第五十八話『アルト・コンサティーナの史記』
初めて剣を握ったのは、三歳の頃だった。
まだ食器すら満足に使えない幼童の手で、無邪気に剣を振り回した。
暖かな日差しが差し込む、この森の真ん中で。
「ダメだな」
浅く木の幹についた剣傷をなぞりながら、ストリートは吐き捨てる。
その四文字は、無邪気な幼子にはあまりにも重すぎる言葉だった。
だから、今でも夢想する。
その言葉が翻ってくれることを。
◯
不貞腐れた子供が廊下を歩いている。りんごのようなほっぺは空気を含んで膨らみ、ズンズンと小さな足で目いっぱいの足音を立てていた。
だが、闇雲に廊下を歩いているわけではない。
彼女は、妖精の羽ばたきのような音色に誘われて進んでいた。
そう——、
「おかえりなさい」
子供と同じ栗色の髪を透かした女——アリーナ・シュヴェールがアルトを迎え入れる。
アリーナは窓辺で弾いていた『ハープシコード』の手を止めて、アルトに胸を開く。
アルトは不貞腐れたまま、アリーナの胸に収まった。
アリーナがそのままアルトの髪を梳き始めると、自然に言葉がこぼれ落ちる。
「お父様のバカ——ッ」
世界中のみんなに聴こえてほしいぐらいの気持ちで吐き出した。
「口をひらいたらダメダメダメダメ、ダメばっか! 最悪!」
小さな手をイスにペチンと叩きつけて、全力百パーセントだ。
「コラ、物に当たったらダメでしょう?」
「お母様もそー言うんだ」
「ダメなものはダメって言わないと。私もストリートさんもアルトさんも同じこと」
「お父様は言い過ぎ。お母様は正しすぎるからダメ」
そっぽを向いてツンと唇を尖らせた。
アリーナはその唇の先を掴んで、
「アルトさんに生意気はまだ早いですよ」
「生意気じゃない」
「アルトさんの中ではそうかもしれないけれど、お母さんにはそう聞こえるのですよ」
諭すような声音は優しく、しかし、強烈に大切なことを語ってくれる。
「言葉は何を語るかよりも、誰がどう受け取るかが大事なのです。善意も悪意も、素直に伝わるかどうかなんてわかりませんからね」
「つまり?」
いまいち身に入ってこなくて、生意気にも要約を求める。
「お母さんはアルトさんに生意気を言われて心が悲しくなりました。なので、今日の『ハープシコード』のお稽古は無しです」
アリーナはアルトの目の前でバッテンを作る。その腕を辿って見上げると、アリーナがにっこりと微笑んでいた。
「えっ」
驚きのあまり喉が鳴る。
「冗談です」
「え」
どっちなのか分からなかったが、とりあえず稽古はあるようだ。
「今日は特別です。——ええ、特別ですからね」
アリーナはアルトの両手を掴んで、ハープシコードに乗せる。今はまだ硬い、無機質な下段の鍵盤に触れる。
「どうしたの?」
アルトの手に覆い被さるアリーナの手が、少し震えているのが見てとれた。
「そういえば今日の音もちょっと変だった。なんか——」
「——こうでしょうか」
アルトの手と一緒に鍵盤を弾いた。視認すればすぐに変化に気がついた。
鍵盤の沈み——力の入り方がいつもより僅かに強いのだ。
「なんで、違うの? いつもこの曲は『完璧』なのに」
アリーナは毎日同じ曲を奏でている。同じ力、同じ音色、同じタイミング。寸分違うことのない完璧を見せていた。
それなのに今日だけは不完璧だ。
不思議に思って見上げると、アリーナの眼差しにアルトの瞳が囚われた。
「アルトさんは『完璧』が視えてしまうから、聴こえてしまうから、それを求めてしまうのでしょうね」
優しく言葉を紡ぎながら、アリーナは上段の鍵盤で旋律を奏で始める。
それはまたもや、アルトにとって不完璧な演奏だった。
「音色も言葉もおんなじで、大事なのは誰がどう受け取るかなのです。——お母さんの演奏は下手でしたか? 聞くに耐えませんでしたか?」
「ううん、上手だった」
アリーナの確認をアルトは否定する。
音色もタイミングも感情の込め方も僅かに違うが、いい演奏だった。それは間違いない。
「でしょう? お母さんの演奏は世界で一番上手ですから」
