第三十五話『カシス・ヴィヴァーチェの史記』
その日のことは、忘れようもない。
「フレン! フレン……っ!」
林を掻き分けて、やっと失踪した我が子を見つける。
——月光が、暁色の子を庇護するように、差し込んでいた。
◯
夢。
それは、ドンと尻もちをついてしまうところから始まる。
痛みはないが、衝撃は確かに身体を襲う。
尻と同時に手をついて、そのときに左手の人差し指を立てていたから、その爪が割れてしまったのを覚えている。
それでも、痛みはない。
だってこれは夢だから。
『もう、やめて……っ』
——でも、心は何度も何度も痛むのだ。
◯
この村は、どこか変だ。
共同体としての結びつきが強すぎるのに、反面、関係は希薄だ。
みんなが手を繋いで輪を作っているわけではなくて、みんなが鎖で接続されているみたいだ。
互いに無関心なのに、意識が一つだからエラーが起きている。
なのに鎖の輪の外側から見れば、安定しているように見えるのだからタチが悪い。
輪の内側で三角座りをし、冷たいチェインを指でなぞれば、その不気味さには一目で気づく。
——きっと、私以外は。
愚かにも、それを自覚したのは母が失踪してからのことだった。
母がそのことに気づかせないように輝いてくれてたからだ。
太陽の熱が地表を照らしているうちは、アステリズムをなぞれない。
あんなことがあっても、あんな別れがあっても、母は偉大だった。
そんなことを思ったら、またあの夢を見てしまうのだろうけれど。
その度に心を痛めて、母との再会に涙を流してしまうのだ。
「……ぁ」
目を覚ますと、眦で涙が乾燥した感覚があった。
それを親指で擦りながら、カシスは窓の外を見る。
カシスは一通り家事を終わらせて、少し昼寝をしていた。
ほんの一時間ばかり寝るつもりだったが、
「うそ……もう、こんな時間」
寝る頃には天球の頂点にあった陽も、すでにだいぶ傾いて、夕方に差し掛かるほどだった。
日没が少し早まっているとはいえ、おそらく四時間弱は寝ていただろう。
特に用事はなかったが、この数時間は大きい。
「お父さんも起こしてくれればいいのに……」
父親はここ一、二年で急激に体調が悪くなったが、それでも寝たきりというほどひどくもない。
肝心の父親は、口癖のようにもう長くないなんてことを言っているけれど。
そうして、二階にいる父親に悪態をつきながら、カシスは立ち上がる。
「————」
窓の外は暁色の空が広がっていた。
グラデーションのついたその空を見ると、お母さんを思い出す。
一番、輝いていた頃のお母さんを。
「……ん?」
外が少し、騒がしいように思えた。
そこでカシスは行くかどうか悩む。正直、良いことが起こるとは思えない。
ここで行かなくても、特に後悔はしないだろう。
家にいるのが無難。そう考えながら、カシスは家を出た。
——もしかしたら、心のどこかで変化に飢えていたのかもしれない。
小走りで小道を進む。
こんな村だからこそ、村の空気の焦点が集まっている場所は分かりやすい。
どこが騒がしいかなんて、嫌でも肌の下に滑り込んできた。
「今すぐ、ここから立ち去れ!」
怒号が届いたのは、カシスが現場に到着したのと同じタイミングだった。
しわがれた老婆の声。村長さんの声だ。
その声の届く先を見ると、血だらけで満身創痍の男性がいた。
意識を保つのが限界で——ちょうど今、プツリと断ち切れたのが分かった。
村長はその男性に触れようとする。
意図は分からない。
だけど、その瞬間、とてつもない嫌悪感が走った。
「——触らないでください!!」
走って村長と男性の間に割り込む。
腕を大きく広げて、庇うような形だ。
