第六十三話『トーシャの史記』
何かが。
何かがずっと、空白で。
不完全。
それは、誰しもが。
誰しもが、飢えているから。
トーシャもそう。今まで出会った全てのものがそうだった。
下劣で卑賤な飢えを持っている。
——それが、本当に、気持ち悪かった。
その淵源は、両親とトーシャ自身にある。
トーシャの生まれは『号国』の城下町ネスレ。その日陰部分である、スラムの区画だった。
空気は悪いし、人も悪い。良いところなど一つもなく、懐郷病にかかることは万に一つもないと思うような場所だ。
トーシャはそこに住んでる全員に一刻も早く死んでほしいと願っていたし、たぶん逆も同じだった。
だが、殺し合いみたいなのは少なかった。だって、願うだけで行動は起こさないカスどもの集まりだから。
現状を崩さない。崩せない。汚い飢えを抱えながら、腹が減ったと泣き喚くばかり。
トーシャはそうだけにはなりたくなかった。
トーシャが抱えている問題は主に二つあった。
父親についてと母親についてで二つだ。
前者は、暴力を振るわれているという問題だった。
後者は、母親がそれを黙認しているという問題だった。
この時、意外にも深刻なのは後者の方だ。
母親がトーシャに対しての虐待を黙認しているのは、父親の恐怖に屈しているわけではない。
むしろ、母親と父親の関係は良好とも呼べるぐらいだった。
すなわち、トーシャだけが家庭から爪弾きにされている。
父親はたぶんトーシャのことが好きではないのだ。
しかし、母親はトーシャを大切に思っている。
その理由が、深刻さを増大させているのだ。
大切に思っているのなら、母親がするべき行動は、トーシャを連れて逃げることだ。
だが、そんな行動は百年待っても起こされないだろう。
何故なら、母親が父親から離れたくないからだ。
トーシャを産み、しかし、まだ女として在り続けたいのである。
それが母親の第一目標なのだから、逃げるなんてもってのほかであるのは自明だ。
一方で、父親と母親と子供という一般的な家族ごっこにも興味があるようで、そのためにトーシャは無理やり繋ぎ止められているのだ。
大切にして、逃げないように。
気持ちが悪くて吐き気が止まらない。
父親も母親も、早く死んでほしかったし、どうにかして殺したかった。
だけど不幸なことに、母親も父親も『精強民族』という、『号国』特有の民族の血を色濃く受け継いでいるようで、敵いそうもなかった。
もちろんトーシャもその血は混ざっているが、子供と大人じゃ力の差が開きすぎている。
だから、トーシャは攻略方法を変えた。
深刻なのは母親についての問題だが、父親についての問題が軽いわけではない。
殴られるのは痛いし、呼吸ができなくなるぐらい苦しむのは嫌だ。
故に、父親の対処に、力以外の方法を用いた。
それは最悪の方法だった。
最も忌むべき対象の一人である、母親に倣い、拙いながらメイクをしてみた。
服飾も真似た。
母親から盗んだ蝶のアクセサリーやチョーカーを着ければ、戦闘服を纏ったようだった。
後はもう一つ。決定的な、もう一つ。
母親の声音を真似て、トーシャは繰り出した。
「パパ」
その日から、殴られることはなくなった。
そして、自らの飢えに対する嫌悪。そのスパイラルの始まりだった。
何かが。
何かがずっと、空白だ。
◯
ポタポタと、滴り落ちる、黄色。
それは、
「あは」
衝動的に溢れてくる、嫌悪と気色悪さに任せて、人差し指と中指を喉奥に突っ込んだ。
すると反射で胃が引き絞られて、食道を通り口内に酸性のものが溜まる。それを吐き出した。
「あは」
滴り落ちるそれを拭いながら、トーシャは笑う。気持ちがいい。溶けた犬歯がチロリと見えた。
「あは。は。は……」
胃を凌辱した多幸感がピークを迎えると、気分は右肩下がりに逓減する。
鼻腔をつんざく饐えた臭いが、トーシャの脳から血の気を奪っていく。
吐瀉物に反射しない自らの顔を眺めながら、ただ空白を感じた。
未だ飢えは満ちず。むしろ、自らの浅ましさに、アンニュイと罪悪感が、激しい。
この飢えの満たし方。トーシャはそれだけを渇望していた。
「行かない。と」
