第二十二話『敗北』
まず一番最初に決めたことは『絶対に飛び出していかないこと』だった。
リゾルートは事細かに話を聞いたわけではないが、フラムが尊くも危うい精神性を持っていることは端々から感じ取れた。
━━フラムは、誰かのために身を挺することを厭わない。
聞けば、ここへやって来たのも、ルステラを庇っての事だったらしい。
もちろん、リゾルートが危うい状況を作らなければ済む話なのだけれど、作らないように努めるのだけれど━━実力は重々把握している。
死なばもろともなんて馬鹿げたことは考えないが、危うい場面に直面することはあり得る話なので、二人の間でちゃんと約束を結んでおいた。
それが終われば、次に上がってくるのは方策だ。その端は、フラムから発せられた。
「引き寄せて、通路に戻って、攻撃ってのはどう?」
通路と闘技場の境のところで、フラムは遠くの黒狒々を指差しながら、そう提案した。
「ヒット&アウェイは一見有効そうに見えるが……」
リゾルートもフラムの指を追って黒狒々を眼に捉える。
フラムの報告と、リゾルートの確認通り、ここの黒狒々はどうしてか通路まで入ってこない。
確かにそれは優位性になるが━━、
「一度でも攻撃を与えてしまえば、とみに通路まで襲ってくるやもしれん。そうなれば対処のしようがない。加えて、小職の軍刀では、流石にここからではいくらやっても致命打は与えられん」
腰に携えた軍刀に目をやりながら説明をする。
リゾルートの持っているものは、一般的に支給されているものよりかは幾分か品質が高い代物だが、特別な効果が付与されているといったことは全くない。
もちろん武器は基本的にどんなものでも、使用者の力量次第でどうとでもなる。フレンやアレキスなら、斬撃を飛ばすぐらいの芸当を披露しても驚きはない。
しかし━━否、当然、リゾルートはそんなことはできない。黒狒々が攻撃してこないのを良いことに、今ここで練習したところで、習得より先に寿命で死にそうだ。
「攻撃は直接与える。━━初撃が分かれ目であろうな」
目の前にいる黒狒々の行動原理がわからない以上、迂闊に手を出すことはできない それをして、むやみやたらに暴れられれば手も足も出せなくなってしまうからだ。
黒狒々の膂力を受け止められるほど、リゾルートは頑丈ではない。
故に、優位性を確保できる初撃にほとんどが懸かると言っても過言ではないだろう。
そして、そのためには、
「一つ、確認したいことがある故、協力してくれるか?」
「うんっ!」
「それでは……」
元気よく返事をしたフラムに、リゾルートは確認要項を説明する。
リゾルートが確認したかったのは━━二人以上が闘技場内に入ったとき、標的になるのはどちらかという事だった。
リゾルートたちのいる通路は、闘技場に出られる━━便宜上入り口と呼ぶが、その入り口が、五つある。
もちろんどれも出口には程遠いけれど、微細な距離の差はちゃんとある。故に、色々な検証がやりやすかった。
まずは━━、
「せーのっ」
フラムの掛け声とともに、二人はそれぞれ別の穴━━リゾルートは左から一番目、フラムは左から三番目から闘技場に身を出す。
最初に確かめた通り、黒狒々は唸りながら猛然とこちらへ迫って来━━フラムの方へ一直線に近づいていった辺りで、二人は通路に戻った。
「━━━━」
そしてすぐに次の検証を始める。
次はリゾルートが左から一番目、フラムが左から五番目━━黒狒々から一番遠い場所から身を出す。そして、今度はリゾルートが確実に闘技場に出てから、フラムが出るようにした。
━━結果は先と同じで、黒狒々は猛然と、フラムの方へ向かってきた。
その後も、二、三回同じようなことをしたが、フラムの方へ向かってくるという結果が覆ることはなかった。
「全部、フラムの方に来たけど……なんでだろね?」
純粋な疑問をフラムが口に出す。
もはや必然とばかりに黒狒々はフラムへ迫っていくのだ。ならばそこには理由がある。戦闘力の違いか、あるいは━━、
「━━黒狒々は、耳や鼻がそこまで発達していないが、群を抜いて発達している器官がある」
「筋肉?」
「それが一つだ。そして、もう一つ━━目だ」
今日まで生態が判明していない魔獣は多く存在しているが━━黒狒々は、だいぶ研究が進んでいる方の魔獣であった。
「単純に視力が良いことに加え、夜目が利いたり、視野角も広い。だが、それだけではフラム嬢を狙う理由にはならない」
