第六十二話『鼓動』
トーシャの『気配繰り』によって、感覚が共有——すなわち、彼女の持つ飢餓感がそのままシュネルにも植え付けられた。
絶望にもよく似た、締め付けられながら底に引っ張られていく感覚だ。
彼女は常にこんなものを抱えているのかと——、
「同情など、必要ありませんね」
彼女は倒すべき敵で、シュネルにとって最大級の脅威だ。
互いに、ほとんどの手札を見せ合った。特にシュネルの公開した手札は、トーシャ以上だ。
幸いに、シュネルの魔法は明かされても対処が困難である。一方でトーシャの鍼は、シュネルに対して有効打を決めにくくなっている。
しかし、
「『初鍼』」
「————」
彼女の鍼に対しても、かなり目が慣れてきて、中途で切り落とすことはできるようになってきた。
そのまま切り落とした刃をぶつけてみるが、やはりトーシャは容易く回避する。
「すごい。ね。身体ぐちゃぐちゃ。頭ふわふわで。まだ。ちゃんと魔法使えるんだ」
「訓練してますので」
トーシャの返答にシュネルは面白みのない返答を返す。
実際、今の状況を楽しめる段階には入れていないのだから当然でもある。
理由は三つある。
一つは先の相対でも確かめたことだが、シュネルの魔法は『不可視』になっているが、『気配繰り』をできる相手にそれは通用しないということ。よって、直接攻撃を叩き込まなければならない。
二つめは、彼女がまだ手札を隠している可能性が高いことだ。二つが三つか、まだ隠し鍼があるだろう。
三つめは、彼女の鍼——特に『初鍼』が、シュネルの魔法と本質的に同じであることだ。
故に、最悪完全に対処されるかもしれない危うさを秘めている。
故に、ここからは、
「今だけに集中しましょう」
もし、万が一、同時に発生してる戦闘の一つで味方が負けた場合、シュネルがその対応をしなければならない場合がある。
しかし、今はその可能性を排除する。物事を簡単に、平易に、楽観に見よう。
ただ、信用を通して。
「————」
シュネルとトーシャが同時に飛ぶ。
不可視の刃が砂埃を起こし、それを巻き込みながら、さらにトーシャを追従する。
「————」
鍼が刺さらないものには、捩ることも砕くこともできない。
トーシャは隣の大きな家屋に転がり込んだ。しかし、砂嵐の破砕は止まらない。
「『初鍼』」
トーシャは家屋ごと回転させて砂嵐を相殺しようとするが、シュネルはそのタイミングに合わせて砂嵐を逆回転にする。
家屋と砂嵐の回転が、つまり、同じになることで、砂嵐は相殺されず、むしろ力を増して家屋を取り囲む。
右向きのモーメントは、家を地盤から持ち上げる。
「————」
シュネルは中のトーシャを勘案せず、既に半分残っていない屋根に手袋を外した掌を置いて、家をいくつかにぶつ切る。
貧民街の空に散らばるフラグメントに回転軸をそれぞれ挿した。
回転軸を中心に公転するフラグメントは、宙に固定される。
その星屑の隙間で、視線があった。
「これが。最後。ね」
「最期です」
「あは」
彼女の渇きが、飢餓が、一層増したのがフィードバックされる。
「『恢鍼』」
彼女の脚がたわみ、横向きに跳ぶ。
「『中鍼』」
破片を砕きながら跳躍する。破片は捩れて舞い散り、トーシャに新たな道を生み出す。
予測できない軌道から、彼女が鍼を飛ばすが——、
「守ってばっかじゃ。つまんない」
鍼がシュネルを逸れて、飛んでいくことに彼女は不満げに唇を尖らせた。
「しかし、こうしていればいずれあなたの命に届く」
「それは。あなたも。同じようなもの」
「ええ。ですからやりますか。根比べでも」
お互い命を消耗しながら戦っているのは、視覚的にも感覚的にも自明だった。
故に、このまま守っていれば、もしかしたら——、
「いいよ。やって。あげる」
宙を翔けるトーシャが、シュネルの正面に逆さ向きに落ちてくる。
その手には、今までのとは違う、新たな『鍼』が握られていた。
禍々しいその鍼越しに、トーシャは怪しげに嗤った。
「————」
その禍々しい鍼を、トーシャは刺さずに——呑み込んだ。
直後——、
「ぶ、わぁ」
彼女が吐血しながら、フラグメントの一つに落ちていく。
それは紛れもない、自傷だった。
しかし、現在、シュネルとトーシャは——感覚を共有している。
「ぶ」
胃を潰した時と同じぐらいの血が込み上げて、シュネルも同じように吐き出す。
同じになれたことを祝福するように、彼女はよがり微笑う。
「『致鍼』」
第四の仕込み鍼。その鍼は、命を溶かす毒の味がしていた。
それが『気配繰り』を通して、トーシャの肉体から、直接毒を喰らったわけではないシュネルにも、同じ感覚が付与された。
ドクドク流れる血液が痙攣しながら、全身を灼熱に包む。神経が侵されて、劈く痛みが脳機能を壊す。視界がカレイドスコープみたいに、色塗られる。
