合わせて歩き出す。

 もう十歳だから、抱っこしてくれなんて甘えられない。私の足で歩むのだ。

 

「———?」

 

 家の敷地外に出た瞬間に、私は空気の違和感を感じ取った。

 いつものブラギ村とは違う、変な空気。私の家は村の外れに位置しているため、空気感の変化をあまり受けない。受けるとしたらよっぽどのことが起きたときだ。

 二歩目を刻めば、もう異常性の正体に気づいた。

 

「なんか、賑やか……?」

 

 やたらと喧騒が風に乗って流れてくる。

 ブラギ村はもっと生気の薄い村だったはずだ。活気なんて一番遠くにある村で——、

 

「——違う」

 

 よく注視してみれば、建物の配置や道の引き方が全く記憶と合致しない。唯一近いのは、背後に大きな森が構えてあるところだが、『禁域』ほど鬱蒼としていないので、これも近いだけで違う。

 

「おかあさ……」

 

「——あ、こんにちは」

 

 声のトーンを上げて、おかあさんが通りから出てきた人に挨拶をする。

 そして、私の背中を押して、


「ほら、フレンも」

 

「こ、こんにちは……」

 

 言われるがままに挨拶をするが、目の前の人物に心当たりがない。

 優しそうな初老の男性。ブラギ村にもその特徴だけ抜粋すれば数人該当する人物はいるが、そのどれとも顔が違う。

 

「こんにちは。今日は二人かのぉ」

 

「はい。エルドさんは行商に行っていますので」

 

「そう言えばそうだったのぉ」

 

 老人は緩い雰囲気でゆったりと話す。

 話の内容からなんとなく親しげな関係値を積んでそうだ。だけど、私は全く分からない。

 だから、おかあさんの背中の裏で睨んでいると、

 

「フレンも息災だったかのぉ」

 

「……どう言う意味?」

 

「元気だったかってこと」

 

「元気……うん、元気だけど……」

 

 意味のわからない単語をおかあさんに捕捉してもらい質問に答える。

 元気なのは間違いない。それは間違いないのだが——、

 

「元気ならそれが一番だのぉ」

 

 老人が私の頭を撫でる。不思議と嫌な気分はしなかった。両親以外に触られるのは、抵抗があったのだけれど。

 

「そしたら、そろそろ行くわい。困ったことがあればいつでも頼ってくれてええからのぉ」

 

「はい。ありがとうございます」

 

 優しく心強い言葉を言ってくれる老人におかあさんは微笑んで、

 

「——ヨルゼ村長」

 

「え……?」

 

 耳を疑うような内容だった。ブラギ村の村長は、眼に光のない老婆のはずだ。

 さっきの違和感が、私を支配して急速に確かめずにはいられなくなる。

 

「——っ! フレン!?」

 

 私はおかあさんの手を振り切って、村の中心へと駆け出す。

 おかあさんが一拍遅れて追いかけてくるが、速度を出したフレンには誰も追いつけない。

 転けそうになる足を踏ん張って、坂の中途で足を止めた。

 

 さっきの老人だけじゃない。煙突から煙を出している二階建ての家屋も、道を彩るように群生する花々も、黒髪の少女を背負う銀髪の少女の存在も、なにもかもが知らないものだ。

 景色も人も空気の香りもあの雄大な太陽さえも、フレンの記憶と誤っている。

 

「フレン!」

 

 ただ呆然としていると、後ろからおかあさんが追いついてくる。

 

「急に走ったら危ないじゃない」

 

「——違うの」

 

 道の先に佇む太陽を指差しながら、私は振り返る。

 

「私、こんなところ知らない!」

 

 何かが私の世界を侵食している。それが恐ろしくて、瞳が壊れそうなぐらい震える。

 

「私、私……っ!」

 

「——フレン」

 

 今にも崩れ落ちそうな表情を、おかあさんは優しく抱きしめてくれる。大切なものを壊さないように、柔らかく包み込んでくれる。

 

「きっと、怖い夢を見たのよね。本当に本当に恐ろしい夢。その夢は、暗くて苦しいのに、現実に追いついてくることを疑わせなくしてしまう。ううん、いつか現実に追いついてしまう」

 

 おかあさんの胸の中で、私は耳を傾ける。心音と言葉が混ざり合って、私を慰めていく。

 

「そのいつかがお母さんには分からないけれど——」

 

 おかあさんは私の肩を掴んで胸から起こす。そして私の身体を回転させ、道の先の太陽に身体を向かせた。

 そして——、

 

「——ちゃんと、幸せになってね」

 

 背中越しにおかあさんの囁きが私の耳朶を打つ。

 軟らかい風が吹いて、視界の端で透き通る白髪が舞い運ばれた。きっともうどこにも届かないところへ。

 私は、気づく。

 夢の内容を思い出せなかったのではなく、これまでずっと夢を見ていたのだ。

 現実という理は、過不足なく私に事実を突きつける。

 私は、知っている。

 

 ——おかあさんは、殺されたんだ!!

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