「……カシスか」
村長は光のない瞳でカシスを見て、名を呼んだ。
驚きはあった。まさか名を知ってくれているとは。
——私は村長の名前すら知らないのに。
なら、カシスの方が、この点では不誠実なのではないか。
もしかしたら、本当は——、
「なんじゃ、知人か?」
手を引っ込めた村長が、訝しげに聞いてくる。
返答を間違えたら、詰む気がするというのは、考えすぎなのだということは分かっている。
だけど、まだ、怖気があった。
だから——、
「そういうわけじゃ……ないです。全く知らない人です」
「ならば、何ゆえ庇う」
「庇う……というより、触ったら危険だと思って……。ほら、血って触ったら感染症とかのリスクもありますし、それが流行ったりしたら、村とか簡単に滅んじゃったりするので……」
「——滅びか」
村長は、平坦な声でカシスの言葉の一部分を繰り返した。
そして、
「『隣人』の加護がある限り、ワシらにそのようなことはあるまいよ」
「リンジンの加護……?」
「そやつが負けたモノだ」
そう言って村長は男を顎で示す。
リンジンとは——隣人の響きだったが、それで良いのだろうか。
「すなわち、そやつはもう助からんじゃろう。『隣人』の加護は、必ず災いを跳ね除ける。——引き返せばまだ目はあっただろうに、愚かよの」
淡々と、分からないことを言い連ねて、村長は男を見捨てようとする。
周りを見ても、誰も彼を助けようとはしない。
さっき名前を呼ばれたとき、もしかしたら、本当は——カシスが歩み寄れば、ちゃんと寄り添い合えるのかもしれないと思ったんだ。
なのに、
「この人は、隣人の加護なんていうわけの分からないものに殺されるんですか!?」
「——それが、天命」
何かの大きな力を盲信して、救えるものを見捨て去る。
そんな村長に、村民に、嫌気がさした。
——それに従ったら、私は私ではなくなってしまう。
「だったら、私が助けますよ!」
この一言が口に出せた。きっと、何があっても後悔しない——。
「生還させられるなら、してみるが良い。——『隣人』の加護に抗えたのなら、後は好きにしろ。無論、災いに慈悲など与えられんじゃろうがな」
村長はそう言い切ると、背を向けて立ち去る。それを合図に、オーディエンスも続々と家に帰っていった。
心臓を掴まれるような緊張から解放され、へたり込みそうになるのをグッと堪える。
まだ、これからやることは多い。
カシスは、男を運んできた馬を誘導し、自宅に向かわせる。
馬を繰ったことはないが、とても優秀な馬だったようで、特に何もせずとも安定した走りを見せてくれた。
夕空の下、カシスはしばし馬車に揺られる。
隣人の加護なんてわけの分からないものは初めて聞いたが、周囲の反応を見るに、周知の事実のようだった。
この村で知らないのはカシスだけ。——理由は、母親にあるように思える。
母が、おそらくカシスに伝えることを止めていたのだ。
「————」
そのときふと、頭によぎった。
隣人の加護は全ての災いを跳ね除ける。
なら、災いではなく祝福だとしたら。
なら、滅びではなく救済だとしたら。
なら、悪党ではなく英雄だとしたら。
つまり、隣人の視点や解釈で加護の対象になり得なかったらどうなる。
そんな悲観は持ち合わせて当然のものだろう。
みんなには、それがない。
——母が何故、カシスにそれを教えなかったのかが分かった。
きっと、そんなわけの分からないものに、支配されてほしくなかったのだ。
「お母さん……」
カシスのお母さんは——ジュディ・ヴィヴァーチェはすごい人だ。
強くて、カッコよくて、偉大な人。
——ねえ、今どこで、何をしているの?
