第十四話『フレン・ヴィヴァーチェ』
フレン・ヴィヴァーチェにとって、人生の嚆矢とはたぶんここだったのだと思う。
「可憐な少女よ、私と一緒に来ますか?」
「━━━━」
数多の屍を生み出して、血で真っ赤に染まった少女に、手が差し伸べられた。
誰だかわからないその男を目一杯睨み付けて、力なく棒切れを落とす。
その熱い眼差しに、心を溶かされたわけじゃない。
フレンの身に宿る強大な力を、活用できる道がここだけだったから━━。
「━━うん」
フレン・ヴィヴァーチェは、男の━━シュネル・ハークラマーの手を取った。
フレンは、ちょっとだけ好奇心旺盛な、ただの村娘だった。
父と母がいて、兄弟姉妹はいなかったけれど、フレンにとって世界は楽しいものだったから、寂しさを感じることはない。
「おかあさん、服破れちゃった」
「もう、フレンったら、またこんなに……」
帰宅してすぐに厳ついスリットの入った裾を見せると、母━━カシス・ヴィヴァーチェは、料理の手を止めて、駆け寄ってきた。
「怪我はしてないわよね?」
「うん、大丈夫。引っかけただけだから」
「よかった……。だけど、泥だらけなのはどうにかしなさい」
鼻頭をつんと押して母は入浴を促してくる。だけれど今日は、
「フレン!?」
「裏の川で流してくる!」
「……はぁ、すぐ戻ってくるのよ!」
「うん!」
今しがた入ってきたばかりなのに、一分もしないうちにフレンはまた出ていく。
といっても、今度は探検じゃなく水浴びだ。
裏手の小川に五体投地━━は痛いからしないけど、ゆっくり膝を折って川に全身を浮かべる。
「━━━━」
夕暮れ空が、為す術もなく黒色と同化させられているのを見つめながら、明日はどうしようかと考える。ついでに、川のせせらぎを劇伴にして。
今日は楽しかった。昨日も楽しかったけれど、一昨日も楽しかったけれど、今日は今日しかないから、それ故に楽しい。
だからたぶん明日も楽しくなる。
明日は、今日いったところをさらに深く探索しよう。
ちなみに今日いったところというのは、村から北西にある林だ。というか今日に限らず、最近はずっとそこへいっている。
本当は南の禁域へいきたいけれど、言いつけがあるのでいけない。それにフレン自身、入ってみたい気持ちはあるけれど、どこかで入るのを拒んでいるという気持ちもある。
だから、林で我慢する。林でもとっても楽しいから、禁域には踏み込まない。
「それに……」
今度、結界の点検がある。
結界とは、村を覆う防護壁みたいなもので、目には見えないけれど魔獣避けになっているらしい。
村全体と、森の一部。それがほどけていないか、一ヶ月に一度代表の村民が確認する。
代表はその都度変わって、今回はフレンたちの家が代表になった。
まあ、つまるところ、回覧板みたいなものである。
「中ちょっと、見えるかなー」
禁域は踏み込むのは当然、近づくのも禁じられている。なので、こういう機会じゃなければ、禁域には近づけない。
無論、入ろうなどとは考えていない。いや、ちょっぴり考えていないこともないけど、約束だから入らない。
だけど、中を覗いてみたいとは思う。
幸いにもフレンは目がいい。入らずとも、そこそこ遠くまで見れる。
「あ、でも、暗いかな?」
夜目にはちょっと自信がない。だから暗かったらあんまり見えないかも。
しかしなんにせよ、挑戦だ。
━━魔獣を一目でも見れたら、とワクワクを胸の中で転がして、フレンは空を仰ぎながら立ち上がった。
「おなか空いたから帰ろ」
アステリズムなんてちっとも知らないけれど、なんだか全部食べ物に見えてきたので、フレンは水浸しの身体を簡単に払って、二度目の帰宅をした。
「おかえりなさい。やけに長かったわね?」
「ちょっと考えごとしてた」
「そう。━━早くちゃんと身体を拭いて、着替えてきなさい。ご飯よ」
「はーい」
ペタペタと床を踏み鳴らしながら、母の言うとおりにする。その道中、父とすれ違った。
「おお、フレン。どうした、そんなびしょびしょで」
「川、浴びてきた」
「川……ああ、そういうことか。今日も派手に遊んだみたいでなによりだ」
「ちょっと、あんまり甘やかさないでくださいよ! 今日だって……もう」