初めて教えてもらったとき、かなり眉唾な話だがと前置きされたのを覚えている。
だが七年前の『魔獣強襲』を経験したリゾルートは、その話が蓋然性の高いものだと思っていた。━━黒狒々は、何かが視えている。
「しかし、黒狒々の視力はそれだけではない。━━見えないものが、視えている」
「━━━━」
「例えば、潜在化している精霊だとか、魔力の流れ、保有量、そういったものだ」
そこにあり、しかし、一般的には見ることができないもの。おそらく黒狒々の目にはそれらが映し出されている。
「その情報を元に危険度や脅威度を区別している。もっとも攻撃をされた場合は、それをした相手に向かうだろうが……」
魔獣という字面から牧歌的な想像ができないように、魔獣とは本能の走るまま人類に仇をなす。
本能で危険度を計り、本能で脅威度を修正するだけの生物。━━よほど人の方が恐ろしい。
「……フラムは、魔力? っていうのが多いってこと?」
「うむ。断定はできないが、確度は高いだろう」
リゾルートも魔法について詳しいわけではないので、魔力量という漠然とした概念がどこまで当てになるか分からないが、黒狒々の見立てではたぶんフラムには素養があるのだろう。
そんな将来性に目を細めていると、フラムは頬に手を当てながら小さく緩めた。
「えへへ~、ちょっとうれしいな」
「━━━━」
「あのね、さっきねルスちゃんと約束したの! 今度、魔法を教えてくれるって! だから……ぁ」
「どうした?」
好調に話すフラムの言葉尻が、突然下がる。何事かと眉を寄せて訊いてみると、
「あの、えっと、フラムは……リゾさんのことをズーンってさせようと思って言ったわけじゃなくてね……」
「━━そういうことか」
控えめにあたふたしてるフラムの言葉を受けて、先の理由に合点がいく。
黒狒々がフラムを狙うのは、フラムの方が魔力量が多いということで━━つまり、リゾルートに勝ってしまったということだ。
「よいよい。魔力量が多いというのは、誇れることであって、断じて譲るものではない」
「リゾさん……」
「もちろん驕るのはいけないが……。少なくとも、小職の前では胸を張れ」
一回りも二回りも年の離れた少女に抜かれているという気持ちの多寡は論じない。
彼女は子供という名の将来性だ。━━ただそれだけが、リゾルートの胸の中で主張する論理だった。
「うん。……うん!」
一度目は浅く、二度目は強く頷いて、フラムは愛らしい笑顔を浮かべる。
「そしたら、議論に戻るぞ。━━そろそろ、魔獣の倒し方について話そう」
数々の検証を重ねてきた集大成だ。通路、入り口、感覚器官、優先的に狙われる対象。━━そして、最後にもう一つ語るべき事がある。
「まず、黒狒々は一撃で倒す」
ヒット&アウェイという手がどうなるかわからない以上、攻撃を与えれば、優位性が崩れる可能性だってある。
故に、攻撃はそれを崩させないものにしなければならない。━━つまり、一撃で仕留めるしかない。
「黒狒々は姿こそヒト型ではあるが、体のつくりは微妙に違っている。今回は心臓に絞って話すが……、奴の心臓は正中線━━よりかなり外れ、右の肩甲骨の少し下辺りにある」
故に、他の生物と同じ感覚で攻撃をしてしまうと、全く致命傷でない傷を開いた黒狒々に返り討ちにされてしまうので注意が必要だ。
「加えて、あの巨体に反して、心臓はフラム嬢の握りこぶし一つ分ほどである。捉えるのは、容易ではない」
「━━でも、リゾさんならできるんでしょ?」
フラムの信頼を何度も実感し、何度も心が奮い立つ。
それをただの蛮勇で終わらせないためにも━━、
「うむ。故にその方法で━━討伐開始だ」
○
作戦自体はとてもシンプルなものだ。
フラムが黒狒々の標的となるところを、リゾルートが後ろから刺す。言ってしまえばそれだけのこと。
ただ成功確率を上昇させるため、黒狒々の位置調整などはかなりシビアに行った。
「もう少し、背を向けてくれるのが望ましい」
「わかった!」
元気よく返事をするフラムの挑戦は、都度七回目だった。
ある程度、行動パターンも把握できてきた次の八回目━━チャンスは来た。
「━━ッッ!」
黒狒々が唸りながら、フラムへと接近する。
━━今回は上手く、リゾルートが視界に入らない位置だ。
足音はあまり気にしなくていい。ただ懸命に走れ。そして━━、
