第三十三話『エルド・ヴィヴァーチェの史記』
その日のことは、忘れようもない。
「よかった。……本当に、よかった……」
林を潜って、やっと行方のしれなくなった我が子に出会う。
—一輪の花が、暁色の子に寄り添うように、咲き誇っていた。
◯
自分はここで死ぬかもしれない。
カラカラと荷車の車輪の音が響き渡る。
虚しい。
死ぬのは怖い。
だけど、誰もそばにいてくれないことが、何よりも苦しかった。
「……お前は、いてくれたな」
せめてという気持ちで、御者台に横たわりながら手綱を握る。馬からの返答はない。
それに乾いた笑いが込み上げる。
しかし彼は、しっかりと目的地に向かってくれている。
——ブラギ村。
そこに行けば、手当てが受けられる。
そう願いながら、エルド・アレグレットは瞳を閉じた。
何時間、揺られただろうか。
永遠に感じられた道程も、気がつけば終わりが見えてきた。
空はすでに赤みがかって、次第に黒くなっていくだろう。
だけど、まだ命は潰えていない。
人間というのは、存外にもしぶといものだ。
「ブラギ……村……」
変哲のない村だ。
だが、裏に禁域と呼ばれる未開地が広がっている。
エルドは行商をしているので、地理にはそれなりに詳しい。
とはいえ訪れるのは初めてだ。
そして今まさに、最初で最後になろうとしているのだから笑えない。
「————」
助けを呼ぶ気力もないので、道をただカラカラと進んでいる。
静かな村だ。
——異質な静謐さだ。
隔絶されている。否、隔絶しているような——、
「——誰じゃ」
腰を曲げた老婆が、道に出てくる。
白髪と対照的な黒い眼が、瞬きもせず一心にエルドを見つめる。
「——誰じゃ」
垂れ下がった頬がへにゃへにゃと動き、しかし、力強い声でもう一度問われた。
それがまた動きそうなところで——、
「行商人です……。どうか……手当てを……」
エルドは消えそうな声で、老婆に助けを求める。
しかし、
「立ち去れ」
「……ぇ」
「今すぐ、ここから立ち去れ!」
唾を飛ばし、目を見開きながら老婆は叫ぶ。
一縷の望みが絶たれた。
その事実で、消沈する。もう、目覚めることはないと思いながら——。
「————」
目が覚めて一番に、エルドはここがあの世でないことを確信した。
確信して——、
「——気がつきましたか?」
女神がいると幻視したせいで、その確信が揺らぐ。
ベールのような、淡い桃色がかった白い髪を淑やかに肩から流し、まだ幼さを残す端正な顔立ちは、天の寵愛を一身に受けているとしか思えない。
まさしく彼女は、救世主だった。
「あなたは……、っ」
「ああ、動いてはダメです。まだ傷も塞がってないんですから」
身体を起こそうとすると、全身がひどく痛む。
見れば、包帯でぐるぐる巻きだ。
それもそのはず——、
「いったい、何があったんですか? 野盗に襲われたにしては、少し傷が……」
「——魔獣です」
心配そうに包帯の上から傷をさする彼女に、エルドはそう答える。
「引っ掻き傷なんかは、そのせいで。情けないですよね。一匹倒すのにこんなに、手こずって……」
苦笑しながら、経験を振り返る。
エルドにとっては、まさに命懸けの死闘だったのだが、闘っていた魔獣が魔獣だ。
体長一メートル半程度の、コンドルのような魔獣。
はたから見れば、滑稽だっただろう。
「そんなに、卑下する必要ないと思います」
しかし、彼女は包帯に巻かれた手を取り、訴えてくる。
「魔獣は訓練していなければ、軍人さんでも負けてしまうと聞きます。それでも闘って勝ったのは、その、すごいと思います! ——私、あなたが生きていてくれていて嬉しいです」
この人は、なんという人だ。
命だけでなく、心までも救ってくれるというのか。
自分はこんなに幸せで良いのだろうか。
「——あ、もうこんな時間。私、少しお父さんのところに行ってきますね」
離された手が、名残惜しそうに寝台へと落ちる。
彼女が、行ってしまう。
そう思うと、思わず——、
「あの……っ!」
「はい?」
止めたはいいものの、二の句が継げない。