誇張抜きに、アルトも本気でそう思う。
「アルトさんの演奏は、お母さんの『完璧』に近づいています。と、同時に縛られています」
静かにアリーナは旋律を奏で続ける。
「『完璧』を求めるのは悪いことではないのです。だけど、自由であることを忘れてはいけません。楽器も剣も、自らが操るのではなく自らと共に踊るように」
近くで囁かれているのに、アリーナの声が遠ざかっていってるような感覚になる。
それの意味がわからなくて、アルトはどうすることもできなかった。
「焦ってはダメです。一歩ずつ、丁寧に、アルトさんの才能を育んでください」
それはきっと、剣の稽古でダメ出しばかりされるアルトへの慰めの言葉だ。
「お母さんは、ずっとアルトさんに期待していますから」
鍵盤をはじくアリーナの手が止まる。
「そしていつか、お母さんを罰しに来てくださいね」
「どういうこと?」
着地したはずなのに着地点が見えなくて困惑する。
だが——、
「——お話はおしまいです。お稽古の続きをしましょう」
「うん……」
再びアリーナの手がアルトの手に触れる。
震えは止まっていた。
正確な一音を起点に、アリーナはいつも通りの演奏を始める。
アリーナが毎日『完璧』に弾いていたその楽曲は——、
「——『コンサート』」
演奏が始まると、さっきの話なんか忘れてしまったみたいに、奏でる指先から幸福が溢れ出す。
それは母と子の、二人の絆を象徴するかけがえのない楽曲。
——その、最後の演奏が始まった。
◯
「いやだいやだいやだ。待って、……待ってってぇ……っ!」
ジタバタと小さな身体で必死にもがく。
しかし大人の男性に力がかなうわけもなく、抵抗はほぼ無いに等しかった。
「なんでなんでよ、なんで……! お母様! お父様っ! なんでぇ!」
必死にストリートとアリーナに呼びかける。
だが、そこにストリートもアリーナもいない。屋敷の門は閉じられ、誰にも見送られることはない。
ただ、アルトという存在がシュヴェール家という世界から切り離されていく。
「いやだぁっ!」
同時に馬車の戸が閉められて鍵をかけられる。アルトは思いきり額をぶつけた。
「降ろして! 降ろしてよっ!」
涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、アルトは御者台に向かって嘆願する。
「降ろしてよ……」
手に血が滲むほど壁を叩いても、御者はうんともすんとも言わずに馬車の脚を進める。
もう、アルトは帰れないのだと気づいた。
気づいて、気づいてしまって、気づいてしまったから——。
「ああああぁぁぁぁああっ!」
椅子を噛みながらアルトは絶叫した。
子と親はこんなに呆気なく切り離されていいものなのか。それが世の中なのだろうか。
何が正しくて、何が間違いだったのか。
「————」
今はただ産声のような絶叫で、しかし、不幸を奏で続ける。
産声。
なんと皮肉な熟語だろう。
だって今日は、アルトの四歳の誕生日なのだから。
——そして、アルトは廃人のように眠った。
現実か夢か——何かの間違いだったのではないかとアルトは目を覚ます。
いや、ずっと目は覚ましていた。とっくの前に馬車が停止していたことも知っていた。
それでも、現実をふざけた夢のままでいさせたかったから、動き出せなかった。
だけど、それも長くは続かない。
「おはようございます。お嬢さん。——どうぞ、私と一緒に来てください」
丁寧な物腰で、淡い藍色の髪色をした男は、アルトの世界に踏み込んでくる。
見たことがあるような気がしたのは、彼がどこにでもいるような普遍な容姿だったからか。
泣きじゃくってボーっとする頭では、記憶を呼び起こすのもままならない。
アルトはその男にそっぽを向いた。
「無視ですか」
「————」
「それで、構いませんよ。落ち着いた頃に、また」
アルトを無理やり連れていくでもなく、男はすんなりと引き下がった。
それが意外で——そして、恐ろしかった。
その夜のアルトはとてつもなく大胆だった。——あるいは狂気的だった。