◯
夢。
それは、ドンと尻もちをついてしまうところから始まる。
痛みはないが、衝撃は確かに身体を襲う。
尻と同時に手をついて、そのときに左手の人差し指を立てていたから、その爪が割れてしまったのを覚えている。
それでも、痛みはない。
だってこれは夢だから。
『もう、やめて……っ』
目を背けるようにお母さんが、背中を向ける。
その背中に、私は飛びついた。
離れまいと、離したくないと必死に組み付く。
お母さんは体勢を崩し、足を滑らす。
私から流れようと、お母さんが勢いよく頭を上げた。
その時、近づいていた私の額を、お母さんの頭が強かに打った。
やっぱり、痛みはない。
——でも、心は何度も何度も痛むのだ。
◯
「エルドさん、無事に回復していって良かった……」
徹夜で潤む瞳を閉じて、カシスは小さく息を吐く。
カシスにそれなりに医学薬学の知識があって助かった。
父の実家が主に薬剤関係で財を成したおかげである。
やはり子にとって親の影響というのは色濃いものだ。
母にも父にも感謝しなくてはならない。
隣人の加護などというわけの分からないものを否定できたから。
「……罪悪感はあるけど」
真っ直ぐエルドから感謝を伝えられるたびに、僅かに心が痛む。
自分はそんなに高尚な人ではない。
助けたのだって、本当は自分を守るため。
黒い混合物が含まれたそんな善意。
救世主だなんて、間違っても嘯けない。
「——そんなに卑屈になる必要もないとは思いますけどねー」
厩舎でエルドの馬の世話をしていると、後ろから声をかけられる。
入り口に、軍服の袖を折りラフに着こなした人がいた。
「プールです。さっき振りですね」
プール・アダージョ。この村を防衛する軍の、隊長をしている人だ。
「……エルドさんとは話せましたか?」
「はい、おかげさまで。正直、聞き漏らしていたら危ういレベルの話でした」
「それなら、甲斐はありましたね……」
カシスのおかげと言ってくれても、誉れを喜ぶことはできない。
いくら、卑屈になる必要はないと言ってくれても。
そんな態度を出していると、プールは話題を変えるように、首を回しながらゆっくりと近づいてくる。
「……それにしても随分と立派な厩舎ですね」
「父が商家の人間なので。とはいえ、もう一切使っていませんが」
「ということは、体調はお変わりなくですか」
「むしろ、悪化しているようで……」
日に日に衰弱していく父を、カシスは見ていられない。
「僕としても、どーにかしたいところではあるのですが、医師を呼ぼうにもこの村じゃどーも難しい」
「かといって、父は村を離れたがらない。……いいんです。私も父も、これで」
諦観のようなもので、きっと変わらないであろう父を、変えるために足掻けるほど、カシスは強くなかった。
「……いざとなればいつでも頼ってください。まーあ、僕もいつまでここにいれるか分かりませんが」
「異動されるんですか?」
軍のことは詳しくはないが、武勲を立てたりなどすれば、それなりに地位が上がったりするだろう。
プールならば、あり得る話だ。
「部隊の再編成が起きるかも、ですかね。でーも起きたとして、この村の面子が変わるというのは、あまり考えにくいですよ。ここは、ほら、対魔獣の訓練を受けていないと防衛に携われないので」
魔獣と人とでは戦いの勝手も違う。
凄腕の猟人が戦争で武功を残せるかと言われれば、難しいと言わざるを得ない。
逆もまた同じことだ。
「つまりは、杞憂で終わる可能性が高いってことです。たーだ、あなたにはしっかり伝えておかなければならないことがある」
「————」
「僕がここを離れれば、あなたのお母様の捜索は打ち切られるでしょう」
タイムリミットが近づいているかもしれない。
そうでなくても、一生母親を探し続けることなどできない。
「分かって……ます。もう十年ですから……」
「だから、十分だと?」
心では分かっている。母の捜索にずっと手を煩わせ続けられない。
だけど、カシスは頷けなかった。
「——今度、『禁域』に調査に行けそうです」
「え……?」
