第十三話『白』
劣悪な空気を身に受けながら、右腕の欠けた女を引きずっている幼女がいた。
だけど彼女を心配して、手を差し伸べてくれる人間はいない。
だってここは貧民街だから。
みんな自分のことで手いっぱい。明らかなる厄介ごとに関わる人間はいない。
それでも、
「死なせない……っ」
彼女は泣かない。
血が大量に抜けて、いくらか軽くなった女にまだ、魂が宿っているのを信じて運ぶ。
自分が言い出したことだから。最後まで精いっぱい頑張らなくてはいけない。
お助けジジイがかつてフラムを救ってくれたように、フラムも大好きなものを守るために奮闘しよう。
それが、フラムにできる唯一の恩返しだから。
お助けジジイのことも、二人で過ごす時間も、大切なものだった。
だけど、大好きだから。
いい匂いがして、ぽかぽかして、胸がおっきい彼女のことが、大好きだから。
━━たぶん、わがままではあるのだと思う。
それでもフラムは自分の感情を信じたい。
フラムはまだ子どもで、知らないこともたくさんあって、できることなんて限られている。
だからすべては救えない。
でも、お助けジジイの力を足せば、フラムは強くなれる。
「フラムが……」
彼女の道標になる。フラムは、彼女をより良い場所へ運ぶ標。
いつだって、誰だって、お助けジジイになれるんだって、フラムは知っている。
だから、俯かない。泣かない、めげない、折れない。
それで、この世で最も強い人に、フラムを救ってくれたあの人に、教えてあげるのだ。
━━フラムは、強くなったから安心してって。
そのために、フラムはここまでやって来たのだ。
引きずって、引きずって、牛歩のような速度でも、懸命に進み続ける。
フラムが道標となって、フラムが━━。
「━━君、一人?」
「━━━━」
「大丈夫、安心して。わたしはルステラ。君たちの……救世主ってところかな」
新雪のように白い髪に浚われて、フラムの張り詰めていた意識がついに切れてしまった。
○
ああ、この感覚はまた死んでいない感覚だと、フレンは思う。
生き永らえてしまった。生き延びてしまった。
死に後れてしまった。死に損なってしまった。
どうやら自分は死ぬのが下手くそらしい。
『暁の戦乙女』にも、苦手なものがあったようだ。
だけど、そんなことを言っている場合ではない。
自分は死ななければならないのだ。
死んで、死んで、死んで。━━どうせ、生きてても、なにもできないんだからさ。
「━━━━」
辟易とする目覚めも、都度何回目だろうか。数えるなんてアホらしくてやる気にならないが。
また目覚めてしまった。それを強く深く刻み込めばそれで済む話だ。
「右腕はくっついてる。左腕の傷もない。……血がちょっと足りないか」
てきぱきと身体の調子を確かめると、すぐに立ち上がる。
腕をくっつけられるほどの癒者の存在は気になるが、今のフレンに追求している余裕はない。
腕がついて、傷が治った。それ以上、語ることもないだろう。
軽く伸びをして、フレンはこの場を後にする。
しかし、
「━━フレたん動いちゃダメ」
布団の中から、短い手が伸びてくる。━━フラムだ。
無論、フラムがいたことは気づいていた。しかし眠っているようだから、起きる前に行動をしようとしたのだが、まさか同タイミングで目を覚ますとは。
フラムは、まともになったフレンの服を掴みながら、引き寄せてくる。
「フラムと一緒に……」
「━━そういうの、やめてくれないか」
「……ぇ」
ひどく凍えた声で、フラムを突き放す。だけど、手は離してくれない。
だから、フレンはさらに押し続ける。
「お前のせいで、死に損なったんだぞ!」
王都に来てからずっとそうだった。
━━フラムがずっと邪魔だった。
勝手に懐に潜り込んできて、わけのわからない行為をぶちまけて、果てにはフレンのために命を投げ出そうとした。
最悪と呼ばずして、なんと呼ぶ。
「お前がいなきゃ、全部うまくいってた! みんな幸せな世界にいれた! まだ、間に合ったのに……っ!」
「━━━━」
「……エールは、死んだんだろ……?」
弱く、情けない声がこぼれる。
役職で命の重さが変わるわけではないけれど、レガートたちはまだ軍人だった。だけど、エールは違うのだ。
元軍人だけど、今はただのフラムの保護者ってだけで、巻き込まれる理由なんてなかった。
だけど現実はこうなっていて、だったらそんなの、全部━━、
「━━みっともないね、子どもに八つ当たりなんて」
どす黒く満ちた熱が、白水のような声音によって遮断される。