なにか、なにかないかと唇を引き締めて、
「お名前! 聞……いてもよろしいでしょうか……!」
咄嗟に言ったせいで、若干の空回り。
それを彼女は「ふふ」と微かに笑って、
「カシス・ヴィヴァーチェです。よろしくお願いします」
彼女はお辞儀をして、顔を上げる。目が合った。
なので、あたふたして、
「エルドです。エルド・アレグレット。こちらこそ、よろしくお願いします」
痛みも忘れて、エルドは上体を少し起こして首を動かす。
すると、また目が合って。
二人で一緒に、笑い合った。
◯
三日後、エルドのもとに訪問者が来た。
痛みはそれなりに治まり、特に億劫というほどでもなかった。
カシスくれた薬草が良かったのか、なんにせよ後で返さなくてはならない。
ともあれ、
「——初めまして。僕はプール・アダージョと言います」
深い藍色の髪に軽くパーマがかかり、中性的な顔立ちからはあまり威厳を感じられない。
しかし——、
「そこまで、かたーくならなくても良いですって。なにもしょっぴこうって来たわけじゃーない。——悪事に心当たりがあるのなら、別ですけど」
すっと目が細められて、エルドはさらに緊張する。
制服の袖を巻きラフな格好をしているが、おそらくブラギ村に駐屯している軍の隊長。
実力は折り紙つきだろう。
だが、それを見ることはないだろう。何故なら、自分は——、
「俺は真っ当に商売をしてきました。それこそ、悪事を働く暇なんてないほどに」
一行商人として、それなりに矜持もある。
それを、しっかりと反論できないのであれば、魔獣に殺された方がマシだ。
「こーれは……僕があまりにも失礼でしたね。謝らせてください。エルドさん」
名前を呼ばれて、エルドは驚く。
名乗ってはない。ということは、
「調べさせてもらいました。エルド・アレグレットさん。都市アルマンド出身で、そこを拠点に活動していらっしゃる。合ってますかね」
「はい、合ってます。すごいですね、たった二日、三日でそんなに……」
「まーあ、仕事なので。——一応、通報が入ってますしね」
通報というのに驚きはなかった。
勝手に村に入って、それも血まみれで、誰しもが厄介事を予感してしまう。
謝れることなら、村長のところに行って謝りたいものだ。
「——それは、やめておいた方がいい」
エルドの表情を読んで、プールはすぐさま釘を刺す。
「まーあ、余計なトラブルは僕も誰もごめんってことですよ。——あなたは何もしてはいけない。何もしなければ、相手も何もしてこないのだから」
「———?」
「僕の座右の銘的なやつです。距離感は大事ですよーみたいな感じですよ」
「そ、そうですね……」
距離感を正しく測るのは、確かに大切なことだ。
口調に少し違和感があったが。
一応、忠告された感じなので、従っておこうとは思った。
「それで、俺のところへ来たのは、通報があって事情聴取するためですか?」
「そーです。特に、魔獣に襲われた話なんかは、詳細に話してもらいたい」
プールは自分の腿に腕を乗せて、前のめりに聞いてくる。
魔獣に襲われたことはカシスにしか話していないので、彼女があらかじめプールに説明していてくれたのだろう。
プールをここに通してくる前にも、身体の傷や体調のことを気にかけてくれた。本当に、感謝のしようがない。
「魔獣は、大型の鳥類でした」
「体長は?」
「一メートル半ぐらいです。あと、とても賢かったです。真っ先に俺の医療箱を持ち去り、空中から襲いかかることで、俺の射程に入らないようにしていました」
プールはスラスラと紙に特徴を記入していく。
そして、さらに、
「頭の大きさは? 爪の形は? 瞳の色は? 鳴き声は? 体毛の色は? 嘴の長さは?」
プールが矢継ぎ早に質問してくる。
それにできるだけ、正確に答えた。
そして、最後に、
「その魔獣は禁域から飛んできた。間違いないですね?」
「はい、南の方から一直線に飛んできました」
「なーるほどです。大体わかりました。これはちゃんと上に報告しなければダメなやつですね」