死が、ビビッドに、急速に近づく。
「だけど、ぶ、即死ではない……」
なりふり構わない心中技なら、お互いに即死だったはずだ。
しかし、まだ死はどちらにも訪れていない。
つまり彼女はここから生還する手段を有しているはずだ。
順当にいけば解毒剤だが、
「毒を食らわば皿まで……ですね」
シュネルは回転に乗りながら、トーシャの方に飛ぶ。毒を呑んだ彼女は、苦しげに距離を取った。
シュネルは揺れる脳を叩きながら、彼女を追いかける。
「これで。どっちが先に。死ぬ。かな……?」
「どうでしょうね」
生返事でシュネルはトーシャの表情を窺う。顔色は悪いが、死を予期しているわけではなさそうだ。
「『初鍼』」
シュネルは後ろの手すりに捕まって、背後の浮かぶ扉に入る。通過した後に、脚で扉を閉めて、それをそのままぶつける。
「————」
トーシャはそれを砕いて凌いだ。
破片は背後の回転軸に吸い込まれて、クルクルと回り出す。
「————」
その回転軸を消して、破片の一部をトーシャの背中からぶつける。
彼女は咄嗟に防御するが、破片の一つが肩を撃って、浮かぶフラグメントの一際大きなところに叩きつけられる。
『中鍼』を地面に刺して勢いを殺す彼女は、微かな違和感に顔を顰める。
「知ってる。血の臭い」
「その血は、エールさんのものです。思えば、この建物に見覚えはあるでしょう?」
「私が。あなたの素敵なところに。気づいた場所。だね」
シュネルが空に飛ばした家屋は、かつてエールとフラムが過ごしていた場所だった。
平穏に、平和に。
そして、シュネルがそれを破壊した場所でもある。
エールは死んだ。シュネルが殺した。
だからこそ、最後までやり通さなければならない。——毒を皿まで食らうのだ。
「『気配繰り』の条件は、体液の交換ですか」
「ゾクゾク。する。ね」
「しかし、感覚の共有はリスキーではありませんか?」
「——あれ」
会話していたトーシャが何かに気づく。その一瞬の隙に、シュネルは回し蹴りを入れる。
トーシャはそれをまともに食らい、穴の空いていた壁から放り出される。
「っ。なんで」
おそらく折れた腕と肋骨を庇いながら、トーシャが不思議そうに目を丸くする。
理由は、シュネルの身体があまりにも軽やかだったからだ。
すなわち、毒の影響や飢餓感の影響が失われている。——『気配繰り』を解除したのだ。
「己の気配に耳を傾けては」
回転しながら落ちるトーシャに、さらに横合いから破片が飛んでくる。
彼女は身体を打たれながら宙を舞っていた。
「対象の。変更……!」
飛び舞う大きめの床で受け身を取りながら、答えに行き着いた彼女はシュネルを見上げる。
「ご明察です」
受け身を取り静止した彼女に、シュネルは猛追する。
足場破壊し、組んだ両手で彼女を地面に撃ち落とそうとする。
「『恢鍼』・一消」
彼女は折れた右腕に鍼を刺して、腕が使い物にならないぐらいの力でシュネルの組手に合わせる。
反動で彼女の細腕はひしゃげたが、シュネルも無事では済まない。
思い切り直上に飛ばされて、回転する壁をぶち抜きながら、空高く飛んでいく。
「もう。これは。いらないかな」
トーシャは呟きながら、無事な左手の人差し指と中指を立てる。
そして、それを自分の喉に突っ込んで愛撫した。
「うぅ、ぁえっ」
喘ぐように彼女は吐瀉物を撒き散らす。そこには呑み込んだ『致鍼』が含まれていた。
「あは。気持ち。い」
必要なくなった毒の影響が抜けて、トーシャの足取りが幾分と軽くなる。
身体をくねらせながら、トーシャはシュネルを追いかけた。
「これも。もう。いいや」
せっかく交じり合えたのに、対象を変更されて『気配繰り』は何の価値もなくなった。
シュネルだったから良かったのに——エールにするなんて、いけずにも程がある。
シュネルは、建物にこびりついたエールの血を、極小の破片にしてトーシャに吸い込ませたのだ。
そこから『気配繰り』の感覚を逆算する形で対象を変更。おそらくフィードバックは、エールの『再現者』に向かった。
死してなお使い潰すシュネルの非情さに、胸が躍る。
トーシャはずっと、下品で卑怯な飢えに囲まれて辟易としていた。
飢えは忌むべきもので、トーシャ自身それを抱えていた。トーシャは早く埋めたくて、無駄な時間を過ごした。
だけど、シュネルは違った。
彼は飢えていた。しかし、気高かった。
飢えに気高さがあるなんて、知らなかった。
大義や信念とも違う、その飢えの気高さに魅入られたのだ。
だから、あなたが——、
「大好き」
そして、あなたと——、
「もっと深く。交ざりあいたい。の」
彼との命のやり取りは興奮が止まらなくなる。彼の気高さが、トーシャの渇きを湿らせる。
