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暁の史記  作者: 焚火卯
二章
48/125

第十九話『セーラ・ミルヒカペラの史記』

 ━━セーラ・ミルヒカペラは病弱な少女だった。


 セーラが生誕したとき、一番初めにかけられた言葉は「この子は助からない」だった。

 低出生体重児で、産声すらすぐには上げなかったらしい。

 しかし両親は諦めなかった。寝る間も惜しんでセーラを死なせないように育児を行った。

 その甲斐あって、セーラは一年、二年と生き永らえて、今ではもう六歳になった。

 本当はこのくらいの歳になると、両親の手伝いなんかをしなければならない。堅く言えば教育である。

 だけど六歳になれはしたが、健康体ではなかった。

 ずっと身体が不調で、外出はおろか家の中すら満足に歩けない。寝台で窓の外を眺めるばかりである。


「生きてくれているだけでいい」


 両親はそう言ってセーラの罪悪感を薄めようとしてくれるが、これっぽっちも薄まらない。

 もらってばかりで返せもしないなんて、そんなの嫌だった。

 何かをお返ししたい。だけど、自分は外すらまともに出られない人間だ。到底何かができるとは思えなかった。

 そんな折だった。━━自分の持つ力に気づいたのは。


 セーラはずっとベッドの上にいて、唯一の楽しみと言えば本を読むことだった。

 時間は有り余るほどあったので、字はすぐに覚えられた。

 そうして本を読んでいると、たまたま精霊について書かれている本に巡りあった。

 とはいえ内容は精霊術の扱い方とかではなく、子供向けの作り物語だが。

 精霊には、低位、中位、高位のランクがあって、稀に大精霊へと成るということをセーラはここで知った。

 精霊は常人には視認することができないが、比較的どこにでもいることも同時に。

 それを学んだ瞬間、今までのことに得心がいった。


 セーラはたびたび、謎の光が見えることがあった。最初に見たのは四歳ぐらいの時だったと思う。

 始めてみたときはとても恐ろしいものだと思い、母親に泣きついたのを覚えている。

 それからしばしば光が見えるようになり、もうそういう物なのだと諦めたのがちょうど五歳になる頃だった。

 そして、現在セーラは六歳。今もまだ光は見えている。

 ━━その日、セーラは恐る恐る光に話しかけた。


「もしかして、精霊さんですか……?」


 ぽうっと浮かぶ小さな光がセーラの問いかけを聞いて、二度チカチカっと光る。

 その瞬間セーラは確信した。

 たびたび見える謎の光は、精霊だったのだと。


 その日からセーラの生活は色づき流れ始める。

 ちなみに精霊と話せることを両親には言わなかった。

 本当は隠し事なんて極力したくないけれど、この力があれば両親に何か返せると思い立ち、精霊のことを知られているとサプライズにならないと思ったのだ。


 しかし精霊という力は未知数だ。今まで読んできた本には、大したことは載っていなかった。

 サプライズを考えるのはいいけれど、それで大惨事にでもなれば大変である。

 なので、セーラは対話するという形で精霊への理解を深めようと決めた。

 もっとも精霊に喋るという概念はなく、セーラの言葉に対する感情がなんとなく伝わってくるだけなのだが。

 読んだ本では、大精霊になると喋れたりするらしいが、セーラの傍にいるのは低位の精霊ばかりだった。

 大精霊になったらなったで扱いに困るので、彼らにはそのままで居てほしいが。


「精霊さんたちはやっぱり大精霊に憧れたりするの?」


 十数の光が明滅して主張する。全員どうやら、いつか大精霊になるのを夢みているらしい。

 しかしその中で一人だけ、違う感情を持っている精霊がいた。


「私と一緒にいられればって? 嬉しいこと言ってくれるね」


 一匹手の中で、そんなことを主張してくれるのは、濃い黄色の精霊だ。

 この子はセーラが一番初めに話しかけた精霊で、それからずっと傍にいてくれている。


「でもね、やっぱり夢はでっかく持たなくちゃ」


 セーラは理解していた。夢は人を強くしてくれるのだと。

 何も持たずただ漫然と生きていたら、弱っていく一方だ。


「ん? 私の夢?」


 手の中の精霊が聞いてきて、セーラはベッドの上をゆっくりと窓まで移動した。

 ベッドの上から何百回、何千回と見てきた星空を指差しながら、


「私は、星になりたい」


 外に出ることができないセーラは、世界に対する強い憧れがある。

 だけど薄々気づいている。セーラはたぶん死ぬまで外に出られないと。

 だから星になって、特等席で広い世界を一望したいのだ。

 でも、それは━━、


「悲観的……なのかな? まあ、死後の話だしね」


 濃い黄色の精霊が悲観的だと言った。たぶん悲観的と言えば悲観的なのだろう。

 だけれど、セーラはその夢を実現させたいから強く生きられている。だって、星になれるのはいい子だけだから。

 でも、別の夢を願うなら━━、


「友達が、ほしいなぁ……」


 ポツリとこぼされた言葉に呼応して、精霊たちが一斉に光を強める。「ぼくたちがいるよ」と。


「そうだね、精霊さんたちが居てくれるから平気だよ」


 光を強めた十数の精霊に気を取られて、手の中の精霊だけは「ぼくたちがいるよ」なんて言ってなかったことを、セーラはついぞ気づかなかった。





 ━━来訪者は、唐突に姿を現した。

 それは代わり映えのしない、いつもの日常に起きた。


 セーラは決まって同じ時間に目を覚ます。まず普通に生活リズムが無茶苦茶なのはあまり良いことではない。

 それに、母親を煩わせたくもないのだ。

 きっとそんなことはないと言うけれど、セーラは食事を運んでもらっている身だ。ならば相応しい態度でいなければならない。

 優しさに甘えるばかりの生活をしていたら、きっと心が捻くれてしまう。

 だから、最低限のことは自分で行うようにしている。


 たとえば、朝起きて窓を開けるとか。

 鼻先をくすぐるそよ風に、セーラは毎日よろこびを感じる。

 この窓は世界と通じるたった一つの手段で、そよ風は繋がっている証だ。

 同じ景色に見えても、じっと観察したらちょっとづつ違う。

 雲のかたち、木々の揺れかた、鳥のさえずり。同じようで全部違う。

 違っているから、感動できる。


 最近はそれに加えて、精霊とお話しする時間も出来た。

 どれぐらい話しているのかというと、もうひとしきり話している。

 両親の良いところとか、読んだ本の感想とか、変顔の練習なんかも精霊に見せていた。本当にちゃんと伝わっているのかは知らないが。

 しかし、精霊たちは反応を毎回ちゃんと返してくれる。

 それがどれほど心の支えになってくれていたか、言葉には言い尽くせない。


 愉快なトークで親睦を深める。今日も変わらず行っていた。

 そんなときだった。━━異物が転がり込んだのは。


「━━誰とお話ししてるの?」


「ひゃいっ!?」


 唐突に鼓膜を震わせた声に驚き、喉がひきつってしまう。

 それをした当人は、目を丸くさせて「なんで驚いてるの?」という反応を示していた。


「━━━━」


 ━━風のような、少女だった。

 陽光を吸い込んだような短い銀髪を結び、控えめに突起させている。見え隠れしている八重歯も足し算して、与えられる印象は天真爛漫。セーラとは真逆のタイプだ。


「ねえねえ、誰とお話ししてたのー?」


 窓枠に組み付いて、少女は何故か楽しげに揺れていた。ギシギシと立てられる音が、何か嫌な予感を掻き立てるので、セーラは素直に答えた。


「せ、精霊……」


「精霊!? あの精霊!? 幻覚じゃなくて!?」


 なんて失礼な子だろうとセーラは思う。まあ実際、壁に話しかけていた時期はあったが━━それは置いといて。

 セーラはさっきまで話していた精霊に窓の近くへと移動してもらう。


「ここにいるよ。……ほら」


「……むむむ、うん! 見えないっ!」


「あ、そっか……」


 精霊は素質のある人間にしか見れないと本で読んだ。セーラがいくら場所を示しても、無理なのである。

 このままだと幻覚に話しかけている危ない人間と思われてしまう。

 どうしようかと考えていると、少女は「あ、でも」と声を上げた。


「その子は見えてるかも!」


 少女が指差したのは、濃い黄色の精霊だった。いつも傍にいてくれる子である。

 すると、その精霊は少女の周りをぐるぐると旋回した。


「やはは! 見えてる見えてる! 元気いいね! ━━よしっ、君は今日からミモザだ!」


「そんな勝手に……」


「でも、喜んでるみたいだよ?」


 濃い黄色の精霊に『ミモザ』という名前が付けられた。

 精霊に名前をつけるという発想が無かったので今まで無名だったが、急に与えるのもどうかと思う。

 ただ、濃い黄色の精霊━━ミモザはそれを喜んでいた。


「じゃあ、ミモザ……で」


 ミモザは光ながら喜びを表し、少女もそれを分かち合うようにして一緒に喜ぶ。

 八重歯を覗かせながら快活に笑う少女につられて、セーラの口元も緩んでしまう。

 ━━もう、すでに警戒心は解けていた。


「……名前」


「ん?」


「あなたの名前も、お、教えて……ほしい……」


 両親以外との話し方なんて、読んできた本には載っていなかった。だから、怖くてちょっと恥ずかしい。

 距離の詰め方はこれであってるのだろうか。変に思われないだろうか。でも、名前を尋ねるのはみんなすると思う。どのタイミングでかは分からないけれど。━━今、だったのかな。