子供じみた自儘を手放せないでいると、突然、思いがけないことが舞い込んでくる。
「どうして、そんな突然……。『禁域』には、入れないって……」
「その通りです。『禁域』には踏み込めない。——ブラギ村の反発が大きかったからです」
母の行方は、分からない。
ただ、長い調査の結果、おそらく『禁域』に踏み込んだのではないかという仮説が有力だった。
しかし、ブラギ村の人々が『禁域』への立ち入りを、強く禁じていたために、調査隊を送れなかった。
最初は危険だから許していなかったのだと、単純に飲み込んでいた。
しかし、今なら分かる。
それはおそらく——、
「隣人の加護ですか?」
「あーらら、知っちゃいましたか……」
確信めいた問いかけをすると、プールは観念したように頭を掻いた。
「そーです。『禁域』に立ち入れば、『隣人』の反発を招くらしいですよ」
「そんなもの、本当にあるんでしょうか……?」
聞いたのがここ数日の話だからというのもあるが、正直なところ全く信じることができない。
事実、エルドは生還したではないか。
「ない、と信じるのは可能ですが、証明することは僕もできない。だけど、あるものとしてこの村は何百年も続いてきた。まやかしの願いも、何百年の歴史になれば真実に変わる。そう、僕は思います」
「時に、人の願いの力は何かに変質するってことですか?」
「そんな感じです。特にこの村は『禁域』の影響で魔力濃度が高い。——魔力は常識の外側で蠢くエネルギーですから、摩訶不思議なことは環境的に起きやすい。まーあ、そんな説も聞いたことがありますね」
しれっと開示してくるが、そんなのも初耳だ。
カシスは村のことをこんなにも知らなかったのか。
「そんなところで話を戻しますが、『禁域』に赴けるようになるためには『隣人』の反感を買うと恐れる、ブラギ村の人々の説得が必要です」
「それが成せそうということですよね? どうしてなのでしょうか?」
「エルドさんです」
エルドを運んでいた馬の鼻筋を撫でながら、プールがそう告げる。
「魔獣が結界を越えて襲ってきた。正直、これだけで決め打ちになるでしょう」
「でも、それが加護だって言われたら……」
「それはないです。——だって、エルドさんは助かったじゃないですか」
「……ぁ」
加護は必ず災いを跳ね除ける。なら、それに抗えたのであれば、それは加護ではない。
カシスが加護を信じているか信じていないかは、この際どうでもいい。
——ブラギ村のみんなには、その論理が必ず通用する。
すなわち、
「ジュディさんの捜索に行けますよ。——紛れもないあなたの、功績で」
その瞬間、カシスは涙が溢れそうになる。
だけど、堪えた。
——違う、流せなかったのだ。
「本当にありがとうございます。父にも報告します」
ずっと望んでいたはずだ。母の手がかりを得る機会を。
いざ光明が見えたとき、カシスは自分で驚いた。
そして納得した。
——自分の不甲斐なさに。
母と向き合うのに、父を無くしてはできない。
母という理想に対して、逆側に伸びていく線分——現実の父と。
弱い心、怖じける心、ぐずつく心。
自分は母をどう思いたいのだ。父とはどう思い合いたいのだ。
その答えが出ていないのに、己の行いを受容してしまっていいのか。
いいはずがない。
土台のない塔はない。今は運良く誤魔化されているだけだ。
宙に浮いている欲しいものを取り出せば、世界は法則を知覚し、塔はくずおれる。
でも——、
——私はお父さんに、何を言えばいい。
◯
夢。
それは、ドンと尻もちをついてしまうところから始まる。
痛みはないが、衝撃は確かに身体を襲う。
尻と同時に手をついて、そのときに左手の人差し指を立てていたから、その爪が割れてしまったのを覚えている。
それでも、痛みはない。
だってこれは夢だから。
『もう、やめて……っ』
目を背けるようにお母さんが、背中を向ける。
その背中に、私は飛びついた。
離れまいと、離したくないと必死に組み付く。
お母さんは体勢を崩し、足を滑らす。
私から逃れようと、お母さんが勢いよく頭を上げた。
