第二十二話『友達』
意識が起きるのか、意識が戻るのか、意識が取り返されたのか、適する言葉は三つのなかにあるだろうか。
「まあ、そんなの、別にいいか……」
顔に風を受ける感覚も、久しぶりだななんて感慨を持ちながら、セーラの焦点が合っていく。
ぼやぼやとした世界が、輪郭を帯び始めて━━、
「……さん! お母さん!」
「━━まったく無茶しすぎ、レクト」
「お母さんっ!」
視界に入ってきたレクトの様相は、とても痛ましいものだった。
右目は割れて血が止めどなく流れており、反対に左目からは涙が流れている。
鼻の下には血を拭った跡が残っており、抱えている肩はきっと脱臼してしまっているのだろう。
「あたしのこと、お母さんって呼ぶんだね」
レクトの涙と血を拭いながら、セーラはそっと頭を撫でる。
今まで言わせないようにしてきた言葉を繰り返すレクトも、きっとセーラの知らないところで変化したのだろう。
「……ぼくは、お母さんにお母さんでいてほしい、から」
「そんな不安な顔しなくとも、あたしは怒ったりしないよ。━━でも、謝らなくちゃだ」
セーラは座った体勢のまま頭を下げる。
レクトにも謝らなくてはならないことが山ほどあるのだ。
「あたしはレクトのことを利用しようとしてた。自分が楽になるために━━死ぬために」
セーラの言葉にレクトは息を詰める。
「あたしのことをさ、話したことってないよね。━━本当は、お母さんなんて呼ばれていい人間じゃないんだ」
「━━━━」
「過去にもこうやって暴れまわって、村を一つ潰した」
レクトの背後に広がる景色を眺めながら、あの日の村を思い出す。
鎖で縛ったあの日の記憶が、紐解かれて落ちていく。
「それで、顔を覆った。目を合わせるのが、怖かったから」
顔を見せないという酷いことを、ずっとしてきてしまった。
レクトという輝きに向き合えなかったからだ。
「だから、あたしは母親で在れない。━━でも、ごめん」
不都合なことを隠してきたことへの謝罪。レクトの命を将来、脅かすかもしれないことへの謝罪。お母さんという言葉を受け止められないことへの謝罪。
だけど━━、
「あたしは、レクトのそばに居たい」
それを知った上で、再度レクトには選択してほしい。でないとアンフェアだろう。
怖いならそれでいい。受容できないならそれでいい。
レクトはきっと、一人で飛べるようになったから。
「あの村のことは、お母さんだけのせいじゃないって聞いた」
「聞いたって……誰に?」
「確か、ミモザって」
━━あり得ない話ではなかった。
そもそもカフは言っていた。自分とミモザが『星王の啓示』から除外されたと。
だがしかしセーラの前に現れたのはカフだけだった。
その間ミモザはどこにいたのだろうか。━━レクトのところに居たのだ。
無理やり波長を合わせ、レクトに色々と語ったのだろう。
━━揃いも揃って、本当にどうかしてるんだから。
「それに、お母さんに何があっても、絶対にぼくが止める」
レクトの力が、セーラに対して有効であることが実証された。
だからこそ言っておかなければならない。これだけは守らせなくてはならない。
「━━殺されたら、あたし壊れるから」
レクトを殺すなんて展開になれば、セーラ確実に壊れてしまう。想像するだけで、心がひび割れそうだ。
その言葉の重みをどれほどミモザから受け継いだのかは分からない。
だが、レクトは躊躇いなく頷いた。
「一緒に生きるよ、お母さん」
一緒に頑張ろうと支えてくれた少女がいた。
見つけてくれた感謝を、紡いだ精霊がいた。
セーラはその想いを反芻する。
死ねなかっただけのセーラは、いま生きたいと願っていた。
罪咎は永遠に消えることはない。━━否、消して良いものではない。
だけど、ずっとあの日に縛りつけておくのはもう終わらせよう。
赦されざる行いなのかもしれないけれど。
あの、笑顔が素敵な少女の願い事を叶えたい。
あの、暖かく優しい精霊の願い事を叶えたい。
セーラはこの瞳を通じて、見せてあげたいのだ。レクトと一緒に進んでいくんだってところを。
「あたしも、諦めないから」
━━最高の友達に誓って。
「……そしたら、レクト。あの人のところに、行ってきなさい」
そう言いながらレクトの頭を撫でると、驚いたように目を見開いた。
「やっはは! 分かるよ、レクトのことなんて。あたしは━━お母さんなんだから」
小さく背中を押してやると、レクトは覚悟を決めたような顔つきで一歩を踏み出した。
きっと彼の人生においてとても大切な一歩だ。何人もそれを揺るがしてはならない。
「━━明日は、どんな天気になるのかな」
『天つ国物語』はこれで終わるけれど、セーラたちは明日の天気を知ることができる。
それが楽しみで仕方がなかった。
○
遠のく少年の背中と入れ違いで、近づいてくる足音がある。
待ち望んだようなその音を、セーラは迎え入れてやることができなかった。
「やっぱり、結構やられてるでしょ」
覗き込んでくる青空よりも深い蒼瞳に、セーラは正解と自分の脚を撫でた。
