第八話『空が見える場所』
自分は死んでしまったのだろうか。
明らかにあのスピードは自分の能力のキャパシティの限界を越えていた。
だけど無視して、無我夢中でなりふり構わず走り続けたから、死ぬのも納得できる。
別にそれならそれでいいのだが、可能ならばもっと効率的に死にたかったなと思う。
じゃないと、みんなが幸せにならないかもしれない。
━━それは嫌だ。
だったら、まだ死ねない。
私は、ちゃんとする。
ちゃんと、
『全部、終わらせる』
だから、思い出しちゃだめ。
ルステラのことも、アレキスのことも。
あの二人も、『暁の戦乙女』を、フレン・ヴィヴァーチェを━━。
━━意識がゆっくりと、浮上していく。
目が覚めて一番初めに認識したのは、日が少ししか差し込んでいない薄暗い部屋にいることであり、目が覚めて一番初めに意識したのは、とてつもない倦怠感が身体を支配しているということだった。
「━━━━」
以上の最低限のことを把握すると、脳もそれなりに動いてきてくる。
どうやら、倦怠感には苛まれているが、気絶する前ほど残息奄々としてはおらず、呼吸もそれなりには安定していた。
あと気になると言えば脚だが、なんだかやけに温かい。まるで人肌が触れているような━━、
「━━うおっ!?」
温かみの正体を視認して、フレンは思いきり布団とも呼べぬようなボロ布をはね上げた。
脚が人肌ぐらいの熱を発していたのではなく━━そこに、本当に人がいたのだ。
見た目はフレンより濃い赤髪で、寝癖じゃない天然の癖毛が腰元まで伸びている。年齢はおそらく十歳前後で、薄汚れてはいるが愛らしい顔つきが将来性を感じさせる。
そんな見覚えのない幼女が、何故かフレンのお腹に顔をうずめてすうすうと寝息をたてていた。
「起きる……気配はないか」
フレンが驚いて出した大声にも反応する素振りがなく、相当に眠りが深いと見受ける。
しかしずっと眠られても困るので肩をゆするが、一向に起きる気配がない。というかむしろ、強く絡みつかれていってる気がする。
体温と寝息を感じながら、フレンはどうしたものかと頭を抱える。
このまま立ち上がってもいいのだが、それをするとこの幼女をしがみつかせたまま歩くことになってしまう。
たぶん、この子はそれでも起きないだろう。
組みつかれている腕と脚をほどく手もあるが、幸せそうな寝顔を見てしまえばする気も失せてくる。
それにそもそも、この子から解放されたとて、今の自分の姿を確認すれば、出歩くなど言語道断だった。
「服……どこいった?」
いまだ起きる気配のない幼女も、くたびれたシャツ一枚だけという大概な格好をしているが、フレンに至っては身体を防護する布が一つもなかった。
幸いにも、野営地へ赴く際にルステラから借りていた服ではなく、フレンが元々着ていた服にチェンジしていたのでよかったが。
もちろんのことだが、全裸で街中を歩こうものなら、即刻逮捕となる。━━もっとも、今の情況では、フレンは服を着てようが着てまいが捕らえられてしまうだろうが。
だからといって全裸であることを許容はできないので、さっき勢いではね上げた布でも巻いておきたい。
この子に阻まれているので、今はできないが。一応、髪の毛とこの子で大事な部分は隠せてはいるので、まあ動かなければこれでもいいだろう。いや、よくはないか。
「そういや、ここって……」
まったく反発しないソファーを軋ませながら、首を回らす。
野営地から大体真っ直ぐ北上したら王都の防壁にぶち当たって、剣を突き刺しながら強引に登った。そして中に入って、意識が落ちた。
つまり王都の西側から侵入したので━━ここはたぶん貧民街だ。
といっても住んでいる者の大部分は脛に疵を持っているような人間で占められてはいるので、貧民という言葉は若干そぐわないかもしれないが。
なんにせよ、健全な環境でないことは確かだ。
だがしかし、それを心地いいと捉える人間がいるのも確かなので、一概に悪であるとは言えないのだけれど。
「どうするかなぁ……」
嘆息しながら、フレンは天井を仰いだ。小さな穴が空いていて、そこから空が見えた。
家の中なはずなのに、空を眺められるというのは初体験だった。