世界が静まり返った後、アルトは這い出るように馬車から移動する。
隣接しているのはおそらくさっきの男の家なのだろう。
アルトを買うぐらいなのだから大層な家を持っているのかと思ったが、存外にも質素な家だった。アルトの家の方が百倍立派だ。
だからこそ、侵入は容易かった。
無防備に開放された窓から、片手に小枝を握りしめ侵入する。
小枝は、あの男を刺し殺すためだ。
小さな殺意と、大きな大胆さを持ってアルトは男を探す。
幸い耳が良かったので、寝息を頼りにしてすぐに特定することができた。
男が背を向けて眠っている。
刺し殺すなら首を一突きだ。アルトは先端に力を込めて——、
「———!」
小枝の先端が『見えない刃』のようなものに切り飛ばされて、アルトの殺意が未遂に終わる。
バレた。
その焦りから、アルトは何としても男を殺さなくていけないと躍起になる。
急所が守られている可能性があったので、腰、膝裏、アキレス健に狙いを澄ますが、それより先に毛布が飛んでくる。
その背後で刹那、男が動いたのが見て取れて、咄嗟に小枝を後ろに回すが、
「これに反応しますか」
剣でもないただの枝は、男の腿を強かに打つに終わったのだった。
だけど——、
「あなたのお父様なら切断も可能でしたでしょうね」
「———っ」
内心を見透かされてアルトは唇を噛む。
「腕力の問題ではありません。根本的に世界の捉え方や尺度が違うんですよ」
シュヴェール家でないものが、シュヴェール家のことを知った方な口で講釈する。
「私だって……」
とても腹立たしくてアルトは口を開く。
「私だって知ってるもん!!」
「いいえ、知りません」
その小さな身体の大きな反抗は、一切の確認すらされずに否定される。
「特に、精神面でそれが露呈してしまっているのが問題ですね」
男が膝を折ってアルトと目を合わせる。
そして、
「私の目にあなたは今、どう写っていますか?」
男の水晶のような瞳に、今のアルトが複写される。
擦れた膝、先端の折れた小枝、ボサボサの髪——殺意に塗れた醜悪な顔つき。
「シュヴェール家の剣は、そのような俗欲を叶えるためのものではありません。——あれの理念は世界の守護者ですから」
「ちが……っ」
よろよろとアルトはへたり込む。
それじゃあまるで——、
「私が捨てられたのは、正しいことだったの……?」
残酷な現実を突きつけられて、力が入らない。
「少なくとも、そう判断した人がいるからこそ、あなたはここにいるのでしょうね」
「————」
「あなたは目がよくて耳がいい。だから見えるものばかりに意識がいってしまう。それは大層な能力ですよ」
男がアルトの能力を誉めてくれるが、全く靡かない。
だってそれでは、シュヴェール家にはいられないのだから。
「見えるものだけを手に入れるというのも、十分に得難い能力ではありますからね」
アルトはきっと恵まれている。
それでも——、
「私はあなたの生き方を定めません。別にあなたを買ったわけではありませんから。しかし——」
男が先を言い終わる前に、アルトは男の手を掴んで引っ張った。
「剣を、振り続けたい」
自分が捨てられた理由を会得してストリート見返すために。
そして、
「お母さんを罰するために」
アルトができるのだと証明して、母を罰さなければ、母は永遠に苦しんだままだ。
だから、アルトがやらないといけないのだ。
「——ええ、わかりました」
男は頷いた。
その契約が、アルトの人生を良い方に傾けたのか悪い方に傾けたのかは、今も分からないけれど、
「申し遅れました。私はシュネル・ハークラマーと申します。以後お見知り置きを」
きっと、長い付き合いになるだろうと、思った。
◯
剣の修行はアルトにとって辛く苦しいものだった。
何故なら、アルトは剣の頂を知っているから。
その血を受け継いでおきながら、そこに到達できないのがもどかしい。
——そんな狂おしいほどの感情で剣を振り続けて、三年が経った。
アルトももう七歳だった。
「また、見えすぎていますよ」
木剣を大きく弾かれ、アルトは地面を転がる。