何時間空虚を眺めていたかは分からないが、かなりの時間が経ったはずだ。
薄くなった前歯を舐めながら、トーシャは立ち上がった。
行くのは父親の場所だ。——父親と呼んでいいのか、判断に迷うことにはなったけれど。
「——あれ?」
物置みたいな自分の部屋から出ようとすると、匂いがした。
料理の匂いだ。
吐瀉物に汚染された部屋からでもわかる芳醇な香り。それとも、トーシャの腹が減っていたからか。
そのどちらも理由としてはあるが、一番の理由は、
「あっ、トーシャちゃん、返事ないから死んでるのかと思ったよぉ〜」
キンキンと声を不愉快に上擦らせて、知性の欠けた笑い声を上げるのは、母親だった。
彼女が珍しく料理をしていたので、いつもより匂いに敏感に反応したのだ。
普段は、めんどくさいとか疲れたとかって言って、結局作らないので、今日はびっくりだ。
「そんなにびっくりしないでってば。アタシだってやるときはやるし。やってたでしょー」
母親は、出来立ての料理を盛り付けてテーブルに置く。机の上に散乱する酒瓶などを、横着して皿で押し除ける。すると酒瓶はバランスを崩して、机から落ち割れた。
「あちゃー。気をつけてー」
片付ける素振りは見せず、母親は淡々と机の上に料理を並べる。
机に降り積もった埃が舞って、湯気に煽られていた。
「かんっせーい。ほら、食べていーよ。トーシャちゃん」
椅子を引いて、座れと手で招く。酒瓶の破片を踏まないように跨いで、椅子に座った。
今まで低いと思っていた座高が、いつ間にかちょうど良くなっていたことに気づいた。
「食べないの?」
「……食べ。る」
トーシャがこくんと頷くと、母親は食べやすいように椅子を押した。
トーシャがつつくように食べ始めると、母親はトーシャの髪を梳き始めた。
「トーシャちゃん。髪の毛キシキシすぎるねぇ〜。背中も丸まりすぎだし、歯もボロボロ。女の子なの忘れちゃった?」
くすくすと、不快な笑いが耳元で鳴り響く。
トーシャは無視して料理を食む。すると、不快な笑い声はピタッと止まった。
そして
「——忘れてるわけないよね」
横を見ると、こちらを覗き込んできた母親と目が合う。
「アタシ知ってるんだからね。トーシャちゃんがリッくんとやってること」
リッくんとは父親——リッシュのことだ。とはいえトーシャの血のつながった父親ではあるが、むしろ、母親の愛人と言った方がトーシャ的にはしっくりとくる。
「アタシがリッくんのこと好きなの知っててやってるよね。普通にありえなくない?」
イライラを隠しきれず、母親は爪先で地面をペタペタと叩く。
「だったら。何。私は別に。何もしてない。向こうが勝手に。そうしただけ」
実際そうだ。トーシャは父親を呼んだだけ。
別にトーシャだって好きでやってるわけじゃないし、可能なら早くやめたかった。
「白々し。アタシの真似しといてよく言うわ。気持ち悪い」
「やめてほしいなら。早く。あれ何とかして。よ」
「居直りとか通用しないからね。しかも、あれって。そういう言い方されたらアタシが嫌な気持ちになるって、少し考えたらわかるよね」
もはや乾いたため息しか出てこなかった。
頭空っぽで、たった一人の所有権を喚き立てる。
——人々はその矮小な飢えを、愛と呼んでいるのだろうか。
それならば、なんと、
「気持ち悪い。ね」
愛と飢えは密接に関わり合い、おぞましさを帯びて肥大していくだけのものなのか。
——愛は人を蝕む毒なのか。
「気持ち悪い? 答えになってないよ、それ。会話って知ってる? それとも、ずっと閉じこもってたトーシャちゃんには難しいのかな?」
「————」
「だんまり、か」
母親が諦めたようにトーシャから離れる。
だが、会話ができていないのずっと母親の方だ。自分本位の売女みたいな囀りは言葉とは言わない。
だから、もう何も言わない。早く消えるならどっかに消えてほしかった。
もう、邪魔だから——。
「トーシャちゃん、ほんと、ウザいね」
視界が端から端を反復する。
焦点が合わない。
歯の根がズレて、凍てついた沸騰した液体が、血液に変わって全身を巡る。
腰から上の感覚が消えた。それが、錘となって椅子から地面に倒れ込む。
背後で、母親がニタニタと笑っていた。