その時、近づいていた私の額を、お母さんの頭が強かに打った。
やっぱり、痛みはない。
『カシ……。っ』
寄り添おうとする言霊を奥歯ですり潰して、お母さんは立ち上がった。
私はお母さんが、もう揺るがないのだと知った。
だから、せめてもの思いで、作ったばかりだった花腕輪をお母さんの手首に通した。
お母さんは、それを拒まなかった。
——だから、心が痛かった。
◯
エルドが素敵なのは、きっと迷いがないからだ。
自分の感情に真っ直ぐなのだ。
こうあって欲しいと修正していくカシスとは、まるで対極。
でも、それももう終わりにする。
だから——、
「お父さん」
そう呼ぶのは人生で何回目だろうか。
きっと莫大な回数に上る。
だけどこれは、その一回に入らない。
大事な最初で最後の一回目。
「私、この村に残ることにしたの」
怖気付く瞳を、それでも叱咤しお父さんに向き合う。
何度も考えた。その行為が益体のないものに腐敗するまで考えた。
だけど、無意味じゃない。
カシスの十年に意味なんてなかったなんて、言わせないし思わない。
「お母さんのことを、ずっと待ってるから」
どんな歴史があろうとも、ここが家族の居場所なのだ。
それを居場所だったなんて、振り返って語って、その度に後悔するなんて嫌だ。
その決意を、お父さんは、
「……幼稚な感情だ」
曲がらないお父さんの決意が跳ね除ける。
カシスにとって、それは最大の恐怖だ。でも、怖い恐ろしいじゃ前には進めない。
弱い心を断ち切って、迷う心に芯を通す。
「——っ、幼稚なのはお父さんの方じゃない!」
一歩。
人生で足りなかったその一歩を踏み出して、カシスは訴える。
「口を開けば、後ろ向きなことばかり! この村はダメだとか、お母さんは帰ってこないだとか、そんなことばかり!」
「心配だからだ! 村はじきに滅びる! ジュディも帰ってこない! どうしてそれが分からない!」
激発し声が大きくなるカシスを、覆い潰すようにお父さんも声を出す。
「ジュディはお前を捨てて出ていったんだ! いつまでも過去の愛を追いかけるな!」
血反吐を吐くぐらい叫んで、カシスのお母さんへの理想を引き剥がそうとする。
お父さんの言葉は、正しいのかもしれない。
とっくに枯れ果てたそれから目を背けて、過ぎた愛を掬うことに躍起になっている。カシスの様は、そんな無様に見えてしまうのかもしれない。
それでも——、
「追いかけるよ! だって私は、お母さんとお父さんの子供なんだよ!?」
カシスは、お父さんの現実を否定する。
その時やっと、ちゃんと腑に落ちた。
私はお母さんの死を認めたくなかったのではない。
——私は、お母さんからの愛を否定されたくなかったのだ。
「それが元よりなかったと言っているんだ!」
「——だったらなんで、お母さんは腕輪を受け取ってくれたの!」
お母さん出て行く前日、カシスは花を編み込んで腕輪を作った。ノンダルカス王国の銅貨にも装飾されている、オレンジ色の花を使った、お母さんによく似合う腕輪。
そのプレゼントを、お母さんは拒まなかった。
「受け取ってほしくなかった! それなら、こんなに心が痛むこともなかったのに」
夢に喰らわれた心を、カシスは捨て去りたかった。
百回も千回も、同じ夢を繰り返したくなんてなかった。
「ジュディの気まぐれだ! そこに特別な感情を見出すな!」
「——決めつけないでよ!」
夢に蝕まれる心を、お父さんが解き放そうとしてくれる。
十年前なら、それで解き放たれたのかもしれない。
だけど、十年間を消すことはできない。
十年間、カシスはあの夢を見続けてきたのだ。
「私が何百回、何千回あの夜を繰り返したのかも知らないくせに! あの日のお母さんは、私が一番理解してるんだから!」
お母さんの言葉を、行動を、様相を、視線を、会話の間を、呼吸を——温もりを、カシスは完璧に覚えている。
忘れてしまったのは、身体の痛みだけ。
——心の痛みに上書きされてしまったから。
「あの日はそうだとしても、今もそうだと……」
お父さんが苦々しげに呟く。