 しかし少女は、そんな不安を全て吹き飛ばしてくれた。


「やはは! 急に俯くかと思ったら、そんなことかー」


「━━━━」


「アタシはカフ・シェダル。他にも質問あったらしていいぞう」


 片手で薄い胸をポンと叩き、何でもござれと笑ってくれる。

 でもたぶん、この後は自分の名前を返すのが定石だろう。


「私は、セーラ。セーラ・ミルヒカペラ。……えっと、質問していい?」


「うむ!」


 カフがこの窓に飛び付いてきたときから、ずっと思っていたことがあった。

 軽々しく片手を離したりしていたが、実はここ━━、


「ここ、二階なんだけど……どうやってきたの?」


 カフは何故そんな疑問を抱いたのか分からないという様子で、首を傾げた。





 カフ・シェダルはあの日から毎日のように来るようになった。

 最初の頃は窓から話しかけていたが、一週間を過ぎた辺りからは両親に説明し、普通に玄関から入ってもらうことなった。

 カフは身体能力が高く、全然問題ないと言っていたが、見てるこっちがヒヤヒヤするので大至急やめてもらったのである。

 だがカフにとって家は窮屈なのか、入れたら入れたで騒がしい。━━別に、悪くはないけれど。

 ただ、この日は違った。少しだけ、鬱陶しかった。


「ねえ、外行こうよー。ちょっとだけなら、行けるって」


「無理だよ……。そこの扉に行くのだって、難しいんだから」


 部屋の入り口を指差しながら、カフに自分の身体の状況を説明した。

 具体的な症状だと倦怠感や嘔吐感。心臓なんかも痛み始める。五歩も歩けば満身創痍だ。


「じゃあさ、トイレはどーしてんの」


「……それは、頑張っていけるようにした……」


「だったら、外へも頑張ったらできるんじゃないの?」


 行けるようになったとはいえ、苦労しなくなったわけじゃない。

 死にそうな足取りでトイレに向かい、排泄を済ませる。一応、部屋内に設置されているので、単純な距離で言えば入り口より近い。もちろん微差だが。

 だがその微差が、セーラを助けている。

 部屋の外になんて出たら、きっとこれくらいで収まらない。

 ただでさえ、排泄のつもりでトイレに行ったのに、嘔吐する羽目になることも少なくないのだから。


「頑張っても無理だよ。……それに、私はこれでいいから」


 両親がいて、精霊たちがいて、なんとカフという友達もできた。これ以上、なにを望むことがある。


「そんなこと言ってないでさ、頑張ろうよ。アタシもいるし手伝うって」


「……うれしいけど、本当に大丈夫だから。私は本当にこれで充分だから」


「ちぇー」


 床を爪先で弾きながら、カフは唇をとんがらせる。

 これでいいのだ。まったく成長しない姿を見られて、幻滅もされたくないし、いちいち気苦労も負わせたくない。カフにも両親にも。

 セーラは今のままで、十分幸せだった。


「でもさー」


 カフは笑いながら、ベッドに手をつき前のめりになる。

 いつもそうだ。カフは悩みなんて何もない、不安なんて抱いたこともないという風な、屈託のない笑顔を見せるのだ。

 天真爛漫で、人好きのする表情で、人の心に滑り込んでくる。

 そんな彼女が好きだった。救われていた。カフは大切な存在だった。


「無理とか無茶とか、言ってたら何も始まらないとアタシは思う。━━勝手に諦めんなよなー」


 他意はきっとないのだろう。それが彼女の人生観なのだと、一瞬でわかった。

 ━━ただそれが、セーラと絶望的に噛み合わなかっただけで。


「━━か、勝手に諦めてるとか……言わないでよっ!」


 激昂という感情を、セーラはこのとき初めて知った。

 見当違いで的はずれな激昂なことぐらい、後々になればすぐに理解できる。

 だけどまだ子供で、初めての友達で━━自分を律する方法なんてわからなかった。


「カフちゃんはいいよね。元気に外を走り回って、どこまでも行ける。それが当たり前だって疑ったこともないんだ!」


 息一つ切らしてる姿を、セーラは見たことがない。

 でも、きっと、それが当たり前なんだ。カフだけじゃない。みんなにとっての当たり前。家の中も満足に歩けない状況なんて━━想像できないのだ。


「だから、諦めることの難しさも知らない! 私がどれだけの想いで……ごほっ、げほっ」


 急に大声を出したせいか━━否、自分の身体が脆いせいで、咳が止まらなくなる。

 それを心配し、カフはセーラの手を掴み背をさすろうとするが、咳を堪えてはね除けた。


「……触ら、ないでっ! 諦めるなって言い始めたんなら、突き通してよ!」


「……心配は、心配だから……。また、違う、から……」


「だったら、もう、外に行こうなんて、言わないでよ……」


 シーツに顔を埋め、不甲斐なくみっともなく喉を鳴らす。

 もう、カフの顔なんて見られなかった。


「……ごめん」


 その謝罪を始点に、足音が遠ざかっていくのが聴こえる。

 一歩、また一歩とセーラから離れていく。

 扉の開く音に泣きそうになる。

 そして、ついに何も聴こえなくなった。

 カフはいなくなった。


 ━━その日から、カフはセーラのところに来なくなった。



 あれから二日経ったが、カフはいまだに来ない。

 でも、これで良かったのだ。

 カフだって、まともに生活ができなくて、会話もできなくて、足枷にしかならない人間と別れられた方が、人生にとって有益だろう。

 カフの人生に、セーラは居てはいけない。

 ━━それが彼女のため、そして私のため。


「……なんで、窓なんか開けてるんだろう」


 朝起きて、窓を開けて、そこから見える景色を目に焼き付ける。そして━━、


「違う、ただの日課だから。それだけだから……」


 誰かが入ってくるかもなんて、期待したことはなかった。

 これは日課だ。ただの日課。それ以上でもそれ以下でもない。


「……精霊さん」


 セーラが呼びかけると、部屋の中でまばらに光が浮かび上がってくる。いつも話している精霊たちだ。

 だが、最近見受けられない精霊がいた。それは━━、


「ミモザ、どこ行っちゃったんだろう……」


 ポケーと周囲を見渡しながら、最近見ないミモザのことを考える。

 そうしていると、他の精霊たちが「ぼくを見てよ」と光を放った。


「あはは、そうだね。君たちが、いるもんね……」


 そうして、セーラはいつも通り精霊と話し始めた。

 ━━虚しい。

 昨日なにをしたかとか、今日はどうしよっかとか、明日はどうなるんだろうとか。

 ━━虚しい。

 精霊は何を言っても受け止めてくれる。セーラの心を支えてくれる。

 ━━虚しい。

 カフみたいに、無理にセーラを連れ出そうなんてしない。


『……ごめん』