母の言葉を華麗に知らんぷりして、フレンは走り去る。
━━もっともこの後の団欒で、とやかく言われてしまうのだが、それはまた別のお話。
待ちかねたといっても過言ではない、今日。村の結界の点検日だ。
とはいえ何か特別なことやらものやらが必要というわけではなく、結界を構築している石が輝きを失ってないかとか、傷がついてないかとかを確認するだけである。
「そんなに楽しいものでもないでしょうに。そもそも、連れて来るのだって……」
「まあまあいいじゃないか。何事も経験させといた方がフレンのためになる」
楽しげにてくてくと前を進むフラムの後ろで、そんな会話が繰り広げられる。
だけれど、禁域を瞳いっぱいに捉えたフレンには、届いていなかった。
━━人類未開の地。
聞けば聞くほどそそられる。
脳がこの場所の危険度をなんとなく示してくれているのに、思わず入ってしまいそうで━━。
「こーら。それ以上は行っちゃダメ。もう終わったから帰ります」
「むぅ……」
「そんな顔しても、ダメなものはダメ。フレンの好きなもの、作ってあげるから」
好きなものという言葉にピクリと反応してしまうが、食欲よりも今は好奇心だった。
なので、なにかと味方してくれる父に目線を送るが、
「今回ばかりは父さんも味方してやれないな。どうやってもこの場所が限界だよ」
父としてもここが限界なようで、両親二人を相手にできるはずもなく、フレンは渋々頷く。
魔獣はやっぱり結界に近づかないようで、一匹一体見当たらなかった。
次にいつ来れるかわからないので、最後に見納めようと、森の方向へ目を凝らす。
「━━━?」
奥の方で、なにかが動いたような気がした。
暗くて見通しも悪いが、揺らめく影があったと思う。
「━━━!」
もう一度なにかが動いて、錯覚などではないと証明された。
その影はちょっとずつ近づいてきているようで、段々とその全容が見えてくる。
鬱蒼とした森の中で、さらに見つけづらくなるような黒い毛皮を生やした魔獣━━正式名称があるのか知らないけれど、狒々に酷似していた。
「おかあさん、おとうさん、なんかいる」
結界の内側を指差しながら、両親に報告する。結界があるから大丈夫と、それはもう呑気に報告した。
たぶん魔獣を見れた感動を、二人と共有したかったのだ。
「魔獣かな?」
フレンは足を止めて、見入ってしまう。━━猛然と近づいてきているその魔獣を、見入ってしまう。
「━━っ! 二人とも、逃げなさい!!」
父は見入っているフレンを抱き上げて、母に手渡した。その一連の動作が理解できず、フレンは疑問を口に出す。
「結界があるって……」
「あの魔獣はすでに結界を越えている!」
結界自体に、魔獣の進行を阻む効果はない。ただ、そこを避けるようになるというだけだ。 だから、それを突破されれば、もはや結界としての役割は皆無になる。
「逃げなさい!!」
「あなた……っ」
「━━フレンと、どうか二人で健やかに」
「━━━っ!」
父の言葉に、母は躊躇いがちな足取りで駆け出す。
このとき、フレンの脳内はわけがわからないで埋め尽くされていた。
木々をなぎ倒し猛然と迫ってくる魔獣に、逃げろと声を出した父。自分を抱えて走っている母の悲痛も、なにもかもがわからない。
結界があるはずだ。魔獣は来ないはずだ。もう何十年と、魔獣被害なんて出ていないはずだ。
「おとうさん━━っ!」
フレンは目がよかった。自負があった。
だから、母には見えなくても、フレンは、フレンだけは見届けてしまったのだ。
━━父の命が、鮮烈に弾けてしまう、その瞬間を。
「……うぇぉ、おぅぇ……っ」
ビシャビシャ、ビシャビシャと、今日食べたものを胃液ごと全部吐き出してしまう。
初めて人の死を見た。それも、父親のをだ。
父が死んだ。こんなにもあっさりと、人が、父が、死んでしまった。
「フレン、大丈夫だから。フレン、大丈夫……だからっ」
吐き出したフレンの背中をさすりながら、母が大丈夫だと宥めてくれる。
「もうちょっとで村だから、だから……っ」
丘を越えればもう安心だからと、足を進めた母の視界には━━地獄しか、写し出されなかった。
魔獣魔獣魔獣。大量の魔獣が村を襲っていたのだ。
