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暁の史記  作者: 焚火卯
三章
93/124

第三十五話『カシス・ヴィヴァーチェの史記』

 その日のことは、忘れようもない。

 

「フレン! フレン……っ!」

 

 林を掻き分けて、やっと失踪した我が子を見つける。

 

 ——月光が、暁色の子を庇護するように、差し込んでいた。

 

 

 

 

 夢。

 それは、ドンと尻もちをついてしまうところから始まる。

 痛みはないが、衝撃は確かに身体を襲う。

 尻と同時に手をついて、そのときに左手の人差し指を立てていたから、その爪が割れてしまったのを覚えている。

 それでも、痛みはない。

 だってこれは夢だから。

 

『もう、やめて……っ』

 

 ——でも、心は何度も何度も痛むのだ。

 

 

 

 

 この村は、どこか変だ。

 共同体としての結びつきが強すぎるのに、反面、関係は希薄だ。

 みんなが手を繋いで輪を作っているわけではなくて、みんなが鎖で接続されているみたいだ。

 互いに無関心なのに、意識が一つだからエラーが起きている。

 なのに鎖の輪の外側から見れば、安定しているように見えるのだからタチが悪い。

 輪の内側で三角座りをし、冷たいチェインを指でなぞれば、その不気味さには一目で気づく。

 ——きっと、私以外は。

 

 愚かにも、それを自覚したのは母が失踪してからのことだった。

 母がそのことに気づかせないように輝いてくれてたからだ。

 太陽の熱が地表を照らしているうちは、アステリズムをなぞれない。

 あんなことがあっても、あんな別れがあっても、母は偉大だった。

 そんなことを思ったら、またあの夢を見てしまうのだろうけれど。

 その度に心を痛めて、母との再会に涙を流してしまうのだ。

 

「……ぁ」

 

 目を覚ますと、眦で涙が乾燥した感覚があった。

 それを親指で擦りながら、カシスは窓の外を見る。

 カシスは一通り家事を終わらせて、少し昼寝をしていた。

 ほんの一時間ばかり寝るつもりだったが、

 

「うそ……もう、こんな時間」

 

 寝る頃には天球の頂点にあった陽も、すでにだいぶ傾いて、夕方に差し掛かるほどだった。

 日没が少し早まっているとはいえ、おそらく四時間弱は寝ていただろう。

 特に用事はなかったが、この数時間は大きい。

 

「お父さんも起こしてくれればいいのに……」

 

 父親はここ一、二年で急激に体調が悪くなったが、それでも寝たきりというほどひどくもない。

 肝心の父親は、口癖のようにもう長くないなんてことを言っているけれど。

 そうして、二階にいる父親に悪態をつきながら、カシスは立ち上がる。

 

「————」

 

 窓の外は暁色の空が広がっていた。

 グラデーションのついたその空を見ると、お母さんを思い出す。

 一番、輝いていた頃のお母さんを。

 

「……ん?」

 

 外が少し、騒がしいように思えた。

 そこでカシスは行くかどうか悩む。正直、良いことが起こるとは思えない。

 ここで行かなくても、特に後悔はしないだろう。

 家にいるのが無難。そう考えながら、カシスは家を出た。

 ——もしかしたら、心のどこかで変化に飢えていたのかもしれない。

 

 小走りで小道を進む。

 こんな村だからこそ、村の空気の焦点が集まっている場所は分かりやすい。

 どこが騒がしいかなんて、嫌でも肌の下に滑り込んできた。

 

「今すぐ、ここから立ち去れ!」

 

 怒号が届いたのは、カシスが現場に到着したのと同じタイミングだった。

 しわがれた老婆の声。村長さんの声だ。

 その声の届く先を見ると、血だらけで満身創痍の男性がいた。

 意識を保つのが限界で——ちょうど今、プツリと断ち切れたのが分かった。

 村長はその男性に触れようとする。

 意図は分からない。

 だけど、その瞬間、とてつもない嫌悪感が走った。

 

「——触らないでください!!」

 

 走って村長と男性の間に割り込む。

 腕を大きく広げて、庇うような形だ。

 

「……カシスか」

 

 村長は光のない瞳でカシスを見て、名を呼んだ。

 驚きはあった。まさか名を知ってくれているとは。

 ——私は村長の名前すら知らないのに。

 なら、カシスの方が、この点では不誠実なのではないか。

 もしかしたら、本当は——、

 