 ━━虚しい。


「……ぁ」


 精霊と話し始めて一時間も経った頃、セーラは何故か涙が止まらなくなっていた。

 ポツポツと雨が降ったみたいに、シーツに斑模様が付いていく。


「私が……」


 いったい何様のつもりで━━虚しさに涙を流しているのだ。

 自分で突き放したくせに。馬鹿みたいに感情をぶつけて遠ざけたくせに。

 しかも、たった二日で情けない。

 怒っていたはずだ。あの感情は、本当だったはずだ。━━少なくとも、あの場では。

 セーラは本当に、カフにあれだけ言葉をぶつけられるほど頑張ったのだろうか。


『……ごめん』


 別れ際の言葉が耳に強く残っていた。

 カフの言い方は確かに悪かったのかもしれない。だけど、カフだって一緒なのだ。

 セーラのように間違える。

 しかし、彼女は謝罪した。━━自儘で蹲っているのはセーラだけだ。


「━━謝らなきゃ……」


 セーラは謝罪しないといけなかった。

 許してもらないだとか、もう遅いだとか、全部覚悟の上だ。

 それでもなお、謝らなくちゃいけない。

 何にもできない自分だけど、感謝と謝罪は大切なことだから、ちゃんとしなくてはならない。

 ありがとう。

 ごめんなさい。


「カフちゃんに言わないと……」


 たどたどしい足取りで、セーラはベッドから離れて歩き始める。

 関節が痛い。筋肉が硬い。骨も細くて頼りない。━━でも、歩き方は知ってる。


「━━━━」


 ━━そう言えば、カフちゃんのお家はどこにあるんだろう。

 遠いのかな、近いのかな。大きいのかな、小さいのかな。


「あんまり、想像つかないや……ぅぐっ」


 心臓が軋むように痛みだし、膝をついてしまう。頭はぐわんぐわんと位置が定まっていないようで、脂汗も止まらない。

 なんて、弱いんだろう。部屋一つまともに出ることができない。

 ━━それでも、今日だけは前に進まなきゃ。


「……った」


 ドアノブに手が掛かり、弱々しい歓喜の声を上げる。

 人生で初めて触れて、初めて自分で開けた。すっと風が一本通り、気持ち身体がましになる。

 ゆっくりと、ゆっくりと、壁に手をかけながら廊下を進む。


「……だ」


 壁につけていた手が滑って、セーラは前に倒れ込む。だけどまだ、進めるはずだ。

 ずるずると、セーラは一生懸命這って前に進む。

 心臓が痛み、呼吸もだんだんと浅くなってきていた。

 だけど、意識があればセーラは進める。

 しかし、その意識も━━。


「…………ん」


 声が、セーラの意識に介入してくる。


「……ちゃん!」


 それは幻聴なんかではなく、確かに聞こえていて、


「セーちゃん!」


 明瞭な輪郭を持ち、セーラを引っ張り上げた。


「すごい汗……。アタシお母さん呼んで……」


「━━いいっ!」


 母親を呼びにいこうとするカフの服を掴み、セーラは引き止める。


「これ、は、私とカフちゃんのこと、だから」


 途切れ途切れに言葉を繰り出すセーラを、カフは優しく支えてくれる。

 血の気が失せて、寒さすら感じる身体には、とても暖かかった。


「カフ、ちゃん」


「━━━━」


「この前は、ひどいこと言ってごめんなさい」


 身体は冷たいのに、吐く息はやけに熱を帯びていた。

 それはきっと、セーラが本当に伝えたかった言葉だからだ。


「全部……全部、弱い私が悪、くて……」


「━━それは違う!」


 その熱を遮るように、カフの激情がセーラを包み込む。


「セーちゃんは弱くなんかないよ。だって、ここまで来たじゃん。セーちゃん自身の力で、部屋を出てきた!」


 ずっと無理だと決めつけていた壁を、自分の力で乗り越えた。

 きっかけはカフへの謝罪だったけれど、乗り越えられたのは事実だ。


「アタシの方こそごめんなさい。━━勝手に諦めてるなんて言って、ごめんなさい」


「……諦めてた、のは、本当だから」


 カフとの喧嘩がなければ、セーラはいまだに部屋の中で言い訳をしていただろう。

 どうせ無理だ無駄だ。━━そう思われるのが嫌だった。

 だけど、もう違う。セーラは、


「でも、私、頑張るから……。もう二度と、諦めないから。だから……」


 ━━見ててほしい。

 その言葉は、唇を摘ままれて言わせてくれなかった。

 その代わりに、カフは言った。セーラを慈しむように抱きしめ、囁いた。


「━━次は、一緒に頑張ろう」


 見ててもらえるだけで、充分だった。むしろ、それでも欲張りなお願いだとも思っていた。

 だって、あんなにひどいことを言って傷つけたのだ。これ以上は望めない。

 だけどカフは、それでもなおセーラの傍にいてくれる。

 迷惑かけちゃうのなんて承知で、セーラを支えてくれるのだ。


「━━━━」


 きっと返さないといけない言葉はいっぱいあった。

 なのに声は出てきてくれず、代わりにこぼれたのは涙だ。

 セーラは、泣いた。

 泣いて泣いて、泣き喚いて、カフの胸をべちゃべちゃにした。

 ━━それは、カフがセーラを部屋まで運ぶまで続いた。



「カフちゃん」


「ん?」


「お願いしてもいい?」


「いいよ」


「私の手、握っててほしい」


「わかった」


「ちょっとだけ、寝るね……」


「うん」


「カフちゃん」


「ん?」


「ありがとう」


「どういたしまして」





 あれから半年が経過した。

 カフとなら何でもできると気持ちを強く持ち始めたら、不思議なものでセーラの活動範囲は広がった。

 初めて外に出られたのは、頑張り始めてから四ヶ月後のことだ。

 一分にも満たない僅かな時間だが、セーラは確かに自分の両の足で家から出ることができた。

 両親は感動で涙し、セーラも大泣きした。感動もあるけれど、一番の理由は━━両親に何かを返してあげられたことによるものだ。

 もちろん、完治したわけではない。たまに本当にしんどく、一歩も動けないような日もある。

 だが、セーラは順調に成長していた。



「ダレオスさん、パン一つください」


「はいな、ちょっと待ってくださいね」


 セーラが今日来ていたのは、自宅の隣に店を構えているパン屋だ。村唯一である。

 そこの店主であるダレオス・コレリエモは気さくで優しいお兄さんだ。


「━━あっ! セーちゃんこんなとこにいたー! 家行ったのに、いなくてビックリしたよ~」


「ごめんね。でも、カフちゃんなかなか来なかったから。何かあったの?」


「何かあったというか、ちょっと家が騒がしくてさ。出ていくなって言われたの。目を盗んで出て来たけどっ」


 いたずらっ子めいた感じで舌を出すカフに、セーラは苦笑する。

 カフはあんまり家の雰囲気みたいなのが好きじゃないらしい。