フレンたちが遭遇したのは、村へ向かう魔獣のはぐれだった。
「オォ━━ッッ!!」
背後で魔獣の雄叫びがなって、追いつかれるのも秒読みだと理解させられる。
村にたどり着ければ、兵士が応戦してくれるだろうけれど、そこまであの魔獣に捕まらずいけるか━━。
「フレン、逃げて」
ゆっくりとフレンを降ろした母の顔には、あのときの父と同じ決意が宿っていた。
「嫌だ! おかあさんと一緒じゃなきゃ嫌!」
「━━わがまま、言わないで!」
母の服を掴んでグイグイ引っ張るフレンを、母は叱責する。
だけど、わがままぐらい言わせてほしい。だって、
「わがまま言うよ! だって私はおかあさんとおとうさんの子どもなんだもん!」
眦に涙をいっぱい溜めて、フレンは自分の服の裾を掴んで主張する。
フレンは子どもだから、まだ子どもだから、わがままでも両親に隣にいてほしい。
「私、おかあさんまで……っ」
「━━フレンのお馬鹿さん」
嗚咽まじりの声を安心させるように、母はフレンを抱きしめた。
「私たちはずっとそばにいる。━━だって、フレンを愛しているから」
「━━━━」
「何があっても、私たちはフレンを愛しているから、何があってもそばにいる。━━絶対に忘れないで」
抱きしめる母の愛に、フレンは涙が溢れて止まらなくなる。
感情が制御できなくて、ただひたすらに涙を流す。
すると母がそっと額に口づけをしてくれて、また、咽び泣く。
「いきなさい、フレン。━━いつまでも、幸せでいてね」
小さな身体に、詰め込めるだけ愛を詰められて、フレンは母を置いて歩き出してしまった。
「なんで……」
━━なんで、歩いちゃったんだろう。
「なんでなんで……」
━━なんで、母親の死も見届けちゃったんだろう。
「なんでなんでなんで……」
━━なんで、両親は死ななくてはいけなかったんだろう。
「なんで━━っ!」
━━私はいま、死にかけているのだろう。
「うぅ……っ」
漆黒の魔獣が、血が付着した拳をフレンに叩きつけようとする。
これに当たって生存するのは、不可能だろう。
死が、覆しようのない死が眼前に迫る。
父が託し、母が繋いだ、フレン・ヴィヴァーチェが死んでしまう。
━━嫌だ。
たった一匹の魔獣から逃げられなくて、フレンは死んでしまうのだ。
━━嫌だ。
なんとも呆気なく、死んでしまう━━。
「━━嫌だぁっ!」
そう強く願った瞬間、フレンは手元に落ちていた小枝を拾って、目の前の死に打ち合わせる。
「あァァァッ!!」
小さな身体いっぱいで生を吠える。
打ち合わせた小枝が、魔獣の肉を切り裂いて、引き裂いて、穿って、命が潰える。
全身に血を浴びて、赤橙色の髪を真っ赤に染め上げたフレンは叫んだ。叫んで叫んで、叫び続けた。
━━それからのことは、よく覚えていない。
「これを、あなたが一人でやったのですか……」
「━━━━」
「おかげで被害は最小限に食い止められました」
「おとうさんとおかあさんが……」
「なるほど」
独り言のように、譫言のように紡がれた言葉に、人好きのする顔立ちの男は勝手に納得していた。
そして「それでは」と、文頭に置いて、
「可憐な少女よ、私と一緒に来ますか?」
「━━━━」
「━━うん」
被った血が雫となり、髪を伝って、頬を流れて、ポツリと血溜まりに波紋を生んだ。
母も死んで、父も死んで、村のみんなは助かったけれど、軍に入ったフレンを引き戻してくれるほど肩入れしてくれるような人はいなくて、母方の祖父母も父方の祖父母もいない。
フレンに残ったのは、ただただ強大な力と、年の離れた軍人だけだ。
だけど、その力が求められていて、フレンもそれは理解している。
力があるから注目されて、それはそのまま価値となるのだ。
けれどフレンはそれでよかった。父と母を救えないだけの力で、みんなが救えるのならそれで。
それに、軍のみんなはいい人だ。お菓子をくれたり、美味しい料理を食べさせてくれたり、酔っぱらって永遠と武勇伝を話されるのはちょっと嫌だったけど、面白い話もいっぱいあって━━ちゃんと、笑えていた。
そしていつしか、フレンの絶望と無気力はほどけてなくなった。
力がある。それはみんなを助けられるということだ。
こんなことを言うと笑われてしまうかも知れないけれど、この身に宿る力で━━世界をよりよくしたい。