「━━はっ」
飛び上がり、リゾルートは黒狒々の背中にへばりつく。
何者かが乗っかってきた感覚に動かされ、黒狒々は背中に視線を向けようとするが━━もう遅い。
リゾルートは背中をよじ登り、既に肩甲骨の下━━心臓を穿っていた。
どんな生物でも心臓を貫かれたら、まず生存することはできない。黒狒々は例外じゃない。
心臓を穿たれた黒狒々は、力なく前方に倒れた。━━囮を受け持ってくれたフラムも、ちゃんと避けてくれた。
━━黒狒々は無事に討伐された。
「何か……」
「━━リゾさんやった! 倒せた!」
てとてとと走ってくるフラムに意識を変え、黒狒々から視線を外した。
そして走ってくるフラムを、そのまま抱え上げ、
「リゾさん?」
「早く、ここから出るぞ」
喜びは後回しにして、リゾルートは楕円型の闘技場から脱出するために全速力で駆ける。
「━━━━」
黒狒々は倒した。しっかりと心臓を貫いた。それは絶対だと断言できる。
だがしかし、
「━━オォッッ!!」
リゾルートを決して責めてはいけない。彼はしっかりと━━『心臓の位置』を穿っていた。心臓の真ん中をちゃんと。
だから、リゾルートに悪い点も抜かった点もありはしない。
何かがあったのは━━この『黒狒々』だけだった。
「━━━っ、すまぬ……っ」
考えるより先に、リゾルートはフラムを出口のすぐそばに投げ飛ばしていた。彼女だけは逃げられるようにと。手荒な方法になってしまったのは、本当に申し訳ないが。
「━━━━」
リゾルートがこかまで早く反応できたのは、『黒狒々』の何かを無意識に感じ取っていたからであった。
「リゾっ━━」
振り降ろされる拳が、やけに遅く感じる。
死を覚悟したのは人生で何度目だろうか。三回か四回か、たぶんそれくらいだ。
しかしそれらすべてが錯覚に思えるほどに、今振りかかる死は濃密だった。
充満する死が足を引っ張り━━だからこそ、気づきは早かった。
「━━━━」
急に死が霧散した。それは気配がというわけではなく━━『黒狒々』の存在そのものが、忽然と姿を消していたのだった。
訪れるはずの死が来ない安堵よりも、奇妙な現象に対する驚きが勝るほどの異常事態だ。
そんな事象に目を回していると、ペチンという軽快な音がなる。それにより現実に引き戻され、焦点を合わすと、怒り心頭という目付きでリゾルートを睨むフラムの姿があった。
「あんなの、絶対ダメだからっ!」
フラムは怒っていた。それはきっと、自分の命と引き換えに、フラムを生かそうとしたからだ。━━否、それだけではない。
フラムと共に魔獣へ立ち向かうという約束をし、それを反故にしたからというのもあるだろう。
あのときフラムを投げ飛ばさず、一緒に避けてもう一度戦う選択肢もあった。━━だが、リゾルートはその選択ではなく、フラムだけは確実に助かる選択をしてしまった。
ただの挺身ではなく、約束を反故にした上での挺身だ。きっと、フラムの怒りはそこにあった。
「絶対、許さないからっ!」
フラムの平手打ちは、リゾルートの心に深い痛みを生じさせた。
自己犠牲は愚かだのなんだのと嘯きながら、最後は結局これだ。怒られるのも、当然だろう。
「でも……」
「━━━━」
「死んじゃわなくて、よかった……」
こんなに心優しき子に、ここまで言わせたリゾルートはもっと恥じろ。恥じて恥じて、そして━━そして、前を向け。
━━この敗北を、決して忘れるな。
「フラム嬢。本当にすまなかった。そして━━」
「━━━━」
「━━本当にありがとう」
リゾルートは敗北した。『黒狒々』に、そしてなによりフラムの優しさに。
だけど死んでいない。愚かしくも度し難いリゾルートには、まだ命がある。
「うん。でも、許さないのは、嘘じゃないからねっ」
舌を出してちゃんと言い切るフラムの言葉を、心得て心に留め置く。
「それじゃあ、行こ! ルスちゃんたち、待ってると思うから」
出口は開かれた。外ではどのくらいの時間が経過しているか分からないが、ルステラたちは自分たちを探してくれているだろう。
━━自分がひどく場違いな人間なのではないかという問いかけはいつしか失われていた。
「リゾさん、フラム、無事でよかった……」
━━ルステラと合流したのは、外に出てすぐのことだった。
この話はリゾルート視点で書きましたけど、これをフラム視点ならどうかって考えてみると、少し面白いかもしれません。