 とはいえ行ってみたくもあるが━━、


『アタシの家は最後の最後。遠いからさ』


 遠く、今のセーラでは到底たどり着くことはできない。

 とりあえず今立てている目標を達成しないことには始まらないだろう。


「お待たせ、セーラちゃん。……おや、カフちゃんも。なにか食べるかい?」


「いいですいいです。アタシはお腹いっぱいなんで!」


 お腹をポンと叩き、満腹を示すカフ。それからダレオスは「そうだ」と話を切り替えた。


「今日も今から村長さんのところへ?」


「そうです。あっこが一番、分かりやすく遠いですからっ!」


「セーラちゃんは今どれくらいまで行けてるの?」


「八割……ぐらいです」


 村長の家は村の外れにあり、目標としてはふさわしい。

 ちなみに、八割というのは往路だけでの割合である。その後は、カフが背負子でセーラを連れ帰ってくれるのだ。


「まあ、見てなすって。セーちゃんとアタシは無敵ですから」


「だはは! 頼もしいね」


「はい。カフちゃんは頼もしいです!」


 手を繋いで大きく頷くと、カフは照れるように顔を背けた。でもちらと覗く八重歯が、満更でもないと語っていた。


「なんにせよ、村長に会えるまでもう少しだね。ヨルゼ村長もきっと待っているよ」


「はいっ!」


 ダレオスにも背中を押され、セーラは元気よく返事する。応援があるとますます頑張れる。

 しかし、それと同時にパン屋に誰かが入ってくる音がした。


「━━いつものパンはあるかのぉ」


 呑気な声音で入ってきたのは、ヨルゼ・ハインセン。この村の村長である。

 三人はその来訪者に目を丸くした。


「ヨルゼ村長! ちょっと空気読んでくださいよ!」


 ダレオスが茶化すように言うと、セーラとカフは耐えきれず吹き出してしまう。

 それに釣られてダレオスも、ぷっと笑いだした。

 ヨルゼは一人、困惑気味だった。



「来るなんてビックリだよなー」


「でも、逆にこれくらいがいいのかも」


「っていうと?」


 手を頭の後ろで組みながら、カフはもう一歩近く聞いてくる。

 とはいえ、そんなに難しい話じゃない。


「あんまり雰囲気が堅くなっても嫌だなって。ちょっと緩いぐらいが、やっぱり過ごしやすいよ」


「あーわかる。窮屈はアタシも嫌い」


 そうだろうねとは言わなかったけれど、それを含ませてセーラは苦笑する。


「だからさー」


 カフは組んでいた手を離し、ビシッと指を差した。

 それはつい一月前ぐらいに作られ始めた建物だ。森を切り開く形で作られている。


「あの建物は、ちょっと気に食わない」


「あれが何か知ってるの?」


「知らないけど、なんか嫌だ」


「……じゃあさ、今度村長のところに行った時に、聞いてみようよ」


 この目標の立て方をしたからには、セーラは必ず村長の家までたどり着けるように頑張らなくては。あの建物が完成する前に。


「やははっ! それじゃあ頑張らなくちゃね」


「うん!」


 その三日後、セーラは村長の家まで行くことができた。

 ちなみに聞いたところ、あの建物は自然調査のためのものらしい。





 月日は流れたが、変化らしい変化はそう多くはなかった。

 変な建物が完成したことと、セーラが七歳になったぐらいだろうか。

 意外と気づかないだけで、色々と変化したのかもしれないけれど。


「そういやセーちゃんって、まだ死んだ後には星になりたいの?」


 前方伸身宙返り二回半ひねりを決めながら、カフは不意に聞いてくる。彼女の身体能力も日々向上していた。

 それにセーラは拍手を送りながら答える。


「なりたいとは、思ってるよ」


「どーして? セーちゃんはもう自分の足で世界を見れるのに」


「まだ、そこまでじゃないよ……」


 カフに星のことを話したのは、本当に出会ってすぐのことだった。喧嘩するよりも前の話。

 セーラが星になりたいと願ったのは、広い世界を眺めたいと思っていたからだ。

 しかし、今すぐは無理でも、これから地道に特訓すれば世界を歩き回ることだってできるようになった。

 そういう点では、死後に星になる理由はなくなったのだろう。


「星は……みんなを見守ってくれる存在だから。私はそんな存在になりたい。……お母さんやお父さん。カフちゃんのことも見守っててあげたい」


「やははっ! 気持ちはうれしいけど、アタシはセーちゃんと一緒に見守りたい派かなー。それに両親はちょっと厳しいんじゃない?」


「確かに……」


 寿命という観点からだけで考えれば、明らかにセーラより両親の方が短い。昔はそれが逆だったのだけれど。

 そしたら━━、


「じ、自分の子どもとか……」


 言ってる間になんだか恥ずかしくなって、体育座りの山に顔を埋める。

 しかし、カフは埋まったセーラの頬をつついて、


「いーじゃん。アタシも見守るならセーちゃんか、セーちゃんの子どもだなー」


 八重歯を見せながら、元気な笑顔で言い放つカフ。その笑顔はいつも、セーラを助けてくれる。

 正直、結婚ならカフと━━なんて思ってしまいそうにもなってしまう。


「カフちゃんだって、将来あるでしょ? 結婚とか……」


「あると思うよ。━━きっと望まない形でさ」


 カフの眉が悲しげに下がる。その表情の名前が、諦めに見えてセーラは前のめりになった。

 それを押し戻すようにカフはセーラの額を弾いて、


「早とちり」


「だって、カフちゃんにそんな顔してほしくなかったから……」


「それは、ありがとうだ。でも、諦めてるわけじゃないんだよ」


 カフはセーラの鼻先をすっとなぞって、太陽の光を一身に受けながら歯を見せた。

 陽光が反射し、銀髪が綺麗に煌めいている。


「やりたくないことをやらされるかもしれない。だけどその上で、アタシはアタシのやりたいことを全部やる。やってやる」


「カッコいいね」


「セーちゃんだって、負けてないよ」


 セーラの頭を撫でながらカフは微笑んだ。

 彼女ならば、なにかすごいことを成し遂げそうな気がする。セーラもそれを見ていたい。


「カフちゃんのしたいこと、訊いてもいい?」


「いいよ、教えたげる。……あ、でも、ちょっと待って」


「え?」


「説明のために欲しいものがあるから、取りに帰ってもいい?」


「いいけど、遠いんじゃないの?」


「大丈夫。セーちゃんの家にだから」


 手を振りながら超スピードでセーラからカフは離れていく。あの調子だと、そう時間はかからないだろう。

 しかし、すぐ帰ってくるとはいえ一人は一人だ。木漏れ日の下、手を伸ばし光を掴もうとして━━、


「ミモザ」


 ふとその名前を呟く。カフが名付けた唯一の精霊。