紙を片付けながら、プールがぼやく。
「死骸は……流石に食い荒らされてるかぁ……」
「もっと早く報告に行ければ良かったんですけど……」
全身傷だらけで、報告に行くどころか来てもらう始末だ。
「いーえいえ、こうして生還してもらっただけでもありがたいです」
「いや俺は死に物狂いだっただけで。カシスさんがいなければ、ぷつりと死んでしまっていたと思います」
「そーみたいですね。あなたは、本当に幸運だ」
心から祝福するみたいに、プールがそう言ってくれた。
幸運という言葉が、まるで余りにも得難いものであるかのように。
「これから、どうなるんでしょうか?」
「とりあえず総帥に報告して、返事が来るまでに結界の見回り。街道の警備や近隣の村への注意喚起など色々やる感じですかね」
指折りながら仕事が次々と並べられる。
それに少し申し訳ない気持ちになっていると、プールは「ただ……」と付け加えて、
「今、すこーし上がごたついてるんですよね」
「……総帥が罷免されるかもってやつですか?」
「そーそー、そーです。流石、行商人ですね。耳が早い」
都市の方では、その話題がここ一月ぐらい、たまに上ってくる。
「どうして、そんな話に?」
軍人であるプールなら、噂ではなく事実を得られるだろう。
たしか総帥の罷免には、軍人と騎士の過半数が賛成しなければならないはずだ。
そう簡単に満たせるものではない。
「さあ? 僕は今のままで良いって思ってますし、基本的に無関心・不干渉を貫いてますって言いましたので」
このように無関心の軍人や騎士も少なくないだろう。
——おそらく罷免とやらは成されず、次第に風化していくはずだ。
そんな一時のことのために、この村に起きているかもしれない危機が見逃されでもしたら大変だ。
「……言った?」
「ちょーど、あなたと入れ違いぐらいで来てたんですよ。それを起こした……たしか」
一拍、呼吸をおいて、彼は言った。
「——シュネル・ハークラマー」
名前を聞かされたところで、どこの誰かは分からない。
大層な夢想家もいたもんだ。
「すごーく若かったって印象でしたね。——まー、何はともあれです」
プールは立ち上がり首を掻く。
「お話はこの辺で。ありがとうございました」
「こちらこそ、ご足労いただき、申し訳ないです」
「気にしないでください。仕事ですから」
そのまま、プールは振り返り退出しようとする。
その前に、
「身体、できるだけ早く——早く、治してくださいね」
と、最後にそれだけを付け加えて、今度こそ出て行ったのだった。
◯
完治にはまだ遠いが、痛みが引いて歩けるぐらいに回復したのは、プールと話した次の日だった。
まだ包帯でぐるぐる巻きだが、もう大丈夫と呼べるぐらいだ。
「お身体、本当に大丈夫なんですか?」
指先まで包帯に巻かれた手を掴んで、カシスは憂い目で尋ねてくる。
エルドは掴まれているのと、反対の腕を持ち上げると、
「この通りです。カシスさんのおかげで、全快ですよ」
虚仮の空元気ではなく、本当に回復したのだと示す。
「それなら、一つだけお願い聞いてもらってもいいですか?」
「お願い?」
申し訳なさそうに聞いてくるカシスだが、とんでもない。
むしろ受けた恩義に比べれば、こんなものいくらでもという気持ちだ。
どんな無茶振りでも構わないと思いながら——、
「お父さん話をしたいと言っているので、会ってくれますか?」
案内されたのは、二階の一室だった。
たびたび音がするので存在は知っていたが、実際に踏み込むのは初めてである。
それもカシスの父親に呼ばれるというのだ。
緊張が走る。
エルドは扉をノックして、
「入れ」
「は、はい」
こんなに緊張するのは、商会長と対面する時か、なんならそれ以上だ。
エルドは丁寧に部屋に入った。
「————」
カシスと同じ白髪の、壮年だった。
さっきの厳かな声とは裏腹に、顔つきはカシス同様、柔和な印象がある。
しかし、それ以上に消え入りそうな雰囲気があった。
病床。
まさしく、寝台で上体を起こす形で、彼はエルドと対面していた。
