第三十二話『賽は投げられた』
風を切る感覚が、そのまま痛覚を刺激している。
馬上で腹を押さえながら、メレブンは必死に持ち堪えていた。
「やっぱ戻った方が……」
腹を押さえる手に、フラムは手を重ねる。
心配してくれているし、ということはそれなりに危ない状態なのだろう。
だがしかし、
「このまま、行く。無理そうなら、撤退するだけや。そのための道は、あんたさんが作ってくれんねやろ?」
「……絶対絶対、約束だからね」
「当たり前や。自分も死ぬなんてのはまっさらごめんや」
予想が正しければ、本部でも戦いは起きる。
考えられる相手は、およそ四人。
悲しいことに、アメリはそれに含まれている。
そして、残酷なことを断言するが、メレブンがアメリに負けることはない。
だから、戦うならアメリが一番良くて、一番最悪だ。
しかし逃げるだけなら、アメリに限定せずとも可能だ。
屋内なら、基本的にメレブン優位だ。
「どうやって入るの!」
「正面や! 正面そのまま突っ切れ!」
近づく本部を前にフラムが指示を仰ぐ。
立ち並ぶ大小様々な扉の、最も真ん中に位置するものに突っ込む。
メレブンは炎を両手で編み出し、扉にぶつけることで破壊した。
「入った……けども」
天地のバランスを誤りそうなほど高い天井。豪華絢爛な装飾は煌びやかだが、不快感を催すほどいやらしくはない。見事な調和だ。
メレブンも内装を見るのは初めてである。
圧倒されるほどに芸術的で、絶倒するほどに極地点。
「すごいね……」
フラムもその景観に、思わず言葉が溢れていた。
純真な少女だからこそ、感動もあるいは本質的なのだろうとも思えた。
「……と、見惚れてる場合やなかったな」
感動に水を差すようで申し訳ないが、軽く咳払いをし視界と思考を引き戻す。
「どうや、なんか分かるか?」
「うーん、なんとなく、こっちかな……? アメりんは、でも、ここにいると思う」
「ほんなら確かめに行こか」
フラムが指を差したのは廊下の右サイド。アーチ状の梁をくぐって、反響する音と共に進んでいく。
内部構造はシンプルだ。
真ん中に大きな通路があり、そこから左右に二本ずつ伸びている。
さらにその左右の通路の行き止まりで、また上下に通路が伸びている構造だ。
おそらく左右対称になっている。
その上下の通路の、上方向に上って行くと、一つの扉があった。
「物物しい扉やなぁ」
黒で塗り固められた扉が、射し込む太陽光を吸い込んで闇を加速させている。
こういう扉は総じて、何かを閉じ込めるために生み出される。
ひょっとするとここは——、
「メレブン、開いちゃダメ!」
扉に手をかけようとすると、フラムが飛びついて阻止してくる。
「アメりんもマルティちゃんも、この先にいる。でも、行っちゃダメ! 人の……人の、嫌な臭いがする!」
嫌々と頭を振って、フラムが訴えかけてくる。
「お城にあった石のところと同じ! 嫌な血が染みついてるの!」
「城……ノンダルカスのか。——あっこ、でも、なにがや……?」
フラムが言っているのは、おそらく古書庫の裏の石室のことだ。
地下水路を抜けて、梯子を上ったところにある出口。
シュネルが罠として用いた場所。
——そこで、フラムは何を感じたんや?