実際、愛が継続的である保証はない。
昨日と今日で、今日と明日で、明日と明後日で愛の総量は変動する。
でも、それは絶対じゃない。
お母さんの口からそれを聞くことはできないけれど——だからこそ、カシスは、
「それでも——それでも私はお母さんに愛してて欲しい!」
『愛してる』って聞きたい。
『愛してる』って言いたい。
だから、お母さんに帰ってきてほしい。
それから、あの太陽の下で、お母さんはカシスのことを愛していたよって、そう言ってほしい。
それまでずっと、信じてるから。
「愛に、前向こうよ」
お父さんの手を取り、カシスは膝をついて目線を合わせた。
お父さんも十年で随分と老け込んでしまった。お母さんの失踪と、病の進行と、不幸なことが続きすぎた。
だけど、この手の心強さは変わらない。
「私は、一人だときっとまた夢に囚われてしまうから、お父さんと一緒に信じていたい」
掴んだ手を、今一度強く握る。もう絶対、離したくないから。
「私は……ジュディに、愛されていると……信じてもいいのか……?」
「お母さん、お父さんのこと大好きだから、きっと嫌いになる方法なんか知らないよ」
お母さんが、どんな言葉をお父さんに投げかけたのかは分からない。たぶん語ってもくれない。
分かるのは、それがお父さんを傷つけてしまっただけ。
傷つけて、デタラメな妄信を呼び起こしてしまったのだ。
「そうだ、お父さん。今度、『禁域』に調査に行ってくれることになったの」
カシスは顔をパッと上げて、明るい話題にチェンジする。
「あの男絡みでか?」
「エルドさん、ね。……魔獣が新種だったみたいで、結界も越えちゃったしって理由で、行くことになるんだって。だからお母さんのことだけじゃないんだけど……でも、プールさんがちゃんと探してくれるって」
その報告に、もう迷いはない。
同じ方向を向いたお父さんと、同じ未来の話をしよう。
「だから、二人のおかげ——」
そう言いながらカシスはそれじゃ不十分だったと、「ううん」と継いでから、お父さんの瞳を捉えて強気に笑った。
「私が掴み取ってきたよ」
お父さんは驚いたように目を開いて、すぐその目元が柔和に緩む。
そして——、
「立派になったな」
「お父さんとお母さんの、一人娘だからね」
陽光が寄り添うように、二人の繋がれた手を満たした。
カシスはもう、強く在れる。
◯
——もう猶予が残されていないことは明白だった。
「——わがまま、言わないで!」
離れようとしないフレンを、カシスは叱る。
「わがまま言うよ! だって私はおかあさんとおとうさんの子どもなんだもん!」
涙を湛えて、フレンが目いっぱい叫んだ。
分かってる。私がそうだったから。
不安で怖くて、顔を上げていられない夜を幾千も重ねたのだから。
「私、おかあさんまで……っ」
「——フレンのお馬鹿さん」
だけど、フレンはそんな夜を積み上げなくてもいい。——明日もその明日も、笑って前を向けるように。
「私たちはずっとそばにいる。——だって、フレンを愛しているから」
「————」
「何があっても、私たちはフレンを愛しているから、何があってもそばにいる。——絶対に忘れないで」
あの日の愛を、いつまでも追いかけなくていい。
私はずっと、フレンを愛しているから。太陽よりも大きな愛で、あなたに寄り添っているから。
それをちゃんと覚えていて。
「いきなさい、フレン。——いつまでも、幸せでいてね」
フレンが走り出す。偉い子だ。
死が近づく。後悔は、ない。
最期にちゃんと、フレンに愛を伝えられたから。
「————」
『禁域』からお母さんに関係する何かは見つからなかった。
それでも、まだ信じてる。
時折、不安になることはあるけれど、私は幸せだったよって胸を張って言える。
それはきっと、お母さんが嫉妬しちゃうくらい。
——ねえ、お母さんは、幸せでしたか?
「愛してる」
どうか、フレンが愛に迷わないように。幸せだよと、誇らしく笑えるように。
——この輝かしき、太陽の下で。
カシス・ヴィヴァーチェ。
それは、眠れる『英雄』を呼び起こす、愛の調べ。