世界がよくなったら、みんなが幸せになれる。
フレンの周囲にいる大事な人たちが、笑っていられる世界をつくろう。
━━絶望と無気力の先には、そんな夢が輝いていた。
とはいえ具体的な方策もなく、漠然と夢を抱えながら生きていると、ある日突然シュネルから、総帥の話を持ちかけられた。
「━━どうですか、フレン。総帥になってみるのは」
「総帥……」
ノンダルカス王国は実力至上主義とまではいかないが、軍部の地位は実力でそれなりに決まってしまう。
なので、一番強いフレンが総帥というのもわからない話ではないのだが、
「いや、やめておくよ。私は戦場で剣を振っている方が性に合っているんだ」
総帥は軍部のトップとだけあって、戦う以外の仕事が増える。
別にみんなのためになるのなら、仕事量はさしたる問題ではないのだが、なにより質が落ちてしまう気がする。
どこの村にどれだけの人員を割くかとか、戦術の考案とか、魔法にも精通していなくてはならない。
他にも事務的な細々としたこともやらないといけないし━━挙げれば挙げるほど相応しくない根拠が補強される。
「━━懸念点はわかります。私もフレンには、第一部隊で伸び伸びと剣を振っている方が似合っていると思います」
「だったら……」
「ですが、その上で総帥をやってほしい」
シュネルの強い意思に、フレンは囚われる。
確かにフレンだって、やりたくないわけじゃない。だけど、できそうにないから断るしかないのだ。
「こちらでも、フレンをフォローしていきます。それに、体制も変化しますので」
「変化?」
「ええ。前までは、総帥一人への負担が尋常ではありませんでしたから。剣に魔法に戦闘教義にと……流石にそれは苦行がすぎる。なので有り体に言えば、分担させることになったんです」
両手で指を立てながら、シュネルは疑問をするすると解消させてくれる。
「新体制と呼べるほどがらっと変わるわけではないですが、確実に負担は減ります。しかし、行使できる力は据え置き。どうです? やってくれませんか?」
どうしてシュネルがフレンに総帥の座を明け渡そうとしてくれるのかはわからない。
しかし、強く頼まれてしまったから、
「━━わかった。やってみるが、失敗しても笑うなよ?」
「笑いませんよ。なにせ、フレンの方が……フレン様の方が立場は上になるんですから」
「白々しい真似をするな……。別に、なにかが大きく変わるわけでもない」
「━━━。そうですね」
シュネルの返答に妙な間があったのが気になるが、特に問い詰めたりはしなかった。
はっきり言って、不安はある。
だけど、これで幸せになる人が多くなるのであれば、フレンは喜んで統帥になろう。
しかし、やっぱり権力を持つのは性に合わないという感情は抱き続けていた。
フレンにも年齢の近い友人はいた。
幼少の時分から一緒に成長して、もはや家族のような親しみを感じているぐらいの大切な友人が。
そしてその友人が、フレンの心の支えに多大なる寄与をしてくれていたのだ。
「え!? 総帥!?」
「しーっ、声がでかい!」
「フレンも相当よ……」
食事処の一角、驚愕を露にしたのは金髪で琥珀色の瞳をした男━━レガートだった。
そして、それを大声で止めたフレンを、呆れ声で突っ込んだのは女━━アルトだ。
薄い茶髪が先っぽで天然のウェーブがかかっており、気品のある顔立ちはいいとこの令嬢に見えてしまうが、彼女もまたフレンやレガートと同じ軍人である。
ちなみに、彼女の髪の毛は、戦場に立つと何故か直毛になってしまう。理屈の分からぬ現象に、王国の頭のいい人達が揃って頭を抱えたらしい、との噂だ。
「でも、総帥というのはわたくしも驚いたわ。……夢ではないわよね?」
「ああ、そうか、夢という可能性もあるのか……」
「真剣に吟味するな! 夢じゃなく現実だ! 直々に頼まれたんだ!」
不名誉な言いがかりをつけてくる二人に、フレンは熱量が上がる。だが、人目を感じてしまって、すぐに席でおとなしくなる。
「そういうところ、フレンって可愛いわよね」
「うるさい」
くすくすと笑うアルトにジト目で応戦。だけどダメだ。髪の毛が直毛になってないから、効いてない。