「君、名前は」
不躾に観察していると、名を問われる。
「え、エルド・アレグレットです。アルマンドから来ました。行商の、一環で……」
「アルマンドか……。ということは、マズルカのところか?」
マズルカとは、都市アルマンドにある一番大きな商会で長をしている方だ。
商人で、彼にお世話になった人間は百や二百では収まらない。
「そうです。会長をご存知ということは、もしかして、昔商いを……?」
「ああ。マズルカとはよく酒を酌み交わしたし、よく殴り合った」
バイオレンスな思い出話が飛んできて、エルドは驚く。
だが、殴り合ったと聞いて、エルドは引っかかりを覚えた。
「——もしや、あなたは、コレンテ・クーラント氏でしょうか」
「いかにも」
クーラントとは、都市クーラントの名前の由来にもなった、大商家だ。
まさかこんな勉強の村で見えることになるとは思っていなかった。
しかし、何故ここで明かしたのだろうか。
「……俺は何も知りませんよ」
一番嫌な可能性を想像して、先んじて潰しておく。
しかし、
「何を想像している……」
コレンテはその態度に、ただただ呆れていた。
「そも、私はクーラント家の家督も継いどらん。商いもこの身体じゃできんし、マズルカに特別恨みがあるわけでもない」
エルドの嫌な想像がことごとく否定される。
「——むしろ、君とマズルカに頼みがあるのだ」
そう言い切って、コレンテは咳き込む。
体調が悪そうだ。
しかし何もできず立ち尽くしていると、コレンテはさらに続けた。
「娘を——カシスを、この村から連れ出してほしい」
あまりにも想定外の頼みで、呆然としてしまう。
「不躾な頼みなのは分かっておる。だが、頼む。金ならある」
「そ、それ、カシスさんは……」
「了承済みだ」
澱みなくそう返されるが、明らかに了承など得ていない。
コレンテの独断だ。
カシスの望みでないのなら、それは簡単に請け負って良いものではないだろう。
「今、マズルカに一筆書く」
「——あの! どうして、彼女を連れ出してほしいのですか」
理由。理由がいる。
なければ、できない。
「娘はこの村にいてはいけないのだ。この村はダメだ。あいつがいて良い場所じゃない。だから、連れ出してほしいのだ」
「そんなのでは……」
「——この村は共同体としての結びつきが強すぎる」
それは問いかけの直接的な答えではなかった。
それでも、その言葉の強さが、エルドを黙らせた。
「他者を拒み、内輪で世界が完結している。だから、妻が——ジュディ・ヴィヴァーチェが亡き今、私と娘は部外者だ」
彼が、妻の名前をフルネームで言い換えたのは、婿入りしたことを強調するためだ。
「当時の私は愚かだった。この村をクーラントの経済圏に引き込もうと……先人の言いつけを無視して」
「後悔……しているからなのですか」
「そうだ。だが、妻と出会ったことがではない。——妻を連れ出せなかったことだ」
後悔を滲ませ、コレンテは布団のシーツを握りしめる。
「だが、娘は連れ出せる。あいつの縛るところは、この村の共同体から起因しているものではないからだ」
「————」
「頼む。頼む……っ」
擦り潰れそうな声で、コレンテは願い続ける。
カシスを連れ出すこと、ただそれだけを。
「どうして、俺なのでしょうか」
「君がここに来たからだ」
「————」
「ここには誰も来ない。来れない。しかし、君はやって来れた。だから、なのだ」
たったそれだけのことで、あろうことかコレンテはエルドを信頼している。
盲信、している。
「俺はそんな大層な人間では……」
「——只人が運命を捻じ曲げてはいけぬ道理があるか? 君は今、選ばれているのだ」
「誰に……」
「世界に」
何故、この人はこんなにも必死なのだろうか。
何が、彼を突き動かしているのだろうか。
「俺には、分かりません……」
「分からなくて良い。私はキチガイで、君は真っ当なのだから。いずれ狂気は、この村で朽ち果てる。村という狂気は朽ち果てる。だから、君にしか頼めないのだ」
彼は何か大きなものを背負おうとしている。