━━同時に、自分がとても恵まれていたのだと自覚する。
人間が生きていくのに欠かせない衣食住に加え、周囲の人間や環境も含め、とても恵まれていた。
だけど、こんなことなら━━。
「━━━っ」
益体なことだと、フレンは先を綴るのをやめる。
起きてしまったことは仕方ない。人間は過去には戻れないのだ。
思い出すことはできても、ねじ曲げることはできない。
━━あの日の血濡れの小娘から、もう誰も武器を取り上げられない。
「……泣いてるの?」
「な、泣いてないっ」
「━━━━」
「━━起きたのか!?」
眦を拭いながらナチュラルに受け答えをした後に、それがどういう意味か遅れてやってきた。
ずっと眠りこけていた幼女が、ようやっと起きたのである。
唐突に目を覚まされたので驚愕を露にすると、まだどこか寝ぼけ眼の幼女は愛らしく微笑んだ。
「うん、起きた。おねたんが泣いてたから」
「泣いてない! ……おねたん?」
「おにたんだった?」
「━━━。ああそういうことか。いや、私はおねたんだ」
聞き覚えのない単語に頭をひねるが、幼女の返答を聞くに、舌足らずでお姉さんやお姉ちゃんと言えないのだろう。
一人で勝手に納得していると、幼女がフレンの鳩尾あたりに顔をこすり付けてきた。癖毛が肌を直接撫でて、とてもくすぐったい。
「おねたんあったかい! 胸デカイ!」
「でかくない」
「でも、あったかい!」
不躾な感想にため息まじりで答えると、幼女は笑みを絶やさず温かいと連呼した。
なぜこんなに嬉しそうなのかわからないがとりあえず、
「わかったから、一旦離れてくれ」
「なんで?」
「全裸だからだ」
流石に絵面がインモラルすぎて、なにかやばい犯罪をやらかしているのではないかという気になり、冷や汗が止まらないので、一刻も早く処置をとりたかった。
「でも、おねたん着る服もうない」
「だろうな。だから……」
こんな場所で行き倒れれば、金目のものは根こそぎ持ってかれるのが道理だろう。フレンも別に責めたりはしない。
だけど全裸は困るので、先ほどはね上げた布を今度こそ手に取った。
しかし、
「それ着るの?」
「着るというか、巻くつもりだが……なにか問題でもあったか?」
「……ううん、聞いただけ」
どこかしょんぼりしているみたいな雰囲気が気になるが、フレンは気に留めず上体を起こす。
それにつられて幼女は惜しむようにフレンから手足を離した。
幼女に組みつかれていた全裸の女から、ただの全裸の女になって、次は布を巻いた公序良俗に反していない女に変わるため巻こうとするが、そのままだと若干厳しさがあったので縦に割ってから大事な部分に巻いた。
巻き終われば、幼女はさらにしょんぼりしていて、何事かと不安になる。
「ど、どうした……?」
「……実は布、おねたんが着てるの以外ないの」
「それは早く言ってくれ……」
布がないというのは、取りも直さず寝るとき掛ける布団がないということだ。
ノンダルカスは温暖な気候とはいえ、夜はそれなりに気温が下がる。加えて、この家じゃ死活問題だろう。
でも、なんの確認も取らずに引き裂いたフレンも悪いが、そもそも発端は服を奪われたことから始まるのだから、普通にそいつが一番悪い。
「しかし、私の服はどこへいったんだ?」
純粋な疑問を投げかけると、幼女は「あっ!」となにか思い付いたかのように声を上げ、パッと笑顔を咲かせた。
そして、
「おねたん、まってて!」
フレンを置き去りにして、埃を舞わせながらどこかへ走っていった。
部屋にポツンと取り残されたフレンは、抱えた脚に頬を乗せながら、軋むソファーに耳を傾ける。
「━━━━」
ただ漫然と時間を浪費して、フレンは一体なにをしているのだろうか。
こんな意味わかんない格好で、意味わかんないぐらい穴が空いている天井の下で、意味わかんないぐらい空腹の胃袋を抱えて、ただ蹲るフレンはなんなのだろうか。
「だめだな……」
一人になると、すぐにそういうことばかり考えてしまう。
あの幼女みたいに、もっと直情的に振る舞うぐらいがちょうどいいのだろうか。
「おねたん……」
「━━おねたん!」
幼女の顔を浮かべながらボソッと呟くと、それをすべて塗り替える本家本元の「おねたん」が飛んできた。不意打ちすぎて結構びっくりした。