「ジャストのタイミングで受けるのではなく、こちらの都合に引き込むように受け流すのです」
もう何度目になるか分からない指摘を聞く。
頭では分かっているのだが、身体が上手く動いてくれない。常に視覚と聴覚がアルトの肉体を先行するせいだ。
「不可視で、しかしそこにある可能性の顕在化こそが、シュヴェール家の見えないものの核です。まずはそのステップワンをしっかりと思い出しましょう」
優しく語りかけてくれるシュネルの言葉は、何故か刃のように冷たくアルトを穿つ。
毎日十時間やったとは言わないが、三年間で相当な時間を費やしたはずだ。
それでもアルトはまだステップワンで足踏みしている。——むしろ、後退している気さえする。
歳を重ねて動体視力が鍛わるごとに、見えないものから遠ざかっているような感覚があるのだ。
しかし、一度決めたことだから——アルトは木剣を握り直す。が、
「シュネルさん?」
「すみません。本日はこれ以上付き合ういとまがなく。残りは自主練でお願いします」
シュネルはそそくさと片付けのモードに入っていく。最近はこういうことが多い。
「なんだか忙しそうね?」
「ええ、非常に」
シュネルは肯定するが、その仕事内容までは決して教えてくれない。
アルトも負担になりたくないから、特別追及することもなかった。
「二週間ほど王都を離れるので、しばらく鍛錬には付き合えませんことを理解していてください。——何かあればメレブンを伝って私に連絡を」
「分かったわ」
メレブンとは、シュネルと仲がいい王国お抱えの魔法使いだ。アルトがシュネルに拾われるずっと前から交流があるらしい。
「そういえば、今日はレガートが私の家にいるはずです。もしよかったらそちらに行っても構いませんよ」
レガートはアルトより一つ年上の、同じくシュネルに拾われた少年だ。
メレブンよりはよっぽど話はしているが、どちらかというと苦手なタイプだ。
友達として一緒にいて楽しいのだが、たまに眩しすぎて、内省的に自己を嫌悪しているアルトの心が辛くなってしまう。
「考えておくわ」
本当にどうするか決まっていなかったので、返事も本心で曖昧になってしまった。
シュネルはそれを終わりの合図にして練兵場を出て行った。
「どうしようかしら」
ウェーブがかった茶髪を梳きながら、アルトは息を吐く。
シュネルには自主練と言われたが、正直なところ彼の指示がない状態で剣を振って何かを得られるとは思えない。
はっきり言って、心は半分挫けていた。
「いいえ、お母様と約束したのだから、やらなきゃ」
アルトの一番の原動力は、母親から言われた『罰しにきて』という言葉だった。
アリーナはずっとアルトに期待してくれている。だから、答えてあげなければいけないのだ。
シュヴェール家が見限ったことは間違いだったのだと正さなくては。
そのためにも、たとえ建設的ではなくても剣を振り続けなければ。
「遅い、遅い、遅い」
ぶつぶつと念仏のように呟きながらアルトは剣を振る。
いくら振っても『完璧』には程遠い。しかし思い描く『完璧』は、近づいてこない。アルトが近づいていくしかないのだ。
「遅い、遅い、遅い」
振れば振るほど『完璧』から乖離していく。
見えてくるのは剣の頂ではなく、自らの無能だけ。シュヴェール家の行いの正しさだけが肯定されていく。
それでも、見えない何かに手が届くと信じて——、
「遅い、遅い、遅い——」
「——研鑽を積んでいるとは思えぬ発言だな。ん?」
剣を振っていると背後から、高圧的な野太い声が聞こえてくる。振り返れば、壁のような大男が立っていた。
見たことはあるはずだが、パッと思い出せない。たしか騎士の——、
「ジャイブ・フォーセだ」
「ジャイブさん……」
汗を拭いながら上から下までジロジロ見るが、名前を聞いてもピンとこなかった。つまり、名前を知るのは今日が初めてだったのだろう。
「あ、わたくしは……」
「ストリートの嬢だろう」
ストリートの名前を出されて身体が硬直する。隠しているわけではないが、誰も堂々とそれを口にしたことはない。