何かを一人で抱え込もうとしている。
それだけは事実だった。
だから、
「カシスさんと話してきます」
「やめろ」
「あの人がそれを選べば、俺は喜んで引き受けます」
「やめてくれ」
「ちゃんと、三人で……いや、あなたとカシスさん二人でも、話し合いましょう。きっとそうしたほうがいい」
「やめろと言っているだろう!!」
コレンテ激発し、そして、大きく咳き込む。
それからそのままの勢いで、
「この通り、私はもう長くない。私がいなくなれば、誰も娘を守ってやれない」
失うことの恐怖をコレンテは感じていた。
咳き込んで、せき切って、彼は必死だ。
今、カシスの気持ちがわかった気がする。
きっとコレンテは、カシスが連れ出されるという願いが果たされれば、すぐに命が潰えてしまう。
ジュディという女性——すなわち、彼の妻でカシスの母である、彼女がどういう事になったのかは分からない。
だが推察するに、亡くなったのではなく失踪した、あるいはそれに近い状態なのだろう。
——カシスは、待っているのか。
いずれにせよ、彼女はこの村に拘泥しているのだろう。でなければ、コレンテはこうまで必死にならない。
エルドみたいな、どこぞの男に、高尚な彼女の魂を預けたりはしない。
それが、やたら腹立たしかった。
運命や天命という言葉で騙くらかして、エルドに託すことを正当化している。
村の外にしか幸せがない?
彼女のことを誰も守らない?
だったら——、
「だったら、俺が彼女を守りますよ!」
他人に言われるがままではなく、自分の意志で彼女の人生に関わろう。
たとえ迷惑がられようと、彼女に災難が降りかかるというのなら、喜んで盾となろう。
彼女を連れ出すのは、本当にどうしようもなくなった時だけだ。
「——君は……私だ」
「————」
「だから私は、君のことが心底嫌いらしい」
この決意も間違いなのだろうか。
この決断も無駄になるのだろうか。
彼はその答えを、人生の中で得てしまったのだろう。
ならば、それは正しいことなのだ。
——だから俺は、彼のことを嫌いにはなれなかった。
「……娘に伝えてほしいことがある」
「————」
「子が親を愛し続けなければいけない道理はない。——ジュディを愛せるのは、この世で私だけだ」
「————」
「頼みたいことは、これだけでいい」
そう最後に言って、コレンテは横になった。
会話は終了ということだろう。
だから、もう、間違いは正せない。
——只人が、皮肉にもコレンテの望まぬ形で運命をズラしてしまったのだった。
◯
後悔はなかった。
しかし、もっと言い様はあったのではないかと扉を開ける直前に頭に浮かぶ。
それを振って掻き消した。
今はこれで良かったと扉を押し開け、
「……あ」
扉の外にカシスが立っていた。
だが、少し様子がおかしい。俯きがちで、耳まで顔が赤くなっている。
急な発熱でなければ、これは、
「カシスさん?」
カシスは名を呼ばれると、言いにくそうに指を口元でもにょもにょとさせて、また少し俯くと、
「すみません! 中でのこと、少し聞こえてしまいました……」
「えっと、具体的には……」
「守ってくださる……という話です……」
しっかりと口にされてしまい、聞いた手前なんだが、少し気まずい。
「あー……。俺もつい勢い余ってしまって。売り言葉に買い言葉と言いますか……」
「では、本気ではなかったのですか?」
言い訳のような発言に、カシスが問いかけてくる。
本気なのか、そうでないのか。
そんなの、
「いえ、本気です。本気で、本心であなたを守りたいと思っています。急に何言ってるんだって感じですけど、この感情に偽りはない」
エルドはちゃんと言い切る。
すると、カシスは戸惑いがちに指を合わせて、
「……急に言われたことで、驚きはあります」
「————」
「だけど、本当に嬉しいです」
カシスは照れたようにはにかむ。しかし「でも」と継いで、
「受け取れません。……まだ、受け取れません」
首をゆるゆると振って、エルドの気持ちを丁寧に返した。