 最近あまり話せていないけれど、その子はいつも近くにいてくれている。


「なんだか、久しぶりな気がするね。もっと出てきてくれていいのに」


 本心を告げたのだが、ミモザは謙虚に宙を回った。「自分のことはいいよ」ということらしい。


「━━やっぱり、私と居られたらそれでいいの?」


 ちょうど一年前くらいに、夢を語り合ったことがあった。そんなとき、ミモザは先のようなことを言ったのだ。

 あれはセーラを元気付けるためのものだと思っていたが、それが本当なら今はもう必要ない。━━言ってくれたら嬉しいけれど。


「━━ありがとね」


 遠くを見やるとカフが何かを持って帰って来ていた。あんまり視力がよくないのでちゃんとは分からない。━━本だろうか。

 それは正解で、カフは戻ってくるなりセーラの前に本を差し出した。


「『天つ国物語』……?」


 古びた装丁に印字されていたのは、そんな題名だった。名前から察するに、空の上のお話だろうか。


「その様子だと知らなそうだね」


「うん。というか私の家に、その本なかったと思うんだけど……」


「ああ、ごめん。これは勝手にアタシが挿し込んでてさ」


 人の本棚に勝手に入れたことは、気づかなかった時点で何も言えないのである。セーラは続けてと顎を持ち上げる。


「これは『気国』発祥の物語なの。あ、『気国』はアタシの出身地なんだけどさー」


「へ、へー」


 さらっと出てきた情報だったが、さらっと出てきちゃダメな情報だろう。

 とはいえ驚いていたらキリがなさそうなので、なんとか受け流した。


「そこがすんごい山間部にあって、まあ理由はあるんだけど……期せずして鎖国してる感じなんだよ」


 その辺りの情報はセーラも知っていた。

 『気国』アスクラウド。ファミルド王国に隣接する形で土地を持っている。

 ちなみに、この村からだと王都ファザスより『気国』の国境線の方が近い。知識があるのは、そのせいでもある。


「アタシの父さんが……いや、これはいいや。とにかく、人も物も全然行き来しなくてさー。それってつまり、文化が交わらないってことでしょ?」


 それは確かにとセーラは思う。とはいえそれが完全に悪いことなのかは、今の知識量で判断できるようなことじゃないけれど。


「そしたら、こういう物語とかが世に出回らない。それってどーなのかなって」


「……面白いから?」


「面白いから」


 即答されてセーラは鼻白む。しかし、それだけの代物だ。内容がとても気になる。


「ふつーに読ませてあげるって。というか本ごとあげるよ。……でも、今はまだ待って」


 本をパラパラとめくり、カフは勢いよく閉じた。


「アタシが持ってきた理由を話させて」


 にかっと笑みを生み出して、カフは先を語り出す。


「アタシたちって、本を与えられたらふつーに読めるじゃん?」


「うん」


「でもさ、これって結構珍しいんだ。……識字率って、まあアタシも正確な数値は知らないんだけどさ。そんなに高くないんだよ」


 セーラは偶然、幸か不幸か学ぶ時間が豊富にあった。

 しかし、大半の子はそうではない。


「文化を……物語を伝えるって言っても、これじゃ難しい。━━だから、アタシは絵本を描きたい」


「絵本?」


 絵本という言葉の意味を聞いたわけじゃない。ただ、面食らって思わず聞き返してしまったのだ。

 それにちょっとだけ、乖離が発生したのもある。


「もちろん最低限の文字は必要だけどさー、やっぱり取っつきやすくなるじゃん?」


「……『天つ国物語』を絵本にするの?」


 絵本を描くと言いながら、その本を持ってきたのならば、つまりはそういうことだろう。


「今の予定ではだけどね。『気国』発祥だし、面白いし、なにより好きだし。あと……」 


 指折り数えてカフは理由を述べていく。そんなに理由を連ねなくとも、カフがやるというのならセーラは応援するが。


「━━原本が失われたからかな」


 装丁を優しく撫でながら、カフは存在しない原本に思いを馳せていた。

 しかし、その文章が完全に失われたということではないだろう。━━果たしてこれは、どっち側なのか。


「ちなみにこれは原本の写しだよ」


「やっぱりそうなんだ……」


「たぶん、もう世界に十冊もないと思うけど」


 何気なく持ってこられた本だが、半端なく稀少性が高いらしい。

 しかしながら、どうしてそんな事になってしまったのだろうか━━。


「なんでそんなことになったの?」


「それは……『気国』の成り立ちとかから説明しなくちゃだ」


 自分の手を組み合わせて、物語の幕を引くみたいにカフは歴史を話し始めた。


「『気国』はね、遥か昔ファミルド王国の一部だったんだよ」


「そうなの!?」


 本をたくさん読んでいても、この世には知らないことが山ほどある。

 ファミルド王国のことはそれなりに知っていたつもりだったけれど、やはりまだまだ浅かった。


「実は互いの国の王様は、ちょー遠縁だけど血が繋がってるんだよ? まあ、『気国』の方に『星王の啓示』はもう残ってないけど」


「それって、王様が持ってるってやつだよね?」


「正確には王族にだけど。瞳の中に六芒星が浮かび上がるらしいよ。ちょっと見てみたいよねー」


 名は知っているが、実際に見たことがあるという人は少ないだろう。まあ、そんなに気軽に使えるものでもないのかもしれない。


「……で、まあ一緒だったわけよ。だけど、今は分裂してる。━━独立運動があったんだってさ」


 『気国』がファミルド王国の一部であることを知らないセーラは、当然ながら独立運動のことも初知りだ。


「その過程で『天つ国物語』の原本および写しは失われたのでしたー。おしまい」


 本を読み終えたみたいに手を叩いて、カフは歴史の授業を終わらせる。

 しかし、若干の疑問がセーラを襲っていた。


「……なんか、変じゃない?」


「変?」


「原本は国が持ってたから失われたって理屈は通るけど、写しに関しては個人が持ってるものじゃん。誰かが入念に消して回らないと、そんなことにはならなくない?」


「やはは! それは分かるけど、単純に数がなかったってだけの話だとアタシは思うよ。昔は製紙技術もそんなに高くなかっただろうしさ。現に、今は改訂版がいっぱい発行されてるんだし」


「……改訂版?」


「そそ、結末が違うの。……ネタバレしてもいい?」


 セーラはコクンと頷く。正直、こっちの好奇心の方が物語を読むより勝ってしまった。


「アタシが持ってる方は、主人公のレクトは最後に家族のところへ帰るの。だけど改訂版は、レクトがお世話になったエリスさんって人のところに残ることを選ぶの。アタシは当然、前者の方が好き」