実際それでよかったし、それがよかった。触れづらいことだろうし、アルトも返答には困る。
だから、直截に述べる彼には何かしらの意図があるのだろうと思われた。
「ええ、そうよ。何か用があるのかしら?」
「用というほどではない。たまたま見かけて気になったから来た次第だ」
「気になる?」
気にかけてもらえるような関係性ではないはずだ。もしかしたらシュネルが何か言ったのかもしれないが、彼と仲良くしているなどというのは聞いたことがない。
だから、彼の気にかけはアルトに対してではない。シュヴェール家全体に対しての気にかけだ。
「ああ」
ジャイブの続きを待つ。
そして、口が開かれる。だけど、その言葉は本当に訳がわからなかった。
だって、
「今朝、母親が亡くなったというのに、こんなところで剣を振っていていいのかと気になってな」と、そう言われたのだから。
アルトは、ふらふらと魂が抜けたみたいに歩いていた。
ジャイブに母親の死を告げられた時、真偽を確かめるでもなく練兵場を飛び出していた。
しかし、この足の行く末は分からない。シュヴェール家に向かっているのか、それとも母親の姿を探しているのか、それとも——、
「——嘘よ」
信じたくないから、本当にしたくないから、アルトは耳を塞いで目を瞑った。
どこだか分からない場所で、アルトは一人で鉱石のように蹲る。脆い場所に傷がつかないように、じっと、じっと。
「——アルト」
怖くて蹲っていると、塞いだ耳の隙間から音が聞こえてきた。
昔からそうだ。彼の声は何故かアルトに届くのだ。
「レガート……」
閉ざした目を開いて顔を上げると、透き通った琥珀色の瞳がこちらを見つめていた。
「どうして……ぁ」
疑問を投げかけながら周囲を見ていると答えがすぐに見つかった。
アルトはシュネルの家に帰ってきていたのだ。
「アルトは庭で蹲っていたんだよ。たぶん三時間ぐらい」
「三時間」
思えば日がだいぶと傾いている。日没までそう長くはないだろう。
「夜は冷えるからさ。ひとまず中に入りなよ」
同じ夕日を見て、レガートがそう提案してくる。
彼は優しいから、きっと何も聞いてこない。不明を留める共犯者になってくれる。
だったら——、
「——待って」
甘い考えを飲み下し、アルトはレガートの手を掴んだ。
頼み事をするためだった。
「わたくしをシュヴェール家に連れてって。あなたなら日没前に着けるから。——お願い、します」
それは自分でも卑怯な頼みだと思っていた。
何故なら、
「……僕の力は、許可がないと使えないんだ」
レガートの能力は、シュネルとメレブンによって制限されている。使用には彼らの許可が必要だった。
それはアルトも心得ていたし、だから卑怯な頼み事だった。
だって——、
「だから、後で一緒に謝ってよね」
それでも、彼は断らないから。
レガートは背を向けてその場に片足をつく。背中に乗れということだ。
アルトは大して歳の差のない彼の、やたら大きく感じる背中にしがみついた。
「ありがとう」
「言っとくけど、全ての移動手段より速いから覚悟しといて、ねっ!」
初速の緩やかさはなく、最初からトップスピードで爆走する。
思ったより負荷が少ないのは、彼がなんらかの干渉をしてくれているおかげだが、具体的なことはさっぱりと分からない。
ただ、一つ分かったのは、
「——着いたよ」
馬車で一日の距離を、たった一時間で間に合わせたということだけだった。
「ここからは……」
「ごめんなさい。わたくし一人で行くわ」
「分かった」
シュヴェール家の大門を前にしてレガートと別れる。
家の敷居を跨ぐのは、捨てられたあの誕生日以来だ。
邸からハープシコードの音色は聞こえない。それがアルトの焦燥を掻き立てる。
石畳を擦る音。噴水の流れる音。芝の揺れる音。
アルトの望む音はまだやってこない。
虫の鳴く音。窓ガラスの揺れる音。逸る呼吸の音。
まだ、こない。
階段を踏む音。扉を叩く音。騒めく鼓動の音。
そして——、
「————」
扉が開いて——何の、音もしなかった。