「なんじゃ、知人か?」

 

 手を引っ込めた村長が、訝しげに聞いてくる。

 返答を間違えたら、詰む気がするというのは、考えすぎなのだということは分かっている。

 だけど、まだ、怖気があった。

 だから——、


「そういうわけじゃ……ないです。全く知らない人です」

 

「ならば、何ゆえ庇う」

 

「庇う……というより、触ったら危険だと思って……。ほら、血って触ったら感染症とかのリスクもありますし、それが流行ったりしたら、村とか簡単に滅んじゃったりするので……」

 

「——滅びか」

 

 村長は、平坦な声でカシスの言葉の一部分を繰り返した。

 そして、

 

「『隣人』の加護がある限り、ワシらにそのようなことはあるまいよ」

 

「リンジンの加護……?」

 

「そやつが負けたモノだ」

 

 そう言って村長は男を顎で示す。

 リンジンとは——隣人の響きだったが、それで良いのだろうか。

 

「すなわち、そやつはもう助からんじゃろう。『隣人』の加護は、必ず災いを跳ね除ける。——引き返せばまだ目はあっただろうに、愚かよの」

 

 淡々と、分からないことを言い連ねて、村長は男を見捨てようとする。

 周りを見ても、誰も彼を助けようとはしない。

 さっき名前を呼ばれたとき、もしかしたら、本当は——カシスが歩み寄れば、ちゃんと寄り添い合えるのかもしれないと思ったんだ。

 なのに、

 

「この人は、隣人の加護なんていうわけの分からないものに殺されるんですか!?」

 

「——それが、天命」

 

 何かの大きな力を盲信して、救えるものを見捨て去る。

 そんな村長に、村民に、嫌気がさした。

 ——それに従ったら、私は私ではなくなってしまう。


「だったら、私が助けますよ!」

 

 この一言が口に出せた。きっと、何があっても後悔しない——。

 

「生還させられるなら、してみるが良い。——『隣人』の加護に抗えたのなら、後は好きにしろ。無論、災いに慈悲など与えられんじゃろうがな」

 

 村長はそう言い切ると、背を向けて立ち去る。それを合図に、オーディエンスも続々と家に帰っていった。

 心臓を掴まれるような緊張から解放され、へたり込みそうになるのをグッと堪える。

 まだ、これからやることは多い。

 カシスは、男を運んできた馬を誘導し、自宅に向かわせる。

 馬を繰ったことはないが、とても優秀な馬だったようで、特に何もせずとも安定した走りを見せてくれた。

 夕空の下、カシスはしばし馬車に揺られる。

 

 隣人の加護なんてわけの分からないものは初めて聞いたが、周囲の反応を見るに、周知の事実のようだった。

 この村で知らないのはカシスだけ。——理由は、母親にあるように思える。

 母が、おそらくカシスに伝えることを止めていたのだ。

 

「————」

 

 そのときふと、頭によぎった。

 隣人の加護は全ての災いを跳ね除ける。

 なら、災いではなく祝福だとしたら。

 なら、滅びではなく救済だとしたら。

 なら、悪党ではなく英雄だとしたら。

 つまり、隣人の視点や解釈で加護の対象になり得なかったらどうなる。

 そんな悲観は持ち合わせて当然のものだろう。

 みんなには、それがない。

 

 ——母が何故、カシスにそれを教えなかったのかが分かった。

 きっと、そんなわけの分からないものに、支配されてほしくなかったのだ。

 

「お母さん……」

 

 カシスのお母さんは——ジュディ・ヴィヴァーチェはすごい人だ。

 強くて、カッコよくて、偉大な人。

 

 ——ねえ、今どこで、何をしているの?