「━━━━」


「なんで結末変えたんだろうって思わなくはないけど、まあ大したことじゃないでしょ」


 カフは勢いよく立ち上がり、セーラに指を突き立てた。

 そして━━、


「━━アタシはこの結末が好き。だから、みんなに届けたい」


 願いや夢や大言壮語は、語らないと実体を持ち始めない。

 カフはいま確かにそれを語り、セーラにもそれを視認できた。


「きっと、届くよ」


「やはは! じゃあ、最初はセーちゃんに届けようかな」


 セーラが、カフの願いの見届け人。その第一人者。

 だから、セーラはとびきりの笑顔つくって、言った。


「うん! 待ってるね!」





 月日の流れと、環境の変化というのは一心同体であるわけだが、その中にも不変たるものはある。

 当然のように変わらないもの。

 ━━カフがセーラのところに来るのは、変わらないと思っていた。


「今日も来ない……」


 ある日突然、一日来なかったことがあった。

 もちろんその次の日には来たのだけれど、カフ曰く家から出にくくなったということらしい。

 家の問題。カフはそう断言したのだ。

 二週間に一回だったのが、すぐ一週間に一回になって、今では三日に一回ぐらいのペースでカフは来ない。

 心配は送るのだが、カフは一過性のものだから大丈夫といつも言う。

 そのとき笑ってくれるから、セーラはそれ以上深入りしなかった。

 でも━━、


「静かだなぁ。━━ミモザも、そう思うよね」


 木漏れ日に交じりながら、ミモザは揺蕩っていた。セーラもどこかふわっとした気分だ。

 カフいないとき、自分が何をしていたかいまいち思い出せない。

 本を読んだり、精霊と話したり、それは確かにしていた。

 だがしかし、どれも何故か長く続かない。

 体力作りのために走ったりもしたけれど、これは長く続かないのでなく長く続けられないので、結局他のことをしているのとあまり変わりがなかった。

 このまま無為に時間を消費するだけか━━、


「━━ねえ、君ちょっといい?」


 魅力的なハスキーボイスが耳に届いて、何事かとセーラは振り返る。

 すると木の裏から一人の女性が出てきた。

 やや高めの身長で、纏った白衣は似合っているがこの場にはそぐわない。明らかに村の人間ではなかった。

 しかし、それ故にセーラは判然とする。この人はたぶん━━、


「あなたは……」


「私はしがない研究員━━」


「━━あの変な建物に住んでる人ですか?」


 数ヵ月前に完成した謎の建物。村長から聞くに、それは自然調査を行うためのものらしい。

 しかし実際に、それを行っているものに会うのは初めてである。


「変な建物……まあ、そんな見え方もするか。でもそんな変なことはしてないよ」


「自然調査って聞きました」


「およ、知ってんのね。でもそれじゃ半分かな」


 胸の前で三角を作りながら、セーラの言葉を不十分だと指摘する。

 しかし村長から聞いたことをそのまま伝えて、半分しか正解していないは、何だか由々しき事態な気がする。


「私たちは自然と魔力の関係性について調べてるよ」


「魔力……」


 セーラはもちろん魔法の類いを扱うことができない。カフや村のみんなもできないだろう。

 だけど、セーラは普段から精霊と通じているため、漠然と魔力に対する理解があった。

 目の前の女性の話がすんなりと入ってくる。


「そして今注目度が高いのが……精霊なんだよね」


 申し訳なさそうな顔をしながら、女性はそう言った。

 先の言葉を紡がなくとも、流石に意図は理解できる。━━精霊と会話できるセーラに話しかけた理由を。


「だから、私ですか……?」


「たまたま精霊と話してるところが見えちゃったからね」


 頬を掻く女性を、セーラは訝しむ。

 本来、精霊とは普通の人には見えない。ミモザはカフも視認できたが、それ以外は一例もなかった。

 なので、いくら精霊を研究していたとて、見えるのは独り言している少女だけだろう。


「━━もちろん、完璧にではないけど、精霊の気配ぐらいならわかるよ」


「━━!?」


「そりゃ、何年もやってるからね」


 どうやら技術力で、色々とカバーできているらしい。しかしそれなら、セーラの特異性があまり有効でない気もするが━━。


「しかし、会話するみたいなことは難しい。精霊は私の言葉を理解できても、私が返答を受け取れないからね。そしてもちろん精霊術みたいなことできない。……現時点では」


 つらつらと不備を並べ立てて、女性は肩をすくめる。

 しかし、指を立てて好奇心が抑えられないという表情を浮かべてセーラに言った。


「君がいれば、精霊の可能性がもっと広がる気がするんだ。どう? 私と来ない?」


 手を差し出して、女性は提案をしてくる。

 セーラはまだ、精霊と話せることを両親に話していない。それは単純に言う機会を見失ったからだ。

 しかし、初めに隠そうとしたのは━━、


「━━私が行けば、お父さんやお母さん……みんなの、役に立てますか?」


「君の力があれば、歴史だって変わるよ」


 ずっと何かを返してあげたかった。

 だけどそれは簡単なことじゃない。身体的な都合もあったし。

 けれども、ここで頑張りが認められれば、きっとお返ししてあげられる。

 唯一、セーラが持っている特異な力。それが最大限、使うことができるのだ。

 ならば━━、


「私でよければ、お願いします」



 その日は簡単な検査が行われただけで終わった。

 どうやら、セーラの魔力は精霊との親和性が高く、その範囲が広いらしい。

 だから、色んな精霊と話すことができたのだ。とはいえ最近はミモザ以外とのふれあいも少なくなってきていたけれど。

 だが、いい機会だ。改めて精霊たちと親交を深めようと思う。


「大丈夫だって。ミモザは心配性なんだから」


 黄色い光を指でつつきながら、セーラはその日を終えた。





「━━━━」


 無機質な空気が肌に触れて、セーラは目を覚ます。

 意識が起きてくるとともにじわりとした痛みがセーラを襲う。

 腰回り、足首、手首、頭も少しだけ痛む。それと、なんだか変な感覚だ。

 頭が痛むのと、僅かにだがふわふわとしている。意識は確かに起きているのだが、五感がいまいち起きれ切れてないみたいだ。

 しかし、ややあってジャラという音が聴こえてきた。

 その音は、確かに鎖の音だった。

 ジャラジャラと身体を捩るごとに音が増していく。

 だって━━、


「━━なに、これ……っ」


 ふわふわとする頭を振り、強引に視界を取り戻すと、自分の現状が一発で判明した。


 ━━手足を鎖で拘束され、壁に磔にされていたのだ。


「ぃ、や……。なんで、私……っ」


 手足を動かしてもがくが、増えるのは擦過傷だけで、拘束が外れる気配はない。

 何が起きているのか、わけがわからなかった。

 セーラが一体何をしたというのだろう。


「助けて……! 助けてっ!」


 無我夢中で助け呼ぶが、目の前の闇に吸い込まれて何も返ってこない。

 ここはどこなのだ、一体━━違う、違う違う違う違う違う違う。そうじゃない。

 明日また来てと言われた。そしてセーラは行った。

 ━━だったら、いるはずだ。


「━━精霊さん! いるんでしょ!」


「━━━━」


「精霊さん!」


「━━━━」


「精霊さん……」


「━━━━」


「ミモザぁ……」


 誰も、セーラの言葉に反応してくれない。虚しく転がって、次第に音を失った。

 喉が張り裂けそうな叫びも、嗚咽混じりの慟哭も、祈り願う哀声もどこかに届くことはない。

 ━━お父さんにもお母さんにもカフちゃんにも、絶対に届かない。


「━━━━」


 身体から急速に熱が失われていく。もう、どうにもならない。

 闇がセーラの心を蝕んでいく。もう、抗うことなんてできない。


「━━━━」


 光の失われた瞳で、自分の足首に視線を向ける。ジュクジュクと血が滲んで痛そうだ。