「まあ、その熱意を見るぶん、夢でも嘘でもなさそうだね」
「だから最初からそう言ってるだろう」
「いやぁ、フレンならやりかねないしね。だってこの前……」
「━━その話は、やめてくれ!」
赤面しながら隣に座っているレガートの口を塞ごうとするが、滑らかに受け流される。得意の受け流しの剣技、ここに極まれりだ。
そしてフレンの手から逃れたレガートは、アルトに先を促されて打ち明ける。
「夢で僕が贈ったらしいスイーツの、お礼をされたからね」
それはちょうど一週間前のことだ。
詰め所でレガートを見かけて、どうしてかわからないけれど「スイーツのお礼をしなきゃ」と思い立ってしまった。
三日前にそういう夢を見て、確実に夢だと理解していたのに、何故かお礼をしてしまったのだ。
「ぷっ、あははっ! フレンってば、何やってるのよ」
「あれ、は、ちょっと、トチって……!」
気品ある顔を崩して大笑いするアルトに、弁明しようとして情けない声が出てしまった。
「あのときの『この間はありがとう』には胸が震えたよ」
「それはもう悪口だ!」
「いやいや、事実を述べているまでだよ。あの真剣な眼差しは当分、忘れられないなぁ」
ヘマをやらかしたのはフレンの方なので、強くは出れない。
それをいいことにどんどん流布しているレガートを見ながら、悔しさを噛み殺していると、アルトがはっと気づいたように悪めいた微笑みを浮かべた。
「あ、でも、フレンが総帥になったのなら、これは不敬罪ということに……」
気持ちよくべらべらと喋っていたレガートの勢いが、急に弱まる。
そうだった。フレンはまだだけど、暫定総帥みたいな感じなのだ。もはや、統帥権はこのためにあったまである。
「はっはっは! 馬鹿をしたなレガート! これに懲りたら、もっと立場ってものを考えて行動するんだな!!」
毎度毎度やり込められていたが、今回のフレンは一味違う。
「そうだね、留意しておくよ。でもね……」
金髪を見下ろしているフレンに、表情を見せないままレガートは何かを言おうとする。
だが、今さらなにかを言ったところで意味はない。何を言っても━━、
「━━君はもっと、場所を考えて行動した方がいいよ」
直前の発言を揶揄するような物言いを受けて、フレンはやっと気づく。━━周囲からの視線がすごいことに。
瞬間、恥じらいの気持ちがとめどなく湧いてきて、顔を赤らめたままちょこんと座る。
「ホント、フレンって可愛いわよね」
そして、ここまで誘導したであろう真犯人が、そんな感想を述べた。
「フレンが総帥かぁ……」
グラスを傾けながら、レガートとはぼやいた。
しかし、
「━━━━」
フレンは恥と悔しさで黙り込む。というか拗ねていた。
久しぶりに三人揃って舞い上がっていたとはいえ、こんな仕打ちを受けるのは想定外だ。
「━━━━」
「……そういや昔、フレンが城壁に━━」
「よし、わかった。ちゃんと話す。悪かった」
恥の歴史が繙かれそうになって、フレンはシャキっとする。
何故か二人ともにやにやしているが、気にしない。
「で、なんだ。私に何が訊きたい?」
「何が訊きたいってわけではないよ。ただ、どんどん先へ行くなと思っただけさ」
「……実はそこまで思ってないだろ」
「確かに、地位に拘うタイプじゃないわよね」
遠い眼差しをしているレガートが、あまりにも嘘臭くて訝しむ。どうやら、アルトも同じことを思ったようだ。
「いやそうだけど、やっぱり話くらいは持ちかけてほしいじゃん?」
「わたくしは、別に思わないけれど……」
「私も、アルト寄りだな」
アルトと顔を突き合わして頷き合う。
フレンもアルト地位に拘泥するタイプではないので、同じタイプのレガートだけ意見が違うのは━━、
「「━━あ、男の子だからか」」
納得がユニゾンして、アルトとハイタッチ。さらに手を繋いで踊り出したい気分だが、また恥をかくのはごめんなので自重する。
「そうだけど……なんか、嘲弄が含まれている気がして頷き難い……」
「いや、わかるわかる。大いにわかる。男の子だもんな」
「そういう反応されるから、僕は素直に頷けないんだよ……」
機会を得て反撃するフレンに、レガートがしかめ面。アルトがそれを眺めながら微笑む。