ただ静寂だけが、シュヴェール邸を支配していた。
——もう、この時には確信に変わっていたように思う。
「アルト様——。っ!」
扉を開けた使用人には目もくれず、間をすり抜けて邸に侵入する。
行く場所は決まっていた。
シュヴェール家で最もあたたかな、アルトの魂が還る場所。母と共にハープシコードを奏でた——『コンサート』を弾いた、世界の始まりの場所——。
「———ぇ」
そこには、何も残っていなかった。
使い古されたハープシコードも、陽だまりに溶け込む夢も、揺り籠のような母の愛も。
全てが無になっていた。
「ここには何もないぞ」
掠れた男の声がした。
「ストリート・シュヴェール……っ!」
もはや父親とも思えない忌々しい男の名を呼んだ。
赫怒を宿した牙を剥きながら、振り返り吠えた。
「わたくしたちの場所をどこにやったのよ!」
しかし、ストリートはまったく意に介さず小さくため息をついた。
「妙な喋り方で品格でも得たつもりか? 浅薄だな」
刺々しい言葉にひらりとかわされてアルトはさらに憤る。
それは図星を衝かれたからなのか、まともに取り合ってくれなかったからなのか。
しかし、もはや関係のないことだった。——ストリートの抱くものに気づいてしまったから。
「その、子は……」
「あえて、いう必要があるか?」
その突き放しとも呼べる肯定に、アルトは心がはち切れそうになる。
アルトに、弟ができた。そして——、
「ぁーう」
弟の純朴な瞳と目が合う。その瞬間、アルトは足から力が抜けて立っていられなくなった。
まるで、生まれながらにアルトと持っているものが違うと思わされたからだ。
彼は『剣聖』になる。なるべくして生まれた。無才のアルトとは隔絶した、世界からの祝福者。
彼の前ではアルトの存在意義など、無いも同然だった。
「解したか。ならば、いい加減気づけ」
何もなくなった部屋を見回して、ストリートが吐き捨てる。
「見えぬ愛を追いかけるな」
それは剣の頂に届かない、アルトへの最後通牒だった。
母を亡くし、シュヴェール家という立ち位置さえ奪われて、アルトの存在理由が瓦解する。
母との約束があった。父への反骨心があった。弟への嫉妬と羨望が生まれた。
母は期待してくれていた。父の失望には申し訳なかった。弟の純心は恐ろしかった。
そんな堂々巡りの陰と陽——期待と失望と純心の糾いから、アルトは——、
「————」
アルトは、逃げた。
逃げて逃げて、先に進むことなくただ逃げた。
何も叶えられない。何も得られない。アルトの世界の全てに不幸を落とし、後始末さえつけれない。
これで、おしまいだ。
「————」
終わらせ方は分かっていた。だけど、アルト一人の力では終わらせられなかった。
弱さが、不甲斐なさが、その決断に踏み切らせない。
それは死よりも重く、人生の数多の選択の中で最も濃厚なもの。
その幼さには余りある質量を秘めている。
一人では到底踏み切れない。
「——アルト」
聞こえるはずのない声が、雨音の隙間から明瞭に聴こえてくる。
「シュネル……さん……」
どうしているのかなんて考える余裕はなかった。
そこにいるはずのない彼は、ずぶ濡れのアルトを抱いた。それだけが、アルトにとって世界が変わるような大きな出来事だった。
「——剣を、捨てましょう」
その瞬間、アルトは降り注ぐ雨を押し流すように泣きじゃくる。それは救われた喜びであり——、
「ごめんなさい。ごべんなざい、ごぇんなさい……っ」
母を永遠に苦しめてしまうことへの謝罪だった。
——この日から、アルトは剣を振ることをやめた。
◯
剣を捨てたアルトの心は、表層的に非常に軽やかなものだった。
新しい武器——『コンサート』と戦い方——『楽欲』を得て、アルトは幼いながら軍人や騎士を圧倒できるようになった。
全てシュネルが考えてくれたものだ。彼のおかげで、自らの無価値を少しづつ溶かすことができていた。
——フレン・ヴィヴァーチェが現れたのは、そんな折だった。
「『輪国』の森林汚染の特定、ターラ卿私兵の『王都平準』の阻止、『天浄党』のシタール村占拠の無血開城」