「ぶ、ぁ、」
さっきまで食べていた料理と一緒に、血を吐き出す。
確かめるまでもなく、毒を盛られたのだと気づいた。
「————」
血溜まりで無様に泳ぎながら、トーシャは自分の中に何かが降りてきていた。
断じて飢えなどという卑賎なものに殺されるのではないと、自らへの奮励が宿る。
「うめる。まで」
何かがずっと空白だった。
それの埋めかたは分からないけれど、少なくとも簡単なことではない。
だけど、満ちたい。満ち足りたい。
そして、きれいに、なりたい。
その飢えを満たしてくれる何かに出会いたいから——、
「う!」
最後の力を振り絞って、トーシャは母親にタックルした。
子供の力とはいえ、脚を崩された母親はいとも簡単に転ぶ。
解毒薬など無いだろう。だから、トーシャがするのは最後の抵抗だ。
「————」
衝撃から立ち直っていない母親に馬乗りになって、半開きになっている口に指を突っ込む。歯茎の裏側に爪を刺して、口が閉じないように固定した。
「半分。こ」
片方の手は母親の口に、片方の手は自分の喉奥に突っ込んだ。
腹に溜まったモノが、上向きに流れる。
酸っぱさと少しの苦さを孕んだそれを、母親の口に流し込む。
「ふざけるな——」
母親が抵抗して、なんとか吐瀉から逃れようとする。
だから、だから、だから、
「——ママ」
あっぷあっぷ。溺れそうな口腔。しかし、明瞭に、幼気な声音で母親をそう呼んだ。
直後、彼女の力が抜けて——、
「————」
胃液に混じった毒を呷る。食べ物に混ぜられたトーシャよりかは、幾分か巡るのも早いだろう。
もしかしたら、トーシャよりかは先に死ぬかもしれない。
馬乗りになりながら、母親を看取る。
「トーシャ……ちゃん……」
最期の力を振り絞って、母親が何か吐き出していた。
「ごめんね……」
さっきまであんなことを言っていたとは思えないほど、弱々しい謝罪だった。
きっとそうさせたのは、トーシャの一言が原因だ。やはり、母親は母親をやめられないのだ。
本当に——、
「馬鹿な女」
トーシャより早く逝った女を放り捨てて、トーシャはやっと始動する。
「あは」
気分は最悪で、最高で、気持ち悪くて、気持ちよかった。
「死んじゃう。ね」
鏡の向こうの自分に語りかける。
「死んじゃう。ね」
鏡の向こうの自分が語りかけてくる。
「「でも」」
声が重なった。
「「ちょっとだけ。きれいに。なったね」」
以前よりかは、自分を愛せると思えるようになっていた。
◯
トーシャは一度死んだのだと思う。
だけど、生きている。
まだ、生を感じている。
死んで生き返った。奇蹟が起こったと言う他なかった。
「————」
目が覚めると、トーシャは暖かい場所にいた。
木漏れ日が花やぎ、陽だまりが波打つ、人生で見た中で最も素敵な場所だ。
白くて、衛生的で、帰りたくなるような気持ちにさせてくれる母胎のような世界。
死から最も遠いからこそ、ここはあの世では無いと判断できた。
「人って。しぶとい。ね」
手を開閉しながら、トーシャは自分の犬歯をチロリと舐める。
「全部。治ってる」
散々痛めつけた自分の身体が、丸っと回復していた。溶けた歯も、焼けた食道も、食らった毒も全部だ。
でも、
「まだ。空っぽ」
自らの飢えに対する嫌悪は、少なくなった。でもそれは、満ち足りたというわけでは無い。
むしろ、ある程度誤魔化していた空白が、今はハイライトされている。
「どうしよう。かな」
埋めかたは分からない。だけど早く埋めてしまいたい。
じゃないと、トーシャが最も忌む気持ち悪いものに変貌してしまいそうで怖かった。
「————」
しかし、目標はあるが方針はなく、トーシャは困っていた。
そんなとき、それを解消するように、目の前の扉が開いた。
「————」
扉の向こうから現れたのは、きれいな女性だった。纏め上げられた濃い紫髪は愛嬌を、整った目鼻立ちは気品さを、しゃんとした背筋は力強さを表現していた。
しかし、トーシャの目を引いたのはその美貌ではない。
——彼女は、初めて見た、満ちている人間だった。
「———! 目が覚めましたの!?」
女性はパタパタと駆け寄ってくる。
「うん。さっき。起きた。よ」