 

 

 

 夢。

 それは、ドンと尻もちをついてしまうところから始まる。

 痛みはないが、衝撃は確かに身体を襲う。

 尻と同時に手をついて、そのときに左手の人差し指を立てていたから、その爪が割れてしまったのを覚えている。

 それでも、痛みはない。

 だってこれは夢だから。

 

『もう、やめて……っ』

 

 目を背けるようにお母さんが、背中を向ける。

 その背中に、私は飛びついた。

 離れまいと、離したくないと必死に組み付く。

 お母さんは体勢を崩し、足を滑らす。

 私から流れようと、お母さんが勢いよく頭を上げた。

 その時、近づいていた私の額を、お母さんの頭が強かに打った。

 やっぱり、痛みはない。

 

 ——でも、心は何度も何度も痛むのだ。

 

 

 

 

「エルドさん、無事に回復していって良かった……」 

 

 徹夜で潤む瞳を閉じて、カシスは小さく息を吐く。

 カシスにそれなりに医学薬学の知識があって助かった。

 父の実家が主に薬剤関係で財を成したおかげである。

 やはり子にとって親の影響というのは色濃いものだ。

 母にも父にも感謝しなくてはならない。

 隣人の加護などというわけの分からないものを否定できたから。

 

「……罪悪感はあるけど」

 

 真っ直ぐエルドから感謝を伝えられるたびに、僅かに心が痛む。

 自分はそんなに高尚な人ではない。

 助けたのだって、本当は自分を守るため。

 黒い混合物が含まれたそんな善意。

 救世主だなんて、間違っても嘯けない。

 

「——そんなに卑屈になる必要もないとは思いますけどねー」

 

 厩舎でエルドの馬の世話をしていると、後ろから声をかけられる。

 入り口に、軍服の袖を折りラフに着こなした人がいた。

 

「プールです。さっき振りですね」

 

 プール・アダージョ。この村を防衛する軍の、隊長をしている人だ。

 

「……エルドさんとは話せましたか?」

 

「はい、おかげさまで。正直、聞き漏らしていたら危ういレベルの話でした」

 

「それなら、甲斐はありましたね……」

 

 カシスのおかげと言ってくれても、誉れを喜ぶことはできない。

 いくら、卑屈になる必要はないと言ってくれても。

 そんな態度を出していると、プールは話題を変えるように、首を回しながらゆっくりと近づいてくる。

 

「……それにしても随分と立派な厩舎ですね」

 

「父が商家の人間なので。とはいえ、もう一切使っていませんが」

 

「ということは、体調はお変わりなくですか」

 

「むしろ、悪化しているようで……」

 

 日に日に衰弱していく父を、カシスは見ていられない。

 

「僕としても、どーにかしたいところではあるのですが、医師を呼ぼうにもこの村じゃどーも難しい」

 

「かといって、父は村を離れたがらない。……いいんです。私も父も、これで」

 

 諦観のようなもので、きっと変わらないであろう父を、変えるために足掻けるほど、カシスは強くなかった。

 

「……いざとなればいつでも頼ってください。まーあ、僕もいつまでここにいれるか分かりませんが」

 

「異動されるんですか?」

 

 軍のことは詳しくはないが、武勲を立てたりなどすれば、それなりに地位が上がったりするだろう。

 プールならば、あり得る話だ。

 

「部隊の再編成が起きるかも、ですかね。でーも起きたとして、この村の面子が変わるというのは、あまり考えにくいですよ。ここは、ほら、対魔獣の訓練を受けていないと防衛に携われないので」

 

 魔獣と人とでは戦いの勝手も違う。

 凄腕の猟人が戦争で武功を残せるかと言われれば、難しいと言わざるを得ない。

 逆もまた同じことだ。

 

「つまりは、杞憂で終わる可能性が高いってことです。たーだ、あなたにはしっかり伝えておかなければならないことがある」

 

「————」

 

「僕がここを離れれば、あなたのお母様の捜索は打ち切られるでしょう」

 

 タイムリミットが近づいているかもしれない。

 そうでなくても、一生母親を探し続けることなどできない。

 

「分かって……ます。もう十年ですから……」

 

「だから、十分だと?」

 

 心では分かっている。母の捜索にずっと手を煩わせ続けられない。

 だけど、カシスは頷けなかった。

 

「——今度、『禁域』に調査に行けそうです」

 

「え……?」

 

 子供じみた自儘を手放せないでいると、突然、思いがけないことが舞い込んでくる。

 

「どうして、そんな突然……。『禁域』には、入れないって……」

 

「その通りです。『禁域』には踏み込めない。——ブラギ村の反発が大きかったからです」

 

 母の行方は、分からない。

 ただ、長い調査の結果、おそらく『禁域』に踏み込んだのではないかという仮説が有力だった。

 しかし、ブラギ村の人々が『禁域』への立ち入りを、強く禁じていたために、調査隊を送れなかった。

 最初は危険だから許していなかったのだと、単純に飲み込んでいた。

 しかし、今なら分かる。

 それはおそらく——、

 