フレンはその声に聞き覚えがあった。そしてその記憶をなぞりながら、勢いよく振り向く。
「やっほー、久しぶり……ってほどでもないか。ま、なんにせよだ。━━その子に、なに言おうとした?」
濁りのない蒼瞳に捉えられ、フレンは息を詰める。
本当はなんとなく察してた。ルステラか、アレキスか、どちらかがフレンを治したんだろうって。
「何を言おうとしたって……」
問い詰められて、フレンは言い淀む。
フラムに何かを言おうとしたのは確かだ。だけど、その先が思い出せない。
━━違う、思い出したくない。
「━━なんだ、ちゃんとフレンじゃん。よかったよかった」
「は?」
「はぁもなにもないよ。フレンがちゃんとフレンで嬉しかっただけ」
返された言葉が、またしてもわからない。
何がちゃんとしていて、ルステラは何に安心しているのだろう。
しかし、伝わった者もいるようで、
「ルスちゃん! フレたんはフレたんだから!」
「だったね~」
目を合わせて、なにやら通じあっているフラムとルステラ。
ただそれだけの光景が、フレンの何かに触れたのだろうか。突然、激情が湧いてくる。
「━━いい加減にしろ!」
自分でもわけのわからないぐらいの激情が、大気を揺らす。
「私が……私が、なんなんだよ! お前らは二人して、何がしたいんだ!」
吐き出したい言葉が積み重なって、胸が苦しくなる。
「私は一度だって、助けてくれなんて頼んでない!」
空気が大声に引き裂かれ、心が叫びにひび割れる。
あのとき、轟々と流れる激流に身を投じてから、フレンはずっとそうだった。
死にたかった。どうしようもないくらいに死にたかったんだ。
なのに、ここまで流れ着いてしまった。
あの激流は、フレンをこんなところまで運ぶものなんかじゃないのに。
「もう、やめてくれ! 『暁の戦乙女』を助けてくれたのは感謝してる! だから、もう、それでいいだろ……」
ルステラの表情も確認せずに、フレンは立ち去ろうとする。
もう、これでいいのだ。
きっと外ではシュネルがフレンを探している。そこへ赴けばすべて終わる。
ルステラだって、もうこれ以上首を突っ込むのはやめてくれるだろう。
「うん、いいよ。いってらっしゃい」
互いに背を向けたまま、ルステラは送り出し、フレンは声を耳に入れる。
だから、このとき、ルステラの表情を見ていたのはフラムだけだった。
━━悪戯っぽい笑みを浮かべていたのを、見ていたのはフラムだけだった。
「それと言い忘れてたけど……」
「━━━━」
「その床、踏むと爆発するよ?」
直後、爆発が生み出した亀裂が伝播し、フレンの立っていた位置から広範囲の床が抜け落ちる。
フレンはそれをまんまと食らって、階下に落ちてしまう。
「ルスちゃん……」
「大丈夫、なんとかするよ。━━わたしが死ぬ前にね」
フレン・ヴィヴァーチェと、ルステラの戦いが、開戦した。
○
貧民街の一角。誰からも視認できない場所を、高台から眺めている男が二人いた。
「フレン女史のことは、任せてしまってもよかったので?」
厳格な声音で語りかけたのは、緑髪の男━━リゾルートだった。片や受けるのはアレキス。
二人して、ルステラとフレンのいる場所を遠巻きに見ていた。
「いい」
一切の装飾のない肯定に、リゾルートは鼻白む。
だけれど、アレキスにはそれ以上のことは言うことができない。
「アレキス殿がそういうのならば、小職はそれに従うまで。無論、小職が居合わせるというのもおかしなことだ。━━今は、気づかれないにしてもな」
自身の腕をまじまじの眺めながら、片目を伏せる。
リゾルートの身体には、現在認識阻害をかけられている。
なにせリゾルートはそれなりに歴の長い軍人で、王都にも知り合いは少なくない。
「それにしてもここまで気づかれないとはな。ルステラ女史には、いやはや驚かされる」
「宮廷魔術師とかには気づかれるだろうから、過信するなよ」
「それは重々承知している。……そもそも、小職を認知している可能性が低いのだがな」
「それが一番いい」
認識阻害と言えば、先ほどから眺めている貧民街の一角にも、認識阻害がかけられている。
そのおかげで、容易に捜査網から抜け出すことができた。
しかし、
「屋根が吹き飛んだが……」
「ふん、好きにさせておけ」
鼻を鳴らすアレキスは、まったく動じていない様子だった。
あれほどの技量があるのなら、やはり屋根が吹き飛ぶぐらい余裕で覆えるのだろう。
リゾルートは一安心と眺めていると、数拍間を空けて、アレキスが言い放った。
「逃げるのに、難儀するだけだ」
どうやら、そんなに万能な魔法ではないらしい。