「すまん、王城のことはよく分からへん。でも、伝えたいことはなんとなく伝わった。——それでもや」
メレブンはフラムをゆっくりと引き剥がす。
「怖いんよな、フラムちゃん。人の——無垢な悪意が」
彼女の物差しは、エールやフレンで作られている。
その中で、生み出された善悪——世界に対する、もしくは人間に対する理想が、崩壊してしまうのが恐ろしいのだ。
そして、メレブンにも同じことを思ってくれている。
メレブンの物差しの中でのそれは、フラムと異なってはいるのだけれど、近い位置で重なってはいる。
しかし、物差しのレンジが等しくても、フラムとメレブンには決定的な違いがある。
「でも、自分は大人や。自分のことは、自分でなんとかできる」
「フラムは……」
「——自分の理想を思い描け」
不安そうに瞳を揺らめかせるフラムと視線を合わせる。
「理想が崩れそうになった時こそ、理想を思い出すんや。——君の、最も強き輝きは誰や?」
揺らめく紅の炎が静けさを取り戻し、輝きを増していく。
彼女を守り、育てた老人が浮かび上がる。
——彼女はもう、大丈夫だ。
「ほな、行くで」
「うんっ」
扉を押し開けると、さらに下に続く階段があった。
それを下ると、ただ冷たいだけの無機質な通路が広がっていた。
「臭い。気持ち悪い。でも、アメりんたちその中心にいる」
「曝されとるんか、もしくは……やな」
アメリがこの濁りを生み出すものだとしたら、きっとこの世界のために生かしてはおけない。
でも、もう薄々と気づいている。
アメリは悪意に翻弄された、ただの被害者なのだろうと。
「——音が」
通路を少し進めば、音が聞こえてくる。
ガンガン、ゴンゴンと、鉄を何かで叩くような音。
絶え間なく流れる音が、何故か悲痛めいて聞こえて——、
「——アメリ!!」
その音の発生源がアメリだと理解した瞬間、メレブンはフラムを置いて走り出していた。
何故、アメリがこんなにも必死に音を出していたのか、どうやって音を出していたのかを視界に入れてしまったから。
「ぉ、兄様……」
牢屋の鉄格子に組み付き、アメリはへたり込んでいた。
言葉は弱々しく、身体には汚れが目立つ。失踪した時と同じメイド服だ。
しかし、それよりも、
「もう、ええ。もう自分が来たから。もう、やめてくれ……」
アメリは、自分の拳を何度も何度も鉄格子に打ち付けていたのだ。
鉄格子を破壊するために。
両拳は、何度打ちつけたのか、砕け散って血に塗れている。
メイド服にも返り血が飛び散り、白いエプロンがどす黒く染まっていた。
「アメリ!」
鉄格子の錠を融解させ、檻を開いた。
檻に組みついて拳を打ち付けていたアメリが。そのまま倒れるようにメレブンの胸に収まった。
「そんな顔、しないでください。こんなのじゃ、死にませんから……」
「死なんかったら、どれだけ傷ついてもええわけやあらへんねん。ほんま無事で……」
不意に檻の中を見ると、暗がりの中に浮かび上がる塊があった。
——塊。
「フラム、来んな!」
メレブンを追いかけてきたフラムを止める。
止まらない。
しかし、馬がフラムの首根っこを掴んで、強引に止めてくれた。
「ようやった」
「メレブン、なんで! アメりん!」
「フラム、ちゃん……」
フラムに呼びかけられたアメリが、メレブンと同じように来るなと頭を振る。
「アメリ、あの子は……?」
「マルティちゃんなら、気絶させました……。あれを見せるぐらいならと」
「いや、それでええ。——あれは見せられへん」
檻の奥で浮かぶものこそが、フラムの感じた濁りの淵源であり、悪意の結晶。
こんなことをしたのは、一人しかいない。
「——報いは受けてもらうぞ、おんどれ……!」
◯
心臓を掴まれるような恐怖を味わった。