「隣人の加護ですか?」

 

「あーらら、知っちゃいましたか……」

 

 確信めいた問いかけをすると、プールは観念したように頭を掻いた。

 

「そーです。『禁域』に立ち入れば、『隣人』の反発を招くらしいですよ」

 

「そんなもの、本当にあるんでしょうか……?」

 

 聞いたのがここ数日の話だからというのもあるが、正直なところ全く信じることができない。

 事実、エルドは生還したではないか。

 

「ない、と信じるのは可能ですが、証明することは僕もできない。だけど、あるものとしてこの村は何百年も続いてきた。まやかしの願いも、何百年の歴史になれば真実に変わる。そう、僕は思います」

 

「時に、人の願いの力は何かに変質するってことですか?」

 

「そんな感じです。特にこの村は『禁域』の影響で魔力濃度が高い。——魔力は常識の外側で蠢くエネルギーですから、摩訶不思議なことは環境的に起きやすい。まーあ、そんな説も聞いたことがありますね」

 

 しれっと開示してくるが、そんなのも初耳だ。

 カシスは村のことをこんなにも知らなかったのか。

 

「そんなところで話を戻しますが、『禁域』に赴けるようになるためには『隣人』の反感を買うと恐れる、ブラギ村の人々の説得が必要です」


「それが成せそうということですよね? どうしてなのでしょうか?」

 

「エルドさんです」

 

 エルドを運んでいた馬の鼻筋を撫でながら、プールがそう告げる。

 

「魔獣が結界を越えて襲ってきた。正直、これだけで決め打ちになるでしょう」

 

「でも、それが加護だって言われたら……」

 

「それはないです。——だって、エルドさんは助かったじゃないですか」

 

「……ぁ」

 

 加護は必ず災いを跳ね除ける。なら、それに抗えたのであれば、それは加護ではない。

 カシスが加護を信じているか信じていないかは、この際どうでもいい。

 ——ブラギ村のみんなには、その論理が必ず通用する。

 すなわち、

 

「ジュディさんの捜索に行けますよ。——紛れもないあなたの、功績で」

 

 その瞬間、カシスは涙が溢れそうになる。

 だけど、堪えた。

 ——違う、流せなかったのだ。

 

「本当にありがとうございます。父にも報告します」

 

 ずっと望んでいたはずだ。母の手がかりを得る機会を。

 いざ光明が見えたとき、カシスは自分で驚いた。

 そして納得した。

 ——自分の不甲斐なさに。

 

 母と向き合うのに、父を無くしてはできない。

 母という理想に対して、逆側に伸びていく線分——現実の父と。

 弱い心、怖じける心、ぐずつく心。

 自分は母をどう思いたいのだ。父とはどう思い合いたいのだ。

 

 その答えが出ていないのに、己の行いを受容してしまっていいのか。

 いいはずがない。

 土台のない塔はない。今は運良く誤魔化されているだけだ。

 宙に浮いている欲しいものを取り出せば、世界は法則を知覚し、塔はくずおれる。

 でも——、

 

 ——私はお父さんに、何を言えばいい。

 

 

 

 

 夢。

 それは、ドンと尻もちをついてしまうところから始まる。

 痛みはないが、衝撃は確かに身体を襲う。

 尻と同時に手をついて、そのときに左手の人差し指を立てていたから、その爪が割れてしまったのを覚えている。

 それでも、痛みはない。

 だってこれは夢だから。

 

『もう、やめて……っ』

 

 目を背けるようにお母さんが、背中を向ける。

 その背中に、私は飛びついた。

 離れまいと、離したくないと必死に組み付く。

 お母さんは体勢を崩し、足を滑らす。

 私から逃れようと、お母さんが勢いよく頭を上げた。

 その時、近づいていた私の額を、お母さんの頭が強かに打った。

 やっぱり、痛みはない。

 

『カシ……。っ』

 

 寄り添おうとする言霊を奥歯ですり潰して、お母さんは立ち上がった。

 私はお母さんが、もう揺るがないのだと知った。

 だから、せめてもの思いで、作ったばかりだった花腕輪をお母さんの手首に通した。

 お母さんは、それを拒まなかった。

 