実は、さっきから脚が━━というより下半身が動かないのだ。
「あの力はお互いに脳への負荷が大きいからね。まあ、少ししたら動くと思うよ」
「……レクトは、大丈夫?」
脳への負荷が大きいと聞いて、気が気ではなくなる。
しかしルステラは問題ないと指で丸を作り、
「その辺は元々強いからね。それに、損傷は全部治したし。心配ならセカンド・オピニオンとしてもう一人呼んでくるけど?」
「いや、大丈夫。ありがとう……ルステラ」
「わたしの名前、覚えてくれたんだ」
嬉しさを象りながら、ルステラはセーラの隣に座る。
「色々と助けてくれたしさ。レクトのことも、あたしのことも」
「……ううん。わたしたちはレクトくんに動かされただけだよ。あの子がいたから、わたしたちはここにいる」
「そうか。……レクトは、いい子だろ?」
同じことを一度言ったが、大丈夫あのときは半分軽口のようなものだった。
自分の立ち位置を揺らがせたくなかったのか、牽制的な意味合いがあったのか、真意は今となっては思い出せない。
「━━セーラは、何を思い描いてた?」
その質問の答えも、生憎と持ち合わせていない。
レクトのことを諦めたという自覚は語ったけれど、往生際が悪かったという事実も存在する。
想定という言葉は広すぎて扱いにくい。
レクトを諦めた時も、レガートという男に語った思いも、カフと誓った信念も、全部セーラなのだ。
だったらこう言うしかない。
「わからない。でも少なくとも、矛盾はしてた」
「そっか。だけど、そういうものだよね。気持ちなんて」
ちぐはぐでころころ変化して、あるいはただ見つけられてなかっただけで。
間違えることが当然で、気づかないのが必然で、しかし揺るがないものが突然心に根付くこともある。
それが、もしかしたら唯一の正解なのかもしれない。
「じゃあ、今は何を思い描いてる?」
「レクトの将来かな」
「いいね。素敵だね」
そばに居たいと願った。共に生きると約束した。
その果ての果てを見せてあげたい人がいる。
「「━━夢の果てまで」」
ルステラとセーラの声が重なる。━━偶然じゃない。
「『天つ国物語』。これもここにいる理由だね」
「やっぱり、気づいてた?」
「わたしだけね。……失われる前の方なんて、どこで知ったの?」
ルステラは当然のように質問してくるが、セーラもそれをしたい側ではある。
『気国』に深く関わった人物か、あるいは独立運動当時から生きているか━━。
「友達が教えてくれた。━━全部、教えてくれた」
「友達……ああ、あの子か」
紛い物のカフと結び付いたのだろうが、あれと結び付けるのは仕方ないとはいえ嫌だった。
しかし、ルステラは━━、
「いや、本当は全然違うんだろうね。わたしには分からないけどさ」
セーラから見えたあのカフは紛い物だが、ルステラはあのカフしか記憶にない。
だから反応は正しい。━━だけど、嬉しかった。
「そういえば、『カフ』とハイルは……」
「━━『カフ』は殺した。ハイルは捕らえて転がしてあるよ。どっちもわたしがやったわけじゃないけど」
殺されたと聞いてセーラは息を詰めるが、きっとそれが自然なのだ。
だからこそ言うべきは━━、
「そう。……本当に、ありがとう」
『カフ』だと理解していても、セーラは殺しを実行するまでに時間がかかっただろう。
できないとは言わないけれど、やりたいとは絶対に思えない。
「わたしがやったんじゃないって。感謝なら、今はお取り込み中の二人にね」
「お取り込み中……?」
「感動の再会ってやつだね」
そしたら邪魔をするのは駄目である。
それは本当に、とてもとても大切なことだから。
「まあ、それももう落ち着いた頃だろうけどね。━━そろそろ歩けそ?」
問いかけに合わせて下半身に力を入れてみると、しっかりと脚が動いた。思ったより早い回復だ。
「よかった。そしたらわたしたちも動こうか。いつまでもイチャイチャされても困るしね」
「……分からないけど、付いていくよ」
分からないことだらけだが、ルステラが合流するサインを出したのなら、取り敢えずはいいのだろう。
するとルステラは「そうだ」と言いながら、身を翻した。
「一つ言いたいことがあったんだった」
ルステラはあどけない笑顔を見せながら━━、
「わたしと友達にならない?」
「友達……」
「せっかく好きなものが共通してるんだしさ」
『天つ国物語』。セーラにとって、それは単なる一物語ではない。
共有できない思い出の詰まった、世界で唯一の物語。
きっと語る度に思い出してしまうのだろう。
カフ・シェダルという少女のことを。
だから、セーラはこの物語を愛している━━というわけではない。
『天つ国物語』だから、愛しているのだ。
「好きだけじゃ足りないよ。あたしたちにとって、それに対する気持ちはさ」
「奇遇だね。わたしたちにとっても、同じだよ」
二人の「たち」にはお互いは含まれていない。
だけど、その中にお互いを含める日はそう遠くないことを知っている。
セーラには、友達になるという言葉の意味を教えてくれた、かけがえのない存在がいるのだから。