まだ、その余波は残っている。
それでも、
「ここで、叩く」
震える腿をガンガンと叱咤し、フレンは己を鼓舞する。
あの恐怖は紛い物の恐怖だ。アレキスが作り出した虚仮威しの気配だ。
だから、
「ちょっと、止まれやァ」
走り出す瞬間、誰かに肩を掴まれて止められる。
振り返れば、凶悪な三白眼がフレンを射抜く。
一度見れば忘れない顔だ。だが見覚えがないので、つまり、初めて会うということになる。
しかし、
「お前……まさか、アレキスの友達の……」
当然、アレキスの気配を感じたのだ。
アレキスから伝え聞いた彼がいないはずもない。
「ラジアン・フォーミュラだ。だが、アレキスはダチじゃねェ。協力者だ」
「友達じゃなく協力者……まあ、何でもいいが」
特に必要のない訂正のように思えるが、ちゃんと覚えてフレンは駆け出そうとする。
すると、さらに強く肩を掴まれた。
「まてやァ、何で駆け出そうとする? 止めてんだろうがよォ」
「いや、てっきり自己紹介のために引き止めたのかと。あ、そうだ。私はフレン・ヴィヴァーチェという。よしっ、じゃあ……」
「だァから、一回止まれやァ!」
逸るフレンにラジアンが激昂する。
息を切らしているが、何かあったのだろうか。
「そのキョトン顔、ムカつくぜェ。——あのネイアは確実に罠だろうがよォ」
フレンの前方で、背を向けて倒れているネイア。
捕えるには絶好の機会だと思ったが、
「罠か。じゃあ気をつけないとな」
「おォ、そうだ。警戒して……って、何で進んでやがる」
「——? 気をつけたらいいんだろ?」
「あァ? ……あァ! 違ェよクソがァ! なんなんだよこいつはよォ」
頭を掻きむしりながら、ラジアンがたたらを踏む。
もう、爆発してしまいそうな雰囲気に陥って、
「——隙だらけですね〜」
空から不可視の破壊がフレンたちに迫る。
フレンは勘を頼りに範囲から逃れた。
しかし、
「ラジアン!」
「問題ねェよ。むしろ、狙ってた」
範囲を見誤ったラジアンの左半身が丸々持っていかれる。
だが、
「——『呪隷』。やっぱり、驚異的な再生力ですね〜」
「テメェらが作ったんだぜェ。お母様」
「——おぞましいこと言わないでくださいよ〜。最終的に選んだのはあなたですよね。——だから、一度は見逃してあげたじゃないですか〜」
生み出した氷で足を掴み、宙吊りになったネイアは、過去を語りながら髪を弄る。
「お母様……? 母親なのか!?」
「文脈の読めねェ奴だなァ! オイ!」
「あはは〜、流石にこんな息子は欲しくないですね。それにジブンの息子なら、もっとプリティーで優しい顔つきになりますよ〜」
「んな、張り付けたような表情いらねェよ。テメェのエゴは、そんなもんじゃねェだろ」
「——なんの、ことか分かりませんね〜」
宙吊りのネイアが張り付いたような笑みを浮かべる。
再び巻いた眼帯の裏の瞳で、彼女は何を想っているのだろうか。
さっきのあれこそが、彼女のエゴだと言うのだろうか。
「少なくとも〜、あなたには分かりませんから」
横合いから会話ごと粉砕するようにフレンが飛びかかる。
宙吊りのネイアが髪を弄りながら、自由落下する。
そして、落ちながら、
「ばん」
指を振ってフレンに突きつける。
その射線から逃れるために、ネイアを吊り下げていた氷を掴むと、
「不用意に触れてはダメですよ〜」
ネイアが薄ら笑いを浮かべると、フレンの右手に熱が生まれる。
掴んだを氷から突起が生まれて、フレンの掌に穴を開けていたのだ。
そこに、
「ばん」
隙をつくように、逆手で破壊を撃つ。顔を貫くその一撃が迫って、
「だらァ!」
血を噴くフレンの手を握って、ラジアンが破壊の射線から逃す。
抱き抱えられて、近くの建物に乗った。
「ありがとう、助かった!」