「よかった……っ」
女性はうっすらと涙を滲ませながら、しかし、喜ぶように声を漏らした。
それはトーシャの人生になかった親身で、とても嬉しかった。
「お姉さんが。治してくれた。から」
「それは、よかったですわ。でも、治したのは私じゃないんですのよ」
「そうなの?」
「私も練習中ですけれど、あなたの容態を回復させられるほど練達してはいませんの。だから、とある騎士様にお願いしましたわ」
「騎士様。?」
「とても頼りになる方ですの。いずれ、あなたも会えますわ」
女性はとても誇らしげに、その騎士とやらを語っていた。
尊敬。それと、
「お姉さんの。好きな人?」
不意打ちで訊かれた言葉に驚きつつも、女性らしく雅やかに微笑んで、
「ふふ。秘密ですわ」
そう言う彼女の顔は満ち足りていた。
彼女はトーシャの頭を撫で、再びベッドに寝かせる。
「まだ、安静にしてくださいまし。元気になったら、またお話ししましょう」
彼女との邂逅はトーシャに驚きと発見を与えた。
「私は、ココナ・ノワゼットですわ。何かあったら、呼んでくださいまし」
ココナ。それが満ち足りた彼女の名前。
彼女の下でなら、トーシャに足りていない見つけられそうだと心から思った。
——思ったのに。
◯
トーシャが連れ込まれたのは、ココナが運営する孤児院だった。
そこでの生活はかなり楽しく、過去を思えば天と地の差だった。
しかしとりわけトーシャの気を引くのは、同じ孤児院の仲間ではなく、ココナだった。
なにせ彼女は、トーシャが初めて見た満ち足りた人間だったからだ。
しかし、それがある日突然欠けたのだ。
表向きは変わっていない。振る舞いも声音もそっくりそのままだった。
だが、違う。——トーシャの望む彼女じゃなくなったのだ。
それに気づけば、興味も失せて、トーシャが孤児院に居続ける理由も無くなっていた。
そこで、孤児院時代に得た『縁』を使って、トーシャは別の道を歩み出す。
「すごいわあ。『七躙』になるなんて優秀ねえ」
おっとりと落ち着く声を出している女性に、トーシャは髪を切られていた。
「ワタシはてっきり、あのままあそこで暮らすのだと思っていたのだけれどねえ」
チョキチョキと切られ、くるぶしぐらいまで伸びた髪が減っていく。
「私も。そう思ってた。でも。気変わりした」
「ココナさんのこと、嫌いになったのお?」
「嫌い。じゃない。無関心」
ココナは好きだ。色んなことを教えてくれたし、色んなことをしてくれた。
だから、感謝はしているし、勝手に居なくなって申し訳ないという気持ちもある。
それはそれとして、トーシャの望む彼女じゃなくなったから、興味が失せただけのこと。
「ワタシには理解できないわあ。本当に好きなものは、何があっても変わらないものよ」
「メロヴィアは。一途すぎる」
彼女の気持ちは何十年も変わっていないらしい。そんなに想い続けるというのは、トーシャからすれば信じられない。
だってそれは、飢え続けるということの他ならないから。
「あなたの心変わりが早すぎるのよお。……どうして関心がなくなったの?」
「欠けたから」
ある日を境にココナは変わってしまった。それを言っているのはたぶんトーシャだけだけれど、間違ってないと思う。
「どうしたら満ちるのか。教えて。欲しかったのに」
「そんなに大事なのお?」
「大事。じゃないと。馬鹿な女になっちゃう」
飢えている状態はだめだ。
だから、満足しなくてはならない。
「満ちた満ちてないというのは、ワタシにはよく分からないけどお、解決する方法は分かるわあ」
「何」
「——愛よ」
熱っぽい声音でメロヴィアが呟く。
だが、
「それじゃ。馬鹿な女と。同じ」
愛はむしろ下世話な飢えを加速させる毒だ。
それを見てきたから知っている。
「そうかしらね。——できたわ」
ハサミのなる音が止まると、メロヴィアは鏡を取り出しトーシャを映した。
トーシャの整えられた髪を持ち上げながら、鏡の中にメロヴィアが入ってくる。
彼女は、若さを慈しむように笑い、
「いずれ気づくわあ。あなたが、本当に誰かを愛したときにねえ」
「わからない。よ」
愛は、飢えを加速される。どんどんどんどん、自らをさもしくさせる。