 痛みなんて、久しぶりに感じた気がする。最近はある程度運動しても、心臓が痛まなくなった。

 まあ、心臓の痛みと擦れて破れた痛みは別種のものなのだけれど。


「━━━━」


 急に、火事場の馬鹿力的な感じで、鎖を引きちぎれたりしないだろうか。

 ━━無理か。

 もう、無理か━━。


「━━セーラちゃん」


 不意にハスキーな声が届いて、セーラは反射的に顔を上げる。そこには、背の高い女性が立っていた。

 彼女は、セーラを誘った研究員だ。

 つまり━━、


「━━私は君を助けに来た」


 そう言うと、女性はセーラの拘束を外し始めた。


「なん、で……?」


 だが、その理由がまったく分からない。

 セーラがこうしているのは、彼女がセーラに話しかけたからで━━、


「━━ごめんなさい。私は体よく泳がされていただけだった」


「え?」


「全部あの男の手のひらの上で。……でも、もう大丈夫。私が助けるから」


 左足の拘束に手をかけ、女性はそれを迅速に外す。そして立ち上がり、左手の拘束に取りかかろうとした。

 そのとき、目と目があって、思わず口をついて出てしまった。


「あの……研究員さんの、お名前」


 セーラを助けてくれた恩人である、彼女の名前を知りたかった。

 彼女は科をつくって微笑み、優しい顔つきで━━、


「━━私」


 ━━びしゃり、という不愉快な音が先を綴ることを許さなかった。

 拘束具の外れたセーラの左足が、赤い液体に浸される。

 指の間に絡み付き、セーラが現実から逃げるのを阻止していた。


 ━━死んだ。


「い、やああぁぁぁぁぁっ!」


「━━騒ぐなよ、耳がキンキンするんだよ」


 男の声が届いたような気がするが、セーラは女性に駆け寄りたくてそれどころじゃなかった。

 左手の拘束が、右足の拘束が、右手の拘束が━━腕も脚も邪魔だった。


「ダメ……、死なないで死なないで……」


「それは流石に無茶が過ぎるだろ……」


 男の言葉などセーラには届かない。あるのは、セーラを壁に繋ぎ止める邪魔な鎖の音だけだった。


「━━おい、それはもういいから」


 ジャラジャラと耳をつんざく鎖の音の中に、なにか変なものが混じった。それは、突き破るような音で━━、


「ぎぃ、ぅあっ!」


 セーラの大腿部に、深々と刃が差し込まれていた。肉を裂き、骨を叩く刃に思考が真っ赤に染まる。


「なに言ってんだ、後で内から治せるだろ」


 男の言葉はセーラではなく、どこか違う方向に送られていた。

 しかし、治すという言葉が聞こえた。━━少しだけ、落ち着きが戻る。


「必死だな。……まあいい、話せるか?」


「━━━━」


 男の顔をセーラはやっと認識する。

 褐色の髪と、目立つはオッドアイの瞳。右が青色、左がエメラルドグリーンだ。


「何も説明がないというのも悪いし、少しだけ説明をしようか」


「せつめ、え……」


 そうだ。説明は、必要だ。説明はひつようだから。大事だとおもうから、耳を傾けよう。


「俺たちは……というか提唱したのは俺なんだが、かねてより精霊の利用可能性について探究していてな。色々とやっていくなかで、まあ当然ながら問題にぶち当たる」


「━━━━」


「それで、解決方法を模索していると━━お前に出会った」


「━━━━」


「お前なら解決できるかもしれないと、思い立ったわけだ。昨日の今日でなに言ってるんだって思うかもだが、実は前々から目はつけていた。お前にとっては始まりだったのかもしれんが、俺にとって昨日は最終審査だったんだ」


 男は自分の研究結果を嬉々として教え続ける。


「じゃあ何をしたくてこんなことをしたのかというと━━俺は精霊から半永久的にエネルギーを取り出せると踏んでるんだ」


「━━━━」


「だから精霊を繋げてみたりしたんだが、どうも上手くいかない。だから人間を媒介させることにした。結果はほとんど正解だった。エネルギー……魔力が増幅し循環したんだ。とはいえ一体じゃ出力が心もとない。だったら数が増やせばいい。しかし、ダメだった。━━精霊の所持制限に引っ掛かるんだ」


「━━━━」


「精霊術師は、精霊を二体以上使役するのがほとんど不可能なんだ。互いに喧嘩してしまうし、魔力も一体目の方に馴染んでしまう。━━だから、お前は異端なんだ」


 セーラが使役していた精霊はおおよそ二十体かそこらだった。

 その全ての精霊と、セーラは同調していたのだ。


「これだけの数を取り込めるのならば、消費より回復の方が上回る。足りなくなったら、また足せばいいしな」


「取り込む、って……」


「経口摂取だよ。精霊って食べれるんだぜ? 知らなかっただろ」


 セーラは絶句する。男の所業に、絶句する。

 なにもかもが最悪で、根源的な嫌悪が沸いてくる。


「で、も……。精霊さんは……」


「━━話をしたら、二つ返事で協力してくれたさ」


 男が指を鳴らすと、精霊が無数に現れる。

 ━━全部、セーラの傍にいた精霊たちだった。

 しかし━━、


「精霊は、一人一体って……」


「ああ、それは俺も例外だからな。所持制限ではなく、肉体的な話でな。━━俺が、精霊を取り込んだ第一人者なんだ。そのおかげで、精霊とある程度の会話ならできるようになった。オッドアイは目立つから嫌なんだが……」


 片目を閉じながら、男は嘆息した。


「なんにせよ、精霊たちはお前に取り込まれることを良しとしているぜ。よっぽど魔力が気に入ってるらしい。俺も精霊が混じってるから、なんとなく分かる。実際、精霊なんて自分に都合のいいことしか考えてないからな。マインド的には強姦魔みたいなもんさ」


「━━━━」


「大丈夫、死にはしないさ。低位の精霊だしな。━━ほら、早く取り込め」


 男に顎を掴まれ、強引に口を開けさせられる。セーラの力では抗いようがなかった。


「……ぅおえ、ごぇ」


 えづき、盛大に吐き戻す。

 しかし、精霊は一体、また一体とセーラの体内に侵入してくる。

 何か深いところで結びつく気配がして、その度に何かが切れていく気がした。


「これで全部だが……自我の主導権、流石に移るよな……。じゃないと、契約の履行もクソもないんだ」


 聴覚がぼやけ、目の焦点も次第に合わなくなってくる。

 寒さと暑さと苦しさが襲いかかり、脚がガクガクと震えていた。

 取り込んだ精霊はセーラの体内を蠢き、内臓を愛撫されているような不快感が脳を突き刺す。

 ぐちゃぐちゃ、ぬちゃぬちゃ、自分が薄まっていく、

 ぐちゃぐちゃ、ぬちゃぬちゃ、遠のいていく。

 混じって混じって混じって混じって━━意識が━━






 ━━━。

 ━━━━━━━。

 ━━意識が戻ったわけではないと、セーラは本能的に理解していた。


 あれからどれほどの時間が経ったのだろうか。

 あの男の言葉から察するに、外ではセーラの肉体は好き勝手使われているのだろう。

 おそらく、自我の主導権を精霊に取られて。

 今のセーラは、粘着性の暗闇で魂だけが存在している感じだ。

 腕もなければ脚もない。視界という概念も厳密には存在しない。━━だが、ここは闇だ。

 セーラはそれを理解しきったが、やはりこれは意識ではない。

 意識は脳の機能だ。だがセーラは今、魂が剥き身になって放り出されている。


 死にはしないという言葉は、まさしく傑作だ。

 セーラは当然ながら死んではいない。それ以外の全てを失っただけだ。

 このまま肉体が朽ちるまで死ぬことはできない━━あるいは、それすらも既に超克してしまったのかもしれない。

 ━━だが、なんだかもう全部よくなった。

 どうしようもできないし、どうにもならないし。

 正直、セーラのおかげでファミルド王国ないし世界が豊かになったのなら、目的は半分くらい叶ってる。

 お別れは言えてないけれど、もう諦めるしかない。間違えたんだ、仕方がない。

 諦めるしか、ないんだ。

 