「まあどうせ断られるって、シュネルさんも理解しているはずだしね。この間、また相談されたわよ。どうにか第一部隊に引き込めないかって」
「……断るよ」
「知ってる。だから、無理って言っといたわよ。……わたくし一人で頑張るわ」
一人を嘆きながら息を吐くアルト。その仕草がフレンには理解できなくて━━いや、説明不足のせいか。
すぐに納得して、口を開く。
「私、別に第一部隊から抜けるわけじゃないぞ?」
確かに総帥になるとは言ったが、それは第一部隊を抜けることに繋がらない。という旨は、最初に話すべきだったか。
「掛け持ちってことか?」
「でも、そんなの中途半端……いいえ、手が回らなくなると思うのだけど」
「うーん、その辺は大丈夫だと思う。なんか体制が変わるとかなんとかで……たぶん」
実際に総帥部隊掛け持ち生活が始まったわけではないので断定はできないが、シュネルによれば全然できるらしい。だから、大丈夫だと思う。
「なんにせよ、残るってことよね?」
「ああ、それは確定だ」
「よかった……。レガートは引き続き、一人で村を守っとくといいわ」
「そんな末期の撤退戦みたいなことにはなってないから……」
「私にかかれば、それも可能だがな」
「それで助けが必要になったとき、来るの君たちだからね!?」
第一部隊の特異性は、常駐地がないところだ。王都、街、村に関わらず助けが必要なところへ赴くのである。
「そのときは行くさ。必ず」
揺るがぬ意思を湛えて言い切るフレンに、レガートが面食らう。その傍ら、アルトがおっとりとした雰囲気で、質問をした。
「……そういえば、三人揃って戦闘したことはないわよね?」
「ないな。そもそも、戦う機会自体がそんなにないからな……」
「僕もずっとシストル村にいるしね。まあ、平和ならそれが一番だよ」
レガートの総括に、二人同時に頷く。
平和であればなんでもいい。平和ということは、幸せだということだから。
その頷きにレガートは「でも」と言って、
「いつか大変なことになったら、そのときは三人で助け合おう」
「なよなよしいな」
「悲観主義ね」
「なんでそんなに詰ってくるかなぁ……」
女子二人に口撃されて、うなだれるレガート。それを見て、フレンとアルトはふっと破顔する。続いて、レガートも堪忍したみたいに笑った。
ともあれ、
「特別なにかが変わるわけじゃないんだ。気楽にいこう」
「そうだね。それがいい」
「わたくしも、同意だわ」
グラスを掲げたフレンに、二人がそっと合わせてくる。
誓いと呼ぶほどでもないが、決して重くない音が、食事処の一角で謙虚に響く。
「ところで、今までの情報はすべて、話してよかったものなのよね?」
「━━え?」
加えて、そんな間抜けな一音が鳴ったのも、明記しておく。
そんなこんなで二年が経過し、地位の変化にも慣れきった頃、一つの命令が下った。
しかし、その命令をフレンは知らない。
ただ、アルトから、
「隣国の動きがきな臭いから、国境沿いへ向かってくれないかだって」
誰から下ったのか、向かって何をすればいいのか、フレンには一切が教えられなかった。
だけど、アルトから聞いたから、大丈夫だとなんの疑いもせずにフレンは頷いた。
そして、部隊の半数を連れて国境沿いへ向かう。
とはいえ、王都から一日で着く距離ではなく、合間合間にキャンプをしながらの移動となった。
━━そして、目的地を目前にした夕暮れ時、それは突然やってくる。
「フレン、ちょっといい?」
最寄りの村からは歩いていた第一部隊。その疲れを緩和させようと、少し休憩していたときだ。
アルトがフレンの手を掴んで引っ張った。
「どうした? 急に……」
「━━ちょっと相談したいことがあるのよ」
瞳に並々ならぬ感情が渦巻いていて、フレンは素直に手を掴まれたまま付いていく。
無言のまま、林道を五分は歩いただろうか。アルトが足を止めた。そして、振り返る。
「わたくし、ずっとあなたに言いたいことがあったの」
振り返るアルトの瞳に嵌め込まれている感情を、フレンは見たことがある気がする。
「ずっとずっと、言いたかった……」
それはたぶん、何年も昔のことだ。父がいて、母がいた、そんな頃のことだ。
目の前で命が弾ける、直前の━━。