飢えて続けてはいけない。満ちなければならない。
愛がそのためのモノだなんて、信じられなかった。
「そうねえ。まずはお友達から作ってみるのがいいんじゃないかしらあ」
「いるよ? 孤児院のみんな。友達」
「それもいいけど。同業者のお友達も必要じゃないかしらあ。その方がきっと、友達のことを大切に思えるわあ」
「……メロヴィアは。友達。じゃないの?」
こうして世話をしてくれて、色んな話をしてくれるメロヴィアは友達と言ってもいい。
いや、
「……保護者。かも」
「きっとその表現のが正しいわあ。歳だってたくさん離れてるものお。あんまり考えたくはないけれどねえ」
「何歳?」
「こーら。聞いちゃダメよお」
おっとりと誤魔化すが、『壱』という座にいるからには、だいぶと年季が入ってそうだ。
「もっとも、年齢に限った話じゃないけれどねえ」
「秘密。多いの?」
「そうよお。女は秘密をたくさん抱えているものなの」
トーシャは特に秘密が無いから、女じゃ無いのだろうか。
「すぐにできるわよお。それこそ、ワタシと会っていることは、他言しちゃダメよお。お友達にも恋人にもねえ」
それがトーシャの第一の秘密だと釘を刺してくる。
「……わかった」
「話が早くて助かるわあ。——無理やり口止めはさせたくないもの」
おそらくはメロヴィアだけでなく『奠国』すべてに関わるような問題だからだ。
トーシャもそれくらいの分別と、メロヴィアへの恩は持っていた。
「そしたら、安心して任せられるわあ。あなたの初任務」
「やる」
「安請け合いしちゃダメよおと、拒否権は無いけれど一応言っておくわあ」
メロヴィアは任務の内容を話す。
「あなたには『祭国』に行ってもらうわあ。そこで、とある人を捕まえてほしいの」
「捕らえて。『奠国』に連れて。帰ればいい?」
「いいえ。その場で拷問して情報を吐き出させてくれたらいいわあ。あなたの『気配繰り』はきっと役立つわ」
トーシャの唇を指でなぞりながら、メロヴィアは続ける。
「きっとお友達も見つかるわよお。素敵な素敵なお友達がねえ」
「どうして。分かるの?」
「——預言者だから」
トーシャは驚いて、メロヴィアの顔を見る。
だが、
「なーんてね。ほんと、可愛いわねえ」
ウインクをして彼女は冗談だと言う。
それすら本当かどうか疑わしいが——、
「——惜しいけど、そろそろ時間だわあ」
「もう。お別れ?」
「それも長いお別れになるわねえ」
メロヴィアが何をしているのかは知らないが、きっと簡単に会えるような人じゃないことはトーシャも分かる。
だからたぶん、もう二度と会えないような気がした。
「連絡は追ってするわあ。それじゃあ、さようなら」
鏡に映っていたメロヴィアの姿が消える。気配ですら追えないところへ行ってしまった。
——最後に、声だけがトーシャの鼓膜を打った。
「愛しているわあ」
——愛は、本当に忌むべきものなのだろうか。
◯
どうやら現在、『暁の戦乙女』とやらを殺す活動が行われているらしい。
トーシャは最強という称号に興味はないが、その殺されなければならないほどの強さには興味があった。
少し覗くだけだと、戦場に赴いて、
「———っ」
並んでいる屍の山を視界に入れて、トーシャは人生で初めて畏怖を覚えた。
死んでいるのはファミルド王国の部隊だ。数は確か三百だか四百だかが入っている。
それを『暁の戦乙女』に近づけるために、『影跋』が数人がかりで『気配繰り』を使って頑張っていたのは記憶に新しい。
その甲斐は、まさしく無駄としか言いようがなかった。
「人間。じゃない」
部隊の人間はことごとく首を刎ねられている。
しかし、その屍の頭は首から落ちていない。
武器を構えたまま、銅像のように静止している。首につけられた一筋の赤線から、血を垂らしながら。
「あは。バケモノ。だね」
恐ろしくて、笑いしか浮かんでこなかった。
彼女に勝てる人間なんて——否、全ての生物や兵器を引っ張り上げてきても彼女には勝てない。
早く白旗をあげた方がいい。
なんなら、
「首謀者を。殺そう。かな」
きっと『暁の戦乙女』の殺人を企画した人は、彼女の恐ろしさを分かってないのだ。