 ——だから、心が痛かった。

 

 

 

 

 エルドが素敵なのは、きっと迷いがないからだ。

 自分の感情に真っ直ぐなのだ。

 こうあって欲しいと修正していくカシスとは、まるで対極。

 でも、それももう終わりにする。

 だから——、

 

「お父さん」

 

 そう呼ぶのは人生で何回目だろうか。

 きっと莫大な回数に上る。

 だけどこれは、その一回に入らない。

 大事な最初で最後の一回目。

 

「私、この村に残ることにしたの」

 

 怖気付く瞳を、それでも叱咤しお父さんに向き合う。

 何度も考えた。その行為が益体のないものに腐敗するまで考えた。

 だけど、無意味じゃない。

 カシスの十年に意味なんてなかったなんて、言わせないし思わない。

 

「お母さんのことを、ずっと待ってるから」

 

 どんな歴史があろうとも、ここが家族の居場所なのだ。

 それを居場所だったなんて、振り返って語って、その度に後悔するなんて嫌だ。

 その決意を、お父さんは、

 

「……幼稚な感情だ」

 

 曲がらないお父さんの決意が跳ね除ける。

 カシスにとって、それは最大の恐怖だ。でも、怖い恐ろしいじゃ前には進めない。

 弱い心を断ち切って、迷う心に芯を通す。

 

「——っ、幼稚なのはお父さんの方じゃない!」

 

 一歩。

 人生で足りなかったその一歩を踏み出して、カシスは訴える。

 

「口を開けば、後ろ向きなことばかり! この村はダメだとか、お母さんは帰ってこないだとか、そんなことばかり!」

 

「心配だからだ! 村はじきに滅びる! ジュディも帰ってこない! どうしてそれが分からない!」

 

 激発し声が大きくなるカシスを、覆い潰すようにお父さんも声を出す。

 

「ジュディはお前を捨てて出ていったんだ! いつまでも過去の愛を追いかけるな!」

 

 血反吐を吐くぐらい叫んで、カシスのお母さんへの理想を引き剥がそうとする。

 お父さんの言葉は、正しいのかもしれない。

 とっくに枯れ果てたそれから目を背けて、過ぎた愛を掬うことに躍起になっている。カシスの様は、そんな無様に見えてしまうのかもしれない。

 それでも——、

 

「追いかけるよ! だって私は、お母さんとお父さんの子供なんだよ!?」

 

 カシスは、お父さんの現実を否定する。

 その時やっと、ちゃんと腑に落ちた。

 

 私はお母さんの死を認めたくなかったのではない。

 ——私は、お母さんからの愛を否定されたくなかったのだ。

 

「それが元よりなかったと言っているんだ!」

 

「——だったらなんで、お母さんは腕輪を受け取ってくれたの!」

 

 お母さん出て行く前日、カシスは花を編み込んで腕輪を作った。ノンダルカス王国の銅貨にも装飾されている、オレンジ色の花を使った、お母さんによく似合う腕輪。

 そのプレゼントを、お母さんは拒まなかった。

 

「受け取ってほしくなかった! それなら、こんなに心が痛むこともなかったのに」

 

 夢に喰らわれた心を、カシスは捨て去りたかった。

 百回も千回も、同じ夢を繰り返したくなんてなかった。

 

「ジュディの気まぐれだ! そこに特別な感情を見出すな!」

 

「——決めつけないでよ!」

 

 夢に蝕まれる心を、お父さんが解き放そうとしてくれる。

 十年前なら、それで解き放たれたのかもしれない。

 だけど、十年間を消すことはできない。

 十年間、カシスはあの夢を見続けてきたのだ。

 

「私が何百回、何千回あの夜を繰り返したのかも知らないくせに! あの日のお母さんは、私が一番理解してるんだから!」

 

 お母さんの言葉を、行動を、様相を、視線を、会話の間を、呼吸を——温もりを、カシスは完璧に覚えている。

 忘れてしまったのは、身体の痛みだけ。

 ——心の痛みに上書きされてしまったから。

 

「あの日はそうだとしても、今もそうだと……」

 

 お父さんが苦々しげに呟く。

 実際、愛が継続的である保証はない。

 昨日と今日で、今日と明日で、明日と明後日で愛の総量は変動する。

 でも、それは絶対じゃない。

 お母さんの口からそれを聞くことはできないけれど——だからこそ、カシスは、

 