「私は誰かに守られるより、誰かと共に強く在りたい。——今の私は、強くない」
「そんなこと……っ」
「あるんです。私が一番、分かっています」
胸の中の弱さに包み込むように触れて、目を伏せる。
「お父さんのことも、お母さんのことも私は目を背けてばかりです」
自分を卑怯者だと卑しめるように、カシスは腕を抱いた。
「お父さんが中であなたに何を伝えたのか、伝えるつもりだったのか。本当は大体分かってるんです。その上であなたをお父さんのところに向かわせた。何かが変わってくれることを期待して」
カシスは自身の心情を詳らかに話していく。
「そんな傲慢なことってないですよね。変えてくれるなんて他人任せで——私が向き合わなくてはいけないのに。お父さんは、そんなこと望んでいないんでしょうけれど……」
「——子が親を愛し続けなければいけない道理はない」
コレンテからの伝言を、つい口にしてしまい、すぐに失言だったと気づく。
だが、
「言葉はキツイですが、お父さんの言っていることは正しいとは思います」
カシスには正しく意図が伝わったようだ。
「親が子のしがらみになってはいけない。——私がこの村に拘泥する理由は聞きましたか?」
「いえ、正直あまり……。コレンテさんの気迫に圧倒されていただけでしたし……」
「それでは、お母さんのことを少しだけ……」
カシスは振り返り窓の外に立つと、窓越しに空をなぞった。
「——お母さんは太陽のような人でした」
硝子を通った陽光が、カシスの美しい白髪を煌めかせる。カシスはそれを撫でつけて、
「強くて、カッコよくて、母でありながら私の憧れでもありました。実は、お母さんとお揃いになりたくて、髪の毛をオレンジ色に染色してたこともあるんですよ? 今となっては恥ずかしい記憶ですが……」
カシスは髪を指で巻いて手のひらに乗せて、気恥ずかしそうに笑う。
きっと、その姿も素敵だったのだろうなとエルドは思いつつ——。
「だけど、それがお母さんを追い詰めてしまったのだと思います」
カシスは顔に暗闇を落とし、自嘲するように太陽に背を向けた。
「お母さんは、ある日突然、失踪しました」
「———!」
驚いた。逆に言うと、驚くことしかできなかった。
何を言っても、何にもならないと思ったからだ。
エルドも親を亡くしている。だから気持ちが分かるなんて、安易なことは言ってはいけない。
「きっと私のこととこの村のことと、色々挟まれてしまったのだと思いますが、実際のところお母さんが何を抱えていたのかは分かりません。お父さんも、具体的なことは何も言ってくれず、私を村から出そうとするばかりで」
その必死さは、エルドも今しがた体験してきたことだ。
だが、必死なだけで、必要なコミュニケーションを排除していると思ってしまう。
「でも……」
掻きむしりたくなるような激情を捉えて、カシスが唇を震わせる。
「私がいなくなったら、お母さんはどこに帰ってこればいいの!?」
胸を掴み、ただ母親の子であるカシスとして、彼女は叫んだ。
「私はお母さんの居場所を守る。だから、この村を離れたくないんです」
カシスは髪を撫でつけ、再び太陽に目を細める。
「あの太陽の下に、お母さんは必ずいる。——私はそう信じています」
その陽だまりに、彼女の幸せが眠っていることを、エルドも同じように祈り上げた。
◯
やがて二人の間には、フレンという太陽のような子が生まれた。
それと入れ違うように、数週間後にコレンテは逝去してしまった。
しかし幸せそうだった。
——みんな、幸せだった。
フレンの誕生を祝福してくれる人なんて、周りにはいなかったけれど、エルドとカシスとコレンテと、それにプールもわざわざ祝いに来てくれた。
これだけの幸せがあって、エルドはまだ幸せだった。
「━━フレンと、どうか二人で健やかに」
死ぬ瞬間に、自分は一人じゃない。
それが何より心強かった。
一秒——もたない。
フレンの声が聞こえる。
命が爆ぜる。
エルド・ヴィヴァーチェ。
それは、運命を捻じ曲げてしまった、只人の調べ。