『無理とか無茶とか、言ってたら何も始まらないとアタシは思う。━━勝手に諦めんなよなー』


 カフの言葉が、セーラの魂を穿つ。

 この言葉を、以前のセーラは受け入れられなかった。

 諦めるという行為の難しさを、理解できていない発言に思えたからだ。

 しかし、諦めないという行為が簡単だったわけじゃない。

 どちらもセーラにとっては苦しいものだった。

 ━━それでも、あのとき諦めないことをセーラは選んで、大切なものを得られた。

 カフと共に歩んだ一年。それはセーラを形作る最も重要な部分だった。


 諦めないことが、必ずしも素晴らしいことではない。

 だけど、セーラは諦めない素晴らしさを知っている。


 だから、こんなところで終わってられない。

 もがいて足掻いてかじりついて。みっともない姿なんて、今までいくらでも見せてきた。今さら恥ずかしがることなんてあるもんか。

 そして、いっぱいごめんなさいしよう。

 両親、カフちゃん、あの研究員さん、ダレオスさん、ヨルゼ村長、他にもいっぱいの人に、勝手なことしてごめんなさいと言わなくては。

 許してもらえなくても、それを絶対に言ってやる。


 ━━起きて。私、早く起きて。


「━━━━」


 必死に両手を伸ばし、這い上がろうと懸命になる。

 ━━すると、一条の光芒が射し込んだ。

 それはまさしく奇跡だったのかもしれない。

 きっとこれが、出口だと、セーラは必死に両手を伸ばす。

 伸ばしていって━━。



 ━━あれ? 私に両手なんてないはずなのに。



 いや、これは気持ち的なことだ。両手を伸ばしているような感じで、光に向かっている。

 実際に両手を伸ばしているわけではないだろう。

 ただもし縋るように両手を伸ばすのなら、その先にはきっとカフちゃんがいる。

 カフちゃんは、セーラの光だから。

 ━━そんなことは今はいい。

 とにかく、もう少しで自我を取り戻せそうだ。


 ━━起きて。私、早く起きて!


「━━━━」


 ━━早く、早く、セーラ・ミルヒカペラ!



「━━起きて!」



 目覚めだ、芽吹きだ、セーラは帰ってきた。

 ━━同時に、セーラはカフ・シェダルの首を、小さな両手でへし折った。


「カフ、ちゃ、カ、ぇ……?」


 眠っていたわけではない。むしろ強く願っていたが故、意識はかつてないほどに明瞭だった。


 ━━首がおかしな方向に曲がっている、カフ・シェダルが力なく横たわっていた。


 誰が━━セーラが。

 誰がこんなことを━━セーラがやったのだ。

 誰のせいで━━セーラのせいだ。


「う、そ……。うそだよね。そんな、っ、カフちゃ……、ねえっ」


 冗談だよと笑ってほしい。嘘だよと不安を吹き飛ばしてほしい。

 涙を流し、引きつった口角を湛え、必死にカフに語りかける。

 カフが死ぬわけない。だから、全部うそっぱちだ。

 そうなんだ。きっと、そうだ。

 だから━━、


「━━起きて……」


 ━━その願いが果たされることは、もう永久に訪れない。



 村の惨劇を、セーラは直視する。


「━━━━」


 ━━自宅では、両親が全身を何かに貫かれて絶命していた。


「━━━━」


 ━━隣のパン屋のダレオスさんは、何かに頭蓋上部を溶かし取られていた。


「━━━━」


 ━━ヨルゼ村長も同様に、筆舌にし難い有り様だった。


「あたしが……」


 セーラが、これを全部やったのだ。

 それが、分かる。

 セーラの体内で、イレギュラーが起きた。

 自分の身体のことぐらい、自分で分かる。

 低位の精霊が、セーラの魔力と結び付いて━━一匹残らず大精霊に進化した。

 後は自我のぶつかり合いだ。

 みんなは、それに巻き込まれた。

 セーラの自我が、魂が、弱かったせいで。


「━━━━」


 死体を見た。死体ばっかの地面を、セーラは歩いた。

 血が、足を染める。血が、手を染める。血が、思考を壊す。

 もう、何も見たくない。

 死が欲しい。

 死。


「━━━━」


 セーラは血染めの掌を見つめ、薄ら嗤いを浮かべる。

 みんなが混ざりあった、小さな掌。


 ━━それを思いきり、自分の両目に突き刺した。


 嗤う、嗤う。


「━━━━」


 ━━あたしが全員、殺しちゃった。



「……ぅ」


 セーラは死ねなかった。

 それどころか、自分で壊した瞳も元に戻っている。

 だって、こんなにはっきりと見えているのだ。


 ━━自分がまた、暴れてしまったことを。


「……なんで」


 セーラに宿りし精霊は、セーラが死ぬことを肯定しない。

 精霊が宿り続ける限り、セーラは死ぬことができないのだ。

 それだけでなく、自我の主導権が精霊たちに移り、また力の限り暴れてしまう。


「……ぅ、もうっ、ぃ。……なんで!」


 死ごときじゃセーラは止まってくれない。

 むしろ、死を望めば望むほど不幸は連鎖していく。

 セーラは死ねない。後追い星になんてなれない。


「……なきゃ」


 自覚からの行動は早かった。

 暴れていたときの記憶はなくとも、セーラは自分の能力を無意識で把握していた。


「縛ら、なきゃ……」


 皮肉にも、先刻の経験が役に立つ。鎖に縛られ磔にされたおかげで、イメージは容易かった。

 自分の魔力に干渉し、精霊を通して鎖へと変質させていく。


「縛らなきゃ縛らなきゃ縛らなきゃ」


 こんなものを野放しにはできない。

 溢れ出す鎖が、セーラの顔を覆い、全身に絡み付き、後ろ手で頑強な枷を嵌める。

 幼い身体を、うっ血しそうなほどきつく縛り上げた。


「━━贖って」


 鏖殺をしてしまったセーラ。

 不用意に死ぬことはできないし、誰かを生き返らせることもできない。


 ━━だったらセーラは、これからの不当な死を全て否定する。


 贖う。それしか道はない。

 この力の本来の目的を果たさなくては。

 国のため、人のため、この力は使い潰されなくてはいけない。

 そして、良いことをしていれば━━きっと、いつか死ねるから。



 約九年後。セーラは一人の赤子と出会う。

 名を、ウィリアム・スカイラーク。

 川に捨てられたが、赤子ながら『星王の啓示』を海洋生物に用い、生き残ったところをセーラは拾う。

 セーラの信条が、見過ごすことを許さなかった。

 同時に━━セーラは思ってしまった。


 彼ならば、セーラを真の意味で殺せるのではないか、と。





「さてと、話をしようか、セーちゃん」


 その声の主を、セーラは一生忘れることはないだろう。

 だからこそ、セーラは不覚をとった。

 カフという存在が、セーラにとって大きすぎたから。


「あんな紛い物じゃなくて、本物のカフ・シェダルとさ」


 気持ちよく笑ってくれるカフは、確かに本物で、実物だった。


 ━━やっとお迎えが来たのだと、セーラは静かに笑った。

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