「わたくしずっと、あなたのことが……っ」
アルトがウェーブのかかった髪を揺らしながら、フレンを強く抱きしめる。
思考が途切れ、抱き返してやることもできず、ただ呆然と立つことしかできなかった。
フレンは、この光景を、経験したことがある。
だけど、この次に訪れたのは口付けではなく、囁きだった。
だけど込められた感情は、秘められた想いは、きっと違わなくて━━、
「━━堪らなく、嫌いだった」
━━━。
━━━━━。
━━━━━━━。
「━━━━」
頭が真っ白になるという経験を、もしかしたら生まれて初めて味わったかもしれない。
それほどまでに、それ以上がないくらいに、生涯初めて思考が一欠片残らず弾け飛んだ。
世界から色が抜けて、世界から音が消えて、世界を構成するなにもかもが失われて、目の前に写るのはアルトただ一人だった。
━━直後、アルトの唇が動いて、世界が爆ぜた。
一つ、二つと何かを落としていくけど、きっとそれは拾い集められるものなんかじゃなくて。
三つ、四つと掬えなかったものを眺めてみるけど、たぶんそれは目に見えるものなんかじゃなくて。
五つ、六つと、手繰り寄せようと離さないようにと必死になるけど、おそらくそれは触れられるものなんかじゃなくて。
七つ、到達してみてやっと気づく。━━心の限界点を、ついに踏み越えてしまったことを。
「━━死ねよ」
声が頭蓋を痛めつける。
「━━死んでよ」
声が頭蓋を痛めつける。
「━━死んでくれないか」
声が頭蓋を痛めつける。
「━━死んでくれませんか」
声を鳴り響かせ、フレン・ヴィヴァーチェは赤く燃え盛る戦場に立つ。
理由は、フレンが『暁の戦乙女』だから。
ただそれだけ。
これまでのすべての理由が、ただそれだけなのだ。
だけど、最後に一個だけ。一個だけ教えてほしい。
「━━私の敵は、なんだ?」
『暁の戦乙女』を殺すのは、フレン・ヴィヴァーチェを殺すのは、わかりきっていることだけれど、フレンは問う。
「━━世界だ」
男の回答に、フレンは「そうか」としか言わなかった。
だって、そうだと思ってたから。
総帥になって、世界の広さに近づいて、自分の強さは世界から疎まれているのだと薄々気づいてた。
その強さの代償が今になって唐突に降りかかっただけのこと。
━━フレンが死ねば、世界中の人間が幸せになる。
「なんだ、夢を叶えるのなんて、簡単じゃないか」
みんなが幸せなら、フレンはそれでいい。
アルトと、レガートと、他にもいっぱいの人が幸せになるのなら、もうそれで全部よかった。
水面と呼ぶのが憚られるほどの激流に、フレンは身を投げ出す。
もうすっかり夜になって、清流が闇をめいっぱい吸い込んでフレンを迎え入れる。
━━その狂気的な双眸を覆い隠すように。
死ねなかったことを嘆いたりはしない。
だって、すぐに死ぬ機会が来ると思っていたから。
例えば、フレンが流れ着いた場所。マレットの森なら、三つの村の可能性が考えられる。
その内の一つは、、シストル村。レガートがいるところ。
彼になら殺されてもいい。
目の前の軍が、彼の率いるものかがわからないけれど。
「━━別にそれならそれで、どこでも死ねる」
どす黒い感情が支配して、フレンは自分の首に手をかけていた。
扼殺は無理らしいから、やるなら骨をへし折るか。
「━━おい」
声をかけられて、フレンは死を中断する。
「そこに誰かいるのか!」
今度こそはと、フレンは剣の柄に手をかける。
目の前で命を投げ出せばと、
「お前」
それから、フレンは何度も何度も死を失敗した。
死ねるかもという期待は外れ、殺してくれるかもという希望は淡く消え去り、ついにはこんなところまで来てしまった。
どうしてフレンは死ねないのだろう。どうして━━、
「━━知ってるだろ」
どうして誰もフレンを殺せないのだろう。どうして━━、
「━━知ってるだろ」
どうしてなのだろう。
「━━━━」
どうして、なのだろう。
━━まあ、いいや。死ね。
○
「ルステラ」
「なに?」
「私の夢を邪魔するのなら、容赦しない」
「━━望むところ」
あの日と同じように、武器とは言いがたい木を握りしめて、空いた穴から見下ろすルステラに突きつけた。