きっと机上で、駒を動かして遊戯をしているようなやつだろう。
卑劣な飢えを持っている、掃き溜め生まれの性根。
「そういえば」
『奠国』の命で、首謀者らしき者と出会うことになっていたはずだ。
たしか。
「シュネル・ハークラマー」
きっと碌な奴ではない。
『暁の戦乙女』を知っているのなら、彼女と戦うなんてことはしないはずだ。
一人の矮小な飢えのために、『影跋』やらの命を無為に消費されるなどたまったものではない。
グテン様には悪いが、彼は殺した方がいいと思う。
幸いそのための力は、今のトーシャにはあった。
リケンに作らせた『鍼』を握って、トーシャは王都に赴いた。
「まさか『七躙』を寄越すとは思いませんでしたね」
シュネルは自然体だった。まるで、トーシャの脅威を正確に測れていないような——否、
「とかく、お掛けになっては? 立ち話ではしんどい……というほど長話はするつもりはないですが」
シュネルはトーシャという脅威を、どうにかできると少なくとも思っているのだ。
だからこその自然体。それがハッタリか真実かは分からないが。
「あなたが。首謀者?」
素直に腰掛けながら、トーシャは単刀直入に聞く。
「……ええまあ、広義の首謀者ではあるでしょうね」
「———? よく。分からない。……なんで。こんなことしてる。の?」
「見たい景色があるからです」
シュネルは、飢えていた。
しかし、何かが違うと、トーシャは感じた。
何かが——、
「そのためにあなたにも仕事してもらいます。とはいえ、あなたにとっては簡単すぎるとは思いますが」
何かを言語化する前に、シュネルが話し始めた。
「六時間後、フレン・ヴィヴァーチェに奇襲を仕掛けます。その際に、私の気配を隠してほしいのです」
「簡単すぎる。ね。戦えとか言われるのかと。思った。よ」
「まさか。——彼女と戦えるのは私だけですよ」
彼女の話をすると、シュネルの飢えが僅かに熱を帯びる。
だけどそれは、決して卑劣なものではなくて——、
「それだけ、よろしくお願いします」
——トーシャの興味が、微かに芽吹いた。
「すごい」
シュネル・ハークラマーは『暁の戦乙女』をいとも簡単に追い詰めていた。
トーシャの微力が含まれていたとはいえ、あのバケモノと対峙できているのは異常だ。
「飢えてる」
遠巻きにシュネルと『暁の戦乙女』と、よく分からない子供を視界に入れて、トーシャはじっくりと観察する。
『暁の戦乙女』を前にしたシュネルは、かつてないほどに飢えていた。
「でも。嫌じゃない」
飢えとは卑劣で卑賎で、抱えてはいけないものだと思っていた。
しかし、彼は違う。彼は、気高かった。
「シュネルの飢えは。慰め。じゃない。だから。違うんだ。ね」
そう言うのがしっくりときた。
彼の飢えは自らの向上につながっている。気高く、高潔に、手を届かせる飢え。
「素敵」
知らなかった。そんなの知らなかった。
——こんなに焦がれる心も、初めてだった。
「でも。それじゃ。私も。馬鹿な女と同じ」
愛は忌むべきものなのだろうか。自分を蝕む毒でしかないのか。
再び、命題がトーシャに降りかかる。
両親は何を間違った。ココナは何が正しかった。メロヴィアは何を伝えようとした——。
「そう。なんだ。ね」
それを教えてくれたのは、またもやシュネルと『暁の戦乙女』だった。
彼の飢えが一身に『暁の戦乙女』へと向かっている。そしてまた『暁の戦乙女』の飢えもシュネルへと向かっている。
そこには、歪な信頼のようなもの——愛があった。
お互いを満たせる存在は、お互いしかいない。
つまり、愛とは相互的なものなのだ。
——相互的な独占を、満足と呼ぶのだ。
「あは」
だから、両親は不完全だったし、ココナは満たされていたのだ。
「でも。それなら。私はあそこに。いれない」
頭をゆるゆると振って、自分の立場を嘆く。
シュネルの飢えは『暁の戦乙女』に向かっていて、決してトーシャに振り向いてくれないだろう。
無理やり手に入れることはできても、それは愛じゃない。
愛とは相互的な独占だから。
——それなら、彼に、彼自身の飢えがトーシャに満たせるということを示せばいい。
「茨の道だ。ね」