「それでも——それでも私はお母さんに愛してて欲しい!」

 

 『愛してる』って聞きたい。

 『愛してる』って言いたい。

 だから、お母さんに帰ってきてほしい。

 

 それから、あの太陽の下で、お母さんはカシスのことを愛していたよって、そう言ってほしい。

 それまでずっと、信じてるから。

 

「愛に、前向こうよ」

 

 お父さんの手を取り、カシスは膝をついて目線を合わせた。

 お父さんも十年で随分と老け込んでしまった。お母さんの失踪と、病の進行と、不幸なことが続きすぎた。

 だけど、この手の心強さは変わらない。

 

「私は、一人だときっとまた夢に囚われてしまうから、お父さんと一緒に信じていたい」

 

 掴んだ手を、今一度強く握る。もう絶対、離したくないから。

 

「私は……ジュディに、愛されていると……信じてもいいのか……?」

 

「お母さん、お父さんのこと大好きだから、きっと嫌いになる方法なんか知らないよ」

 

 お母さんが、どんな言葉をお父さんに投げかけたのかは分からない。たぶん語ってもくれない。

 分かるのは、それがお父さんを傷つけてしまっただけ。

 傷つけて、デタラメな妄信を呼び起こしてしまったのだ。

 

「そうだ、お父さん。今度、『禁域』に調査に行ってくれることになったの」

 

 カシスは顔をパッと上げて、明るい話題にチェンジする。

 

「あの男絡みでか?」

 

「エルドさん、ね。……魔獣が新種だったみたいで、結界も越えちゃったしって理由で、行くことになるんだって。だからお母さんのことだけじゃないんだけど……でも、プールさんがちゃんと探してくれるって」

 

 その報告に、もう迷いはない。

 同じ方向を向いたお父さんと、同じ未来の話をしよう。

 

「だから、二人のおかげ——」

 

 そう言いながらカシスはそれじゃ不十分だったと、「ううん」と継いでから、お父さんの瞳を捉えて強気に笑った。

 

「私が掴み取ってきたよ」

 

 お父さんは驚いたように目を開いて、すぐその目元が柔和に緩む。

 そして——、

 

「立派になったな」

 

「お父さんとお母さんの、一人娘だからね」

 

 陽光が寄り添うように、二人の繋がれた手を満たした。

 カシスはもう、強く在れる。

 

 

 

 

 ——もう猶予が残されていないことは明白だった。

 

「——わがまま、言わないで!」

 

 離れようとしないフレンを、カシスは叱る。

 

「わがまま言うよ! だって私はおかあさんとおとうさんの子どもなんだもん!」

 

 涙を湛えて、フレンが目いっぱい叫んだ。

 分かってる。私がそうだったから。

 不安で怖くて、顔を上げていられない夜を幾千も重ねたのだから。

 

「私、おかあさんまで……っ」


「——フレンのお馬鹿さん」


 だけど、フレンはそんな夜を積み上げなくてもいい。——明日もその明日も、笑って前を向けるように。


「私たちはずっとそばにいる。——だって、フレンを愛しているから」


「————」


「何があっても、私たちはフレンを愛しているから、何があってもそばにいる。——絶対に忘れないで」


 あの日の愛を、いつまでも追いかけなくていい。

 私はずっと、フレンを愛しているから。太陽よりも大きな愛で、あなたに寄り添っているから。

 それをちゃんと覚えていて。

 

「いきなさい、フレン。——いつまでも、幸せでいてね」

 

 フレンが走り出す。偉い子だ。

 死が近づく。後悔は、ない。

 最期にちゃんと、フレンに愛を伝えられたから。

 

「————」

 

 『禁域』からお母さんに関係する何かは見つからなかった。

 それでも、まだ信じてる。

 時折、不安になることはあるけれど、私は幸せだったよって胸を張って言える。

 それはきっと、お母さんが嫉妬しちゃうくらい。

 ——ねえ、お母さんは、幸せでしたか?

 

 

「愛してる」

 

 

 どうか、フレンが愛に迷わないように。幸せだよと、誇らしく笑えるように。

 ——この輝かしき、太陽の下で。

 

 カシス・ヴィヴァーチェ。

 それは、眠れる『英雄』を呼び起こす、愛の調べ。

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