「おお……思ったより、早かったな」
「うん! まだ家いて助かった!」
大きく首を振った幼女は、扉の方を向いて手招きする。
すると、杖の音を響かせて、白髪の老人が部屋に入ってきた。
歳は六十、ひょっとすると七十に届くかというぐらいだ。穏やかな顔つきだが、内に研ぎ澄まされた鋭さが宿っており、かつては中々の武人であったのではないかと窺える。
「あなたが、彼女の保護者か?」
「そんなとこじゃ。もっともこいつは……」
「━━お助けジジイ!」
「こんな調子じゃがの」
肩をすくめる老人の手を握って、幼女はとても愉快そうに言い放った。
それから幼女は老人の手を握ったまま、フレンの前に引き連れてくる。
「お助けジジイが来たから、おねたんもう安心!」
「安心……?」
なにに安心していいのかわからず、フレンは小首を傾げる。それを真似て、幼女も首を傾げた。
その反応にフレンはツッコミたくなるが、先にお助けジジイと呼ばれている老人が口を開いた。
「お前さんが、何を求むるかは知らんが……」
「━━━━」
「ちゃんと説明はしてやるから、そこは安心してよいぞ」
舌足らずな幼女の言葉足らずを埋める形で、お助けジジイは杖で床を弾いた。
○
「ジジイはエール・オイリアンテと言うが……」
「お助けジジイ!」
「もはや名前なんてあってないようなもんじゃ」
軽い自己紹介をする老人━━エールは、幼女の呼び名はもう気にしないという態度だった。
そして掴まれている手を幼女の頭に持っていき、
「そしてこいつは、フラムじゃ」
「お前、フラムって言うのか……」
エールの手を握っていた幼女━━フラムは、にへらっと笑みを浮かべると、フレンに思いきり抱きついてきた。
それを難なく受け止めると太ももの上にちょこんと乗せた。
「こいつ……フラムは、誰にでもこんななのか?」
頑固な癖毛を手で梳きながら、フレンは幼女の性格について問う。
人懐っこいことは愛嬌に繋がりはするが、こういう場所では危険に繋がりそうで心配だ。
「いや、どちらかと言えば人見知りするタイプじゃ。じゃから、ジジイも驚いておる。……幼子の考えることは、わからんのぉ……」
エール的な評価では、フラムは特別人懐っこいわけではないらしい。
ならばフレン側の問題かと考えるが、フレンも特別子どもに好かれやすい体質ではない。
「フラムはどうして、そんなに私を気に入っているんだ?」
エールと話していても解決しなかったので、今度はフラムに直接訊いてみる。
その質問に、小首を傾げてから、フレンのうなじに顔を近づけた。
「おねたんいい匂いする! あと、胸デカイ!」
「でかくない」
フラムをうなじから引き剥がして、太ももの上に居直らせる。
しかし、胸がでかいは論外として、いい匂いがするから気に入っているというのもよく分からない。
確かに、劣悪な環境では、いい匂いは希少性が高いとは言えるが、もちろんそんな話ではないだろう。
その反面、エールはなるほどと納得している様子だった。
だがそれを問うよりも前に、重要なことを思い出す。━━服のことだ。
「そうだ! オイリアンテ氏に訊きたいことがあるのだ」
「ジジイのことはジジイでええわい。敬称を付けられるほどご立派な人間じゃないのでの」
「ジジイ、私の服をどこへやった?」
「そこまで遠慮がないのも中々珍しいがの……服のことじゃったな。無論、売ったわい」
売られたと言われたことへのショックはなかった。特に思い入れのある服でもない。
それに脱がされたことや、今の格好への恥じらいがあるというわけでもなかった。
フレンが糾弾したいのは、そこじゃなく、肌に巻いている布についてだ。
「それじゃあジジイは今、金を持ってるのだな?」
「持っとるわい。お前さんが結構いいもん着ててくれたからの」
「だったら話は早い。━━フラムに新しい布団と、まともな服を買ってやれ」
フラムの肩に手を置いて、エールに堂々と言い放つ。しかしエールは特に驚いたりもせず、ただため息を吐きながら、
「安心せい。言われんでも、最初からそうするつもりじゃわい。ジジイはこいつのお助けジジイなんじゃからの」