これらはフレン・ヴィヴァーチェが一年以内で叩き出した成果だ。
表向きはシュネルの功績となっているが、軍人や騎士、貴族たちはフレンがやったことだと知っている。
彼女の異常性は、まだ齢十歳だということだ。だからどこにも所属できず、シュネルの功績となっているのだ。
アルトだって何個か誇れるような仕事はした。しかし、その功績のことごとくを、一年にも満たない月日でフレンは上回った。
別にアルトは自らの功績に執着はなかったし、むしろノンダルカス王国が平和に寄与しているフレンに尊敬すら抱いていた。
一方で、アルトの心ではそれと反対向きに回る感情があった。
フレンの功績を支えているのは、尋常でない剣の才能だったのだ。
それはアルトがこの世で一番欲しかったものであり、永遠に掴み取ることが叶わないものだった。
だから、フレンのことが本当に誇らしかった。誇
それでも——、
「——以上がアルトにやってほしいことの全てです」
久方ぶりに招かれたシュネルの家はいつもと変わらぬ空気を纏っていて安心感がある。
だから、尋常じゃない提案をされた時は、絶対の信を置いている自分の耳を疑った。
「フレンを孤立させる……?」
「ええ。寄る辺を失わせ、一度孤に立ち返ってもらいます。そのためには、アルトの協力が必要なんですよ」
「協力したら、フレンは……!」
「無事じゃすまないでしょうね」
シュネルの言葉に淀みはなく、彼が無事じゃないと言うのなら、フレンは無事ですまなくなる。
そんなことに賛同できるわけがない。
「——時に、アルトの弟さんですが、先日十歳になられたそうですね」
アルトが否定の言葉を繰り出すより早く、シュネルが喋り出す。
アルトは弟という単語に肩をビクつかせて、シュネルを睨む。
「何が言いたいのかしら」
「私は何も言いませんよ。初めて会ったときに言ったはずです。あなたの生き方は定めないと」
これは脅迫ではない。一度破られたその誓いが、再び効力を帯びてアルトに突きつけられただけだ。
あのとき剣を振り続けると決めたように、アルトの己の選択で刺す必要があるのだ。
アルトは——、
「————」
シュヴェール家なんて、どうでもいい。弟だろうが父親だろうが、もはや関係のないことで、生き死にに関心なんてない。人質として不適格も甚だしいだろう。
——などと、割り切れなかった。
だって『家族』なのだから。
『家族』は大事にしなくてはだめだ。友人なんかのりよっぽど強い繋がりなのだから。
逃げて、逃げて、それでも逃げ切ることなんてできないのだ。
「でも、フレンのことだって……」
大切で、誇らしくて——それを思うたびに、逆巻きの黄薔薇のような感情が開きを増していく。
もし。もしもの話だ。
フレンを孤立させたとして、それで彼女は簡単にやられるだろうか。
剣才で己が道を切り開いてきた彼女ならば、どんなに追い詰められても活路を作れるに違いない。
むしろ、窮地に発露する輝きを見たいとさえ——、
「————」
今、危うい考えに至っていた。
誰かの可能性を見たいがために、極悪な手段を取るなど正気の沙汰ではない。
そうだ、アルトは狂気には堕ちない。シュネルにも、過っているとしっかり言うべきだ。たとえ、それで敵対することになろうとも。
ちゃんと——、
「——少し、考えさせて……」
「ええ、存分に」
腕を抱き、か細い声で選択を保留した。そして、シュネルの家を後にした。
何故、やらないと言わなかったのか。やらないと言えなかったのか。
その答えを探すように、ふらふらとした足取りで詰所に向かった。
もしかしたらフレンに会えるかもしれない。そんな心もあった。
何かの変化を期待して、アルトは廊下を歩く。
「——おっと」
「あ、ごめんなさい」
「いえ、こっちも不注意でぶらぶらしてたんで、お互い様です」
考え事をしながら歩いていたからか、紫髪の男とぶつかった。
相手は騎士服を纏っていたが、アルトの知っている誰かというわけではなかった。