彼の隅から隅まで、喰らい尽くしたい。
「気高いあなたを手に入れて。私は満ちるの」
『七躙』も『奠国』もグテン様も、もう知らない。
その恐ろしいまでの気高い飢えを、独り占めできたなら、他にはもう何もいらないのだ。
だから、シュネルに勝てば、暁じゃなくてトーシャを見てくれるかな。
「————」
空へと飛ばされていくシュネルの、その直下のフラグメントでトーシャは彼に手を伸ばした。
「リケンに作らせた。最初で最後の。とっておき」
一本だけの、最後の最後の仕込み鍼。
それを添えるように、シュネルへ飛ばした。
「『果鍼』」
その鍼は、認識できないほどに細い。
人も動物も、空も大地も海も、世界が認識できない極細鍼。
全てを貫通し、超えていく。それはさながら、何人も捻じ曲げられない初恋の乙女心。
それがシュネルすらも貫通して、太陽まで飛んでいく。
「————」
『果鍼』は捩ることも砕くこともしない。
ただ、均衡を崩すだけの鍼だ。
『果鍼』に貫かれた身体は、均衡を失って——、
「———っ」
何かに気づいたシュネル。その身体が、先端から『破れていく』。
崩れるはずのない均衡が、異次元の介入によって崩れ始めているのだった。
「——どうやら、これで最後みたいですね」
最後の鍼を消費したトーシャの顔色を正確に読み取る。
しかし、身体の割破は止まらない。
シュネルはそれに見向きもせず、両手を虚空に伸ばして、
「『◼️◼️』」
ドメインのない、無秩序な魔法が世界をひっくり返した。
「————————。
————————。
え」
トーシャはひっくり返った世界で上向きに落ちていた。
いや、それはすなわち地面に落ちていることなので、物理法則的には正しくて——、
「ぅぶ」
戦場はずっと、空に浮かぶ建物のフラグメントだった。
部屋があって、通路があって、広間があって、床があって、壁があって屋根があって、扉があった。
それがなくなった。——否、トーシャの視点が変わったのだ。
上を見ている。空を見ている。太陽を見ている。
しかし、今のトーシャにとってそれは下で、奈落だった。
でも、そっちには落ちていかない。
物理法則は上から下だから。空から地面だから。
「ぅぶ」
脳を撹拌するような眩暈が、トーシャの嘔吐感を促進する。
上に——つまり、下に、落ちていく。力は加わってない。天地がひっくり返ったという感覚だけで、落ちているのだ。
圧力に負けて、トーシャは足場にいていた建物の一部をぶち抜く。
そのまま、切り離されたとある一室に入った。
そこは浴室だった。
トーシャは黄ばんだバスタブにすっぽりと収まる。
「は分気、かすでうど」
シュネルが天井を——つまり、床を歩きながら歩いてくる。
心地いい足音が、トーシャを半ば現実に戻してくれた。
「うょしまし戻」
シュネルが指を鳴らすと、トーシャの天地が元通りになる。
穴の空いた天井を見上げると、太陽が近くにあって、眩しかった。
「どうですか、気分は」
そう言われてやっと最初の問いかけの意味が判然とする。
「わからない。よ」
トーシャはバスタブからだらっと左腕を垂らし、力なく笑いながらそう答える。
さっきの衝撃と体験で、もう身体は動かせなかった。
「私のことですか。それとも、気分のことですか」
「どっち。も」
「そうみたいですね」
シュネルは深い洞察で、トーシャのことなどお見通しだったのだ。
『果鍼』のことも、恋心のことも。
「でも。あなたはどうせ。教えてくれない。の」
「——ええ、当然です」
シュネルは片膝をついて、バスタブからまろび出たトーシャの左手を掴む。
そして、口づけをするようにそっと手首を親指でなぞった。
手首はさっくりと割れ、ドクドクと血が流れる。
「あは。私。死んじゃう。ね」
ドクドクと命が溢れていく。トクトクと脈が弱くなっていく。
だけど、胸だけはずっと高鳴ってて。
「居てくれる。の?」
「見届けますよ。最期まで」
「私のこと。好きなの?」
「いえ、全く」
シュネルの返答にトーシャは薄弱に微笑う。
そのまま、空に視線をやった。
「太陽って。どうしてあんなに。眩しいんだろう。ね」
「その答えを、私も探しているのですよ」
彼の気高い飢えは、きっとあの太陽ぐらい絶対的でないと満たせないのだ。
「あは。私。負けちゃった。ね」
「ええ、あなたの負けです」
——ドクドク、トクトク、ドクドク、トクトク。
彼の声を聞く命が、彼の存在を知覚する命が、彼に惹かれてしまう命が、もう足りない。
——ドクドク、トクトク、ドクドク、トクトク。
「————」
ドクドクドクドク、暗くなっていって。
トクトクトクトク、止まらなくて。
ドクドクトクトク、終わってゆく、
「————」
の。