杖で床を弾きながら、エールは手を差し伸ばす。するとフラムがフレンの太ももから降りて、エールの手を掴む。
「それじゃ早速、買いもんでも行くかのう」
「うん! おねたんも一緒に!」
「私は……」
脚をさすりながら、伸びてくる手から目を背ける。
それはフラムと一緒に行くのを拒絶したいわけではなく━━、
「━━脚が動かんのじゃろう」
「━━━っ!?」
「どんな使い方をしたのか疑問じゃが、数日も安静にしとけばすぐ戻るわい」
脚が動かないことを見破られ、フレンは驚愕する。一応、なんともない風に過ごしていたのだが。
しかし、エールの宣告に一番驚いたのは、フレンではなくフラムだった。
「おねたん、脚動かないの……?」
「ああ、この通りビクともしない」
不安そうなフラムの前で、脚を持ち上げて離す。当然、力が入らないから留まることなくスタンと落ちて床を強く叩いた。
フレンとしては、そんなに大事じゃないよと伝えるつもりだったのだが、フラムの顔には心配が増えてしまう。
「……フラム、おねたんの脚に乗っかっちゃった」
「ほ、ほら別に痛みとかがあるわけじゃないし……」
「でも、ケガしてるのはホントなんでしょ」
フラムの問い詰めに、フレンは黙り込む。
何故なら、自分でも脚が動かない理由を説明できないからだ。
痛みはない。だが、怪我をしていないとは断言できない。それに、適当に誤魔化しても、後で重篤だったと判明でもすれば、いよいよ顔向けできなくなる。
ならばどうすればと考えていると、見かねてエールが割り込んできた。
「━━別に怪我をしとるわけじゃない」
「ホント!?」
「ああ大マジじゃ。……これは疲労の一種みたいなもんじゃ。大いなる力を酷使した代償じゃろう。じゃからすぐ治る」
「お助けジジイ……!」
エールの診療に、フラムは顔をパッと明るくした。その愛らしい顔を湛えたまま、小さい手でフレンの脚に触れた。
「絶対あんせー! もう冷たくなっちゃやだよ」
「冷たくなる……?」
「その辺はまたおいおい説明しちゃる。━━ほれフラム行くぞい。はよせんと市が閉まる」
「わかった! おねたんまたね!」
「ああ、またな……」
手を振りながら、フラムはエールに連れられて部屋を出ていった。フレンも背中が見えなくなるまで手を振り続ける。
━━そして手を振り終われば、また一人だ。
「……またねだなんて、よくも嘯けたもんだな」
自分の脚をさすって、瞼の裏にフラムの笑顔を思い浮かべた。
あの心の底から幸せそうな笑顔を見るたびに、フレンは心苦しくなる。だって、脚が治ったらフレンは━━、
「私が死んだら……」
━━あの子は悲しむのだろうか。
まだ出会って一日とかそこらで、妙に気に入られてはいるが、結局のところはそこまでの関係なのだ。
だからあの子にとっての幸せも、あの子にとっての悲しみも、フレンにはわからない。━━否、関係のないことだ。
フレンは意思を曲げない。だから、脚が治っても大丈夫。
だけどせめて━━、
「あの子の前では、笑顔でいないとな」
そう決意してフレンは軋みの酷いソファーへ寝転がる。
このソファーも買い替えてあげた方がいいと思うが、フレンの服がどれほどの値段で売れたのか見当はつかないけれど、難しそうだ。それに言い出せばキリがない。
けどまあエールに任せておけば、心配はいらないだろう。
そう、心配事はない━━。
「そういや、私にも服を買ってきてほしいと、頼めばよかったな」
もちろんフラムを優先してくれていいのだが、フレンもできれば今の格好からは脱却したかった。
それは決して恥じらいがどうこうという話ではないとは明言しておく。
ただ、粗悪な布を巻いていると、何がとは言わないがこすれて痛くなりそうだ。
今はまだ大丈夫だけれど、たぶん歩きでもすればやばいことになる。もはや寝返りでも、危ないまである。
「寝るときは外すかぁ……」
そうならないためにも、どうか買ってきてくれますようにと願いながら、帰りを待った。
しばらくすれば二人が帰ってきて、そのときフレンへ服が贈られた。風呂にでも入ったのかキレイになったフラムが、にこやかに渡してくれたのだ。
━━それが、さらしとホットパンツだけだったときは、どういう反応をすればいいのかわからず流石に頭を悩ませた。