「テメェ、オレのフォロー前提で動いてただろ!」
「ああ、だから期待に応えてくれてありがとうだ」
「イカれてやがんなァ、テメェも大概よォ!」
悪罵めいているが、フレンをとても丁寧に下ろしてくれた。根は優しいのだろう。
そして、彼がいればそれなりに無茶できる。
また宙吊りのネイアを視界に入れて、
「じゃじゃ馬と組まされて大変ですね〜」
「いや、その通りすぎて困るんだわなァ」
「そこは強く否定してくれ!」
拳を握って、ラジアンの同意に抗議する。
何故、二人から詰られないといけないのか。
ちょっと頑張ってもらっただけではないか。
「とはいえ〜、分が悪いっちゃ悪いんですよね」
「オレとは相性有利的なことを、前に言ってなかったかよォ」
「ええまあ〜。でも、あの時から時間経ちましたし。——どれだけ、重ねました?」
ネイアの質問の意味がフレンには分からない。
ラジアンだけに伝わる質問だったようで、
「十ぐれェはいったかもなァ」
「痛みで?」
「痛みで」
「馬鹿ですね〜」
ネイアが嘲笑しながら身体をブラブラと動かす。
そして、そのまま引きちぎるようにして、地に降りた。
「転移封じられちゃいましたし〜、空飛ぶのもそれの応用でしたからね」
髪を弄りながら、ネイアがため息をつく。
「——テメェ、なんのつもりだ」
ネイアが髪を弄るのをやめて、両手をあげる。
それは紛れもなく降伏のポーズで——、
「そんなんで、許されるわけねェだろォがよォ! ふざけたマネしてんじゃねェぞ!」
「馬鹿! やめろ!」
激発しネイアに飛びつこうとするラジアンを、フレンは間に割り込み制止する。
「どけやァ!」
「どかない。歯向かうなら、無理やりにでも止める」
「やってみろや、最強ッ! オレを殺せんのか! あァ!?」
ネイアとラジアンの間に入ったフレンに、怒号を飛ばす。
隙だらけだ。弱すぎる。
——瞳の光が弱すぎる。
そして、だからこそ、なおのこと、彼の意思は尊重できない。
「でも、どうすれば……」
「——ばん」
ネイアの軽い声が聞こえたと同時に、ラジアンの頭が爆ぜる。
脳漿が飛び散って、フレンの胸を汚した。
「降伏してるのに、聞き分けのない人ですね〜。ね?」
「お、お前……!」
「いやいや〜、別に殺してませんよ。てか、死なないですし。ちょこっと黙らせただけです。あなたも迷惑だったでしょう?」
「それは……」
無邪気に問われて、フレンはネイアから目を逸らす。
極論、言ってしまえば迷惑ではあった。
でも、仕方のない、どうしようもない迷惑なのだ。
それは悪いことではないし、むしろ普通のことだ。
フレンが彼を止めたのは、彼が過ちそうで——勝手に過去の自分と重ねていたからであって、でも、それはフレンの傲慢でしかなくて——、
「ま〜、何でもいいので、降伏です。フレンさん」
「……っ、わかった」
首から上を失ったラジアンに背を向けて、戦闘意思の消えたネイアを拘束しようとする。
一歩、踏み出して、
「——君は必ず降伏すると思っていたのだよ」
あるはずのない声が、フレンの足音を上塗りして聞こえた。
その声の主は、今、捕えられているはずで——、
「——ダイス」
その男の名を呼んだ。だが、そこに意識は籠っていない。
別のところに持っていかれていたから。
「————」
ネイアの生首が、コロコロと地面を転がる。
首で切断された、頭がコロコロと、コロコロと、身体から解放されたのを見せつけるように転がっていた。
ダイスは、つま先でそれを止めて、
「フレン・ヴィヴァーチェ」
私の名前が呼ばれる。
笑う彼は、首から先を失ったネイアの肩を組み、手中を明かすように手を開いて、
「さあ、賽は投げられた」
——フレン・ヴィヴァーチェの世界が乱転する。
三章、開幕です。