それはトーシャにバケモノを超克することを強いてくる。
しかし、満ちるということは簡単なことではないのだ。
シュネルも『暁の戦乙女』も簡単には満ちれない。
そのためにあらゆる手段を用いる彼を、トーシャは、祝福する。
だから、その一助になれるように、
「『初鍼』・心捻」
ストっとシュネルに気づかれないように、目の前の老人に鍼を刺す。
老人は、何が起きたかも分からず、心臓を捻り上げられて絶命した。
「あなたは……」
シュネルは突然現れたトーシャに、僅かに驚きを見せたが、すぐに平静を取り戻す。
「おじいちゃん。強かった。ね」
遠くから戦いを見ていたトーシャは、二人の戦いが、また、規格外であることを感じていた。
「でも。あなたは。それ以上。あれ。どういう原理な。の?」
「——ただの、魔法ですよ」
「ふーん」
切ったり捻ったり便利なものだ。血溜まりに伏す老人は明らかに対応が遅れていたので、むべなるかなという感じだ。
「ところで、私はこのようなことは指示してませんが」
「それは。ごめんなさい。かも。でも。この人が死んでも。死ななくても。あなたには。関係ない。でしょ?」
彼の飢えは『暁の戦乙女』に向かっていて、それ以外はどうでもいいはずだ。
むしろ、そういう無情さも素敵である。
「ええまあ。ただ命令違反は命令違反です。グテン殿にも悖る行為ですよ」
「処罰? 痛いのは。嫌」
「処罰はしませんが、新たに一つお願いを聞いてほしいですね。いいですか?」
「いい。よ。今なら。『暁の戦乙女』とも。戦っても。いいよ」
「それは結構です」
「むぅ」
かなりの勇気を奮ったのだが、すげなく放り捨てられる。
「——そこの老人の遺体を、『魔法連盟』に届けてほしいのです。どうせ、フレンの血を届けるのです。あなたにとって手間ではないでしょう?」
明かしていない企みがしれっと暴かれて、トーシャは驚くが、ポーカーフェイスでなんとか押さえ込む。
「届ける? いいけど。なん。で?」
「『再現者』にするためです。こちらでも形だけは模倣できますが、それでは意味がありませんので。専門的なことは専門家に頼みましょう」
「……そっちも。なん。で?」
答えてはくれたが、疑問に完璧に回答するものではなかったので、追加で質問した。
「じきに分かりますよ。——必ず役立ちますから」
これから世界の流れがどうなっていくのか、トーシャには分からない。
しかし、シュネルにはその流れが——さらには、果ての果てが見えているようだった。
「よく。分からないけど。いっか。処罰だし。ね」
「頼みます。ダイスによろしくお伝えください」
ダイス・アルジェブラ。名前は聞いたことがある。たしかパレスが、その人のところに行っていたはずだ。
どんな人なのだろうか。後で会う前にパレスから話を聞いておこう。
ともあれ、
「ああ、それと、その時なのですが、その遺体の名前を告げてください。——エール・オイリアンテと」
「わかった。エール・オイリアンテ。覚えた」
「くれぐれも間違えないように」
必要な要件を伝えきると、シュネルはこの場を後にしようとする。
その背中を「待って」と引き止めた。
「また。会える?」
また再び彼のもとに戻ってきたい。
今度は彼の飢えを独占できるように。トーシャの飢えを、伝えられるように。
「必ず、会えますよ」
未来のことはわからないけれど、彼の確信めいた発言は、とても安心できるものだった。
◯
今までで一番、自分の力を発揮できた。
今なら『暁の戦乙女』ですら倒せそうだと思ったぐらいだ。
でも、それ以上に彼は強かった。
彼の飢えはトーシャを完全に飲み込んでしまったのだ。
悔しいけど、でも、
「楽しかった。な」
満たされずとも、幸せだった。
だけど、
「————」
——どうか、彼は気高き飢えが満たせますように。
本文に組み込めなかったので話しますが、トーシャの喋り方には設定がありまして。
トーシャは生まれつき唾液が多く分泌される体質でして、連続で喋ってると、唾液が溢れて口端でアワアワしちゃうんですよね。それが恥ずかしくて、言葉を短く切って唾液を飲み込むようにしているんです。可愛いでしょ?