もっとも、アルトは騎士という存在も自分のコンプレックスを刺激するので、あまり関わらないようにしていた故に、知っている人は少ないのだけれど。
「大丈夫そうなら、よかったわ。それじゃ……」
話す理由もないので、早々に立ち去ろうとする。
しかし、
「待ってくださいよ。かなりしんどそうで、ヤバみが深めに見えるんですけど」
「ヤバみが深い……よく分からないけど、しんどそうに見えるのなら、早く休ませてちょうだい」
騎士にしては軽薄な言葉遣いが気になったが、わざわざ改めさせるほど細かくもない。
ただ、不思議な感覚だが、目の前の男から一刻も早く立ち去りたかった。
「——オレの見立てによると、精神的な不調だと思うんですけど」
去り際にかけられた言葉に、心が籠絡されたのを感じた。
そして、その牢獄は今のアルトに抜け出すことは不可能だった。
「仮にそうだとして、それを知ってどうするのよ」
「——話、聞きますよ」
心の仄暗い弱さを撫でるような声音で、彼は擦り寄ってくる。
きっと、それだけではないのだろうけれど、アルトは訥々と会話を始めてしまった。
「自分の、心が分からないのよ」
順行する正の感情と、逆行する負の感情。アンビバレンスとも違う形容詞がたい二つをなぞっていると、どこに立っているのか分からなくなるのだ。
「心から憎いと思った相手が、かけがえのないほど大切な人なのよ。だけどそのせいで、死んでほしくないのに、殺す方に天秤を傾けられる」
「そして今、傾けざるを得ない状況に陥っているのですね」
「そして、わたくしはそちらにきっと傾けてしまう」
シュネルの前で即断できなかった時点で、そうなるのは必然的だった。
仮にそちらに天秤を傾けなくとも、この感情を自覚した時点で二度と同じようには接することができない。
シュネルから話を聞いた時から、もう後戻りは不可能だったのだ。
「——ならばいっそ、全てぶちまけてしまえばいい」
アルトの葛藤を見透かして、彼は提案をしてくる。
「憎悪や嫌悪、あるいは『嫉妬』という感情を正直に話すのは加害には当たらないと思っている」
「————」
「何の覚悟もないのに好意は受け取りたいと思うのは勝手だが、嫌悪に無頓着なのはいただけない。その両面の評価が、その人の人間性だろう」
彼は、片方だけではアンバランスだという。誰かの相対評価は好悪が少なくとも一要素なくてはならない。
「オレはユーの甘美な『嫉妬』を肯定する」
その後押しが、アルトの内側にある逆巻く黄薔薇を開花させた。
燃え上がる『嫉妬』を吐き出すことを決意する。
——そして、わたくしは間違える。
「わたくしずっと、あなたのことが……っ」
剣の才能に恵まれ、天性のセンスで世界を切り開く在り方は、アルトが得たくても得られなかったものだ。
羨ましくて、死にそうだった。
わたくしがフレンだったら、ストリートに失望されずに済んだ。
わたくしがフレンだったら、アリーナの期待を裏切らずに済んだ。
わたくしがフレンだったら、弟の存在に心が苦しまずに済んだ。
だから、全部持ってるフレンのことが嫌いだった。
世界から何もかもを与えられたのだから、世界から何もかもを裏切られてしまっても、フレンは大丈夫なのでしょう。
あなたは一人でも進んでいける。
わたくしごときに殺されるほど、弱いはずがない。
魅せてよ、フレン。そして、存分に妬ませて。
——未だ、剣に貫き止められるわたくしに。
「——堪らなく、嫌いだった」
言った。
言ってしまった。
そして、薄明な絶望に染まっていくフレンの表情と相対して、アルトは気づく。
死ぬべきは、殺されるべきは——フレンでも、『家族』でもない。
——アルト・コンサティーナだったのだ。
嫉妬も嫌悪も憎悪も羨望も好意も苦悩も尊敬も、全て抱えて死んでしまえば良かったのだ。
そしたらみんな幸せになれる。
だから、わたくしは、
「————」
自分でも何を口走ったかも判然とせずに、しかし、たしかな意志を持ってフレンを突き飛ばしたのだった。
——閃光と轟音が、アルトの傍で芽吹